Only you can make me happy or cry.


てっきり他の支店にでも異動になるのかと思いきや、場地さんの異動先が営業一課だと聞いて拍子抜けしてしまったのは約1ヶ月前の話である。

「え…一課、ですか?」
「そー、今一課に主任いねーからって」
「えっ、待ってください」
「なに?」
「……それってフロア変わるだけですよね?」

うん、と答えた場地さんが悪戯っぽく口の端を上げた。う、その顔好き…。「やっぱ同棲やめるとかナシな」と、わたしの髪に指を絡めて楽しそうに笑う彼にまんまとしてやられたのだ。別に、異動がなくても一緒に住もうと誘われたら断るわけがないのに。

それからしばらくして正式な辞令が出て引き継ぎが始まった。急ぐわけじゃないから引っ越しは場地さんの仕事が落ち着いてから、ということになった。うちの実家に挨拶に行くのは来週の予定。その話題が出るたびにちょっと緊張している場地さんが可愛いなあと思うけど、そんなことは口が裂けても言えない。今場地さんが住んでいる1LDKの部屋にわたしが引っ越すのか、それとも新しく部屋を借りるのかもまだ検討中だ。とりあえずのんびり部屋探しをしつつ、「冷蔵庫はさすがに買い換えたいですよね」「じゃあ今度の休み家電見に行くか」なんて会話に、わたしは密かに胸を弾ませていた。あと数ヶ月後には大好きな場地さんと一緒に暮らせると思うと、多少仕事で嫌なことがあっても乗り越えられた、のに。


事の発端は数週間前、以前場地さんのことを狙っていたらしい他部署の先輩に、小さなミスを指摘されたことから始まる。

「ミョウジさん、ちょっといい?」
「?はい」
「ここの数字、間違ってると思うんだけど」
「えっ、あの、」
「しっかりしてもらえる?こういう小さいミス修正するのこっちなんで」
「……すいません」

綺麗な笑顔を貼り付けて優しい声色で注意されたけれど、その目は笑っていなかった。というか間違えている、と言われた書類もそもそもわたしが作ったものではなかった。他の人が入力だけして、それ以外にも提出する書類があったからまとめてわたしがメールを送っただけ。そんなのデータを見れば分かるのに、わざわざわたしに言ってきた時点で嫌な予感はしていたのだ。それから数日おきに課長や場地さんがいないときを狙って重箱の隅を突くような小さなミスを指摘されるようになった。そのうちミスがなくても「電話を取るのが遅い」だとか「高い声が耳につく」だとか「服が派手すぎる」だとか…うちの部署に顔を出すたびに仕事に関係のないことまで注意し始めた。よっぽど場地さんとわたしが付き合っているのが面白くないらしい。

「ミョウジちゃん、あんまり気にしない方がいいよ」

あれ絶対私怨入ってるから、と顔を顰める先輩に「でもミスしたのは事実ですし…」と苦笑いして返した。実際心の中では「あんなの言いがかりじゃん!」と思っていたけれど、さすがにそんなことは口には出せない。変に言い返さずに素直に謝っていればすぐに満足して自分の部署に戻っていったし、周りは言いがかりだってちゃんと分かってくれていたからそれでいいやと思っていた。「場地さんに相談したら?」と何度か先輩に言われたけれど、異動前の忙しいときにこんなことで手を煩わせたくなくて言えなかった。本当は場地さんに「それお前悪くねぇじゃん」って言ってもらいたかったし、そう言ってもらえれば耐えられるのにな、とは思っていたけれど。

場地さんは2人でいるときは仕事の話を滅多にしない。仕事とプライベートは分けるタイプなんだってことは分かってはいる。それでもいつまでも何も気付かず何のフォローもないことにちょっとモヤモヤしてしまうぐらいには例の先輩からの小言は続いた。もはやほとんど嫌がらせだった。


なにより最悪だったのは、そんなときに本当に大きなミスをしでかしたことだった。それも、よりにもよって場地さんの担当する顧客の手配ミス。

「なぁ、これって出荷指示送ってる?」
「え…あっ、すぐ確認します!」
「今日入庫だぞこれ」
「す、いません…手配漏れです…」
「マジかよ…」

やってしまった、と思ったときにタイミング悪く例の先輩がこっちのフロアに来ていた。

「ミョウジさん、なにしてるの?」
「……あの、」
「手配漏れって、そんなミスありえないと思うんだけど」
「すいません…」
「ちゃんとチェックしないからこうなるんじゃないの?」

いや、あなたこの件に関係ないですよねと思ってはいたけれど、そんなことより今はこのミスをどうフォローするかで頭がいっぱいだった。心臓がばくばくと大きく音を立てて背中に冷や汗が流れる。どうしよう、どうしよう。どうやってリカバーすればいいんだろう、あっちの在庫の出荷を止めてこっちに回せばなんとかなる?でも明日土曜だしそもそも荷物って受け取ってもらえるのかな…あぁもう早くしなきゃ、って考えていたら「わたしの話聞いてる!?」と大きな声でまた責められた。ビクッと肩を揺らしてすいません、と小さくなるわたしを見て、ふっと鼻で笑われた。

「場地くんも可哀想。異動直前にこんな迷惑かけられて」
「………」

本当のことだったから何も言い返せなかった。結局わたしが怒られている間に他の先輩が手配をしてくれて1日遅れの出荷で取引先も了承してくれたけれど、自分のミスを自分でカバーすることすらできなかったことが情けなくて仕方なかった。「今のは関係ないのにこのタイミングでミョウジちゃんを引き留めたあの先輩が悪いよ」と先輩にフォローまでしてもらって、情けないのと悔しいのとホッとしたのとでもう涙腺は崩壊寸前だった。

「場地さんすいません…明日の午前着で了承いただいて手配してます」
「…分かった。次から気を付けて」
「はい、すいませんでした」

自分の席に戻ったとき、場地さんの呆れたような小さな溜息が聞こえてきて、今度こそ心が折れた。やばい、ほんとに泣きそう。でも今トイレに行ったりしたら絶対泣いたってバレるだろうし、こんなことで泣くようなやつだと思われるのも嫌だ。そう思うのにじわじわと目尻に涙が浮かんでくる。でも職場で泣くのだけは絶対に嫌だったから、どうにか深呼吸して溢れる寸前の涙をギリギリ堪えたけれど、一度だけ鼻を啜ったら思いの外大きな音がオフィスに響いてしまった。あぁもう最悪だ。


場地さんはあれから商談で外に出ていて、システムに登録されているスケジュールを確認したら直帰になっていたから遅くなるのかもしれない。今日は仕事が終わったら場地さんの家に行く予定だった。きっとわたしの方が先に仕事が終わるだろうから夕飯作って待ってますね、と言ったら「煮物以外な」という毎回恒例のリクエストももらっていて。それで明日の土曜日は一緒に不動産屋さんに行って、時間があったら家具と家電を見に行こうって話をしていたのに。もし行かなかったら場地さん怒るかな…怒るよなあ…。それともいつまでも仕事のミスを引きずっていることを呆れられるだろうか。でも今日はもう顔を見たくない。でもでもこれで行かなかったらそれはそれで構ってほしいアピールみたいでうざいかもしれない。そんなことをうじうじと考えていたらあっというまに退勤時間を迎えてしまった。残業でもしようかなと思ったのに今日に限ってすでにTODOリストは真っ白だ。

場地さんの家に行くか、自宅に帰るか……散々悩んで結局行くことにした。逃げたところでうちまで来られたら意味ないし、それに多分、あの人を怒らせる方がやばい…気がする。一緒に住んだらこういう時の逃げ場無くなっちゃうよなぁとふと同棲のデメリットまで考えてしまうぐらい、このときのわたしのメンタルはズタボロだった。

重い足を引き摺って予定通りスーパーに寄ってから場地さんの家へ向かい、いつものように合鍵を使って中に入るとリビングから明かりが漏れていて「おかえり」と既に部屋着に着替えている場地さんが顔を出した。

「えっ」
「えってなんだよ」
「いや、だって…え、仕事は?」
「もう終わった」
「嘘だぁ…」

「なんでだよ」って笑う場地さんに頭を撫でられて、張り詰めていた糸が一気に緩んで涙腺が壊れた。玄関先でぼろぼろと泣き出したわたしを見て場地さんが苦笑いしている。キッチンからは何やら良い匂いがしていた。場地さんの家の冷蔵庫には普段お酒と牛乳と萎びた野菜とわたしが勝手に置いて行った調味料ぐらいしか入っていない。いつも料理なんてしないくせに、こういうときだけ、ほんとズルい。

「あー、もう泣くなって」

目尻をかさついた指で雑に拭われるとちょっとだけヒリヒリした。痛いですとか、わたしも夕飯の食材買ってきちゃいましたよとか、色々文句を言いたかったけれど次から次へと零れてくる涙と嗚咽にかき消されて何も言えなかった。

「あーあ、ひっでー顔」
「ぅ…ずびっ、」
「ほら、泣き止めって」
「…ばじさん、」
「ん?」
「今日はすいませんでした…」

泣きながらこんなタイミングで謝るなんて我ながら卑怯だなとは思う。予想通り彼は「お前まだ引き摺ってんのかよ」と呆れたように言った。

「だって、場地さん溜息吐いてた」
「…あれは、どっちかっつーと自分に腹が立って」
「え?」
「お前があいつになんか言われてんのは知ってたけど、俺が言っても逆効果だろうから口出すなって課長に言われて」

ふわりと優しく抱き寄せられて「ちゃんと庇ってやれなくてごめん」そう言って珍しくわたしに甘えるように肩口に額を擦り寄せられて胸の奥が擽られる。

「手配ミス、は…今後は気をつけます」
「そうして」

「つーかミスなんてそのあとどうフォローするかだろ。それなのにいつまでもナマエ引き止めて注意する意味がわかんねー」というその言葉だけで、場地さんがちゃんと分かっていてくれただけで、もう十分だ。さっきまであんなにミスしたことで落ち込んでいたのに、単純な思考はすぐにふわふわとした多幸感に包まれる。身体の真ん中のボロボロになったところがゆっくりと元の形に戻っていくような感覚。

「風呂沸いてるから入ってこいよ」
「場地さんと一緒がいいです」
「……アホか」

軽く頭を叩かれて「もう飯出来るから先に入ってこい」と言われてしまった。

「だめですか」
「だめじゃねーけど、」
「けど?」
「…色々我慢できなくなンだろ」
「いつも我慢なんてしないくせに」
「お前なぁ…」

いい加減にしろともう一度頭を叩かれたから渋々頷いて、先にお風呂を借りた。ちょっと熱めのお湯は場地さんの好み。そこにわたし用に置いているお気に入りのSHIROのバスオイルを入れると湯気と一緒にふんわりと香る優しい匂いに、段々と心が落ち着いていく。こんなんより旅の宿の方が良くね?と言っていた場地さんの入浴剤の好みがちょっと親父臭いなと実は前から思ってた。言わないけど。自分の好みは曲げない割にわたしとのちょっとの歳の差を意外と気にしているのが可愛くて好きだなぁと思う。

お風呂から出るとちょうど炊飯器がピーッと音を鳴らしたところだった。今日のおかずは適当に切られた野菜と豚肉を焼肉のたれで炒めただけの簡単な野菜炒めだった。なんとも場地さんらしい。フライパンを洗う彼の隣に並んで、「お味噌汁作っちゃいますね」と言うと「オーよろしく」と言いながらもちょっと嬉しそうにするのがたまらなくツボ。可愛い。こういうのほんと弱いよなあ。

「「いただきます」」

テレビの前にあるローテーブルの上には場地さんが作ってくれたおかずとご飯と、豆腐とネギのお味噌汁。そして先日会社で貰ったお中元の黒恵比寿。ささやかな食卓とちょっと豪華なビールを前に2人で並んで手を合わせた。食べ始めてからぽつりと零された「引っ越したらダイニングテーブルもいるよなあ」なんて言葉がどれだけわたしを喜ばせているのか、この人は分かっているんだろうか。二人で夕飯の片付けをしたあと場地さんが買ってきてくれたダッツよりもお高いアイスを食べて、ソファに並んで金曜ロードショーを観た。映画の途中でうとうとしはじめた頃に甘えるように隣に座る彼の肩にもたれ掛かれば「眠い?」と聞かれたので小さく頷くとそのまま抱きかかえてベッドに運ばれた。ベッドの上に優しく寝かされて、布団を掛けられて、いい感じにほろ酔いだし、今週も仕事で疲れていたし、明日は朝から不動産屋さんに行く予定だから早く寝た方が良いのは分かってはいるんだけど。

「しないんですか…」

赤くなっているであろう顔を隠すように場地さんの胸元に擦り寄って、消え入りそうなぐらい小さな声でぽつりと零した言葉はしっかり届いていたらしい。ふっ、と聞こえた吐息のような笑みに更に羞恥心を煽られる。

「シてぇの?」
「…シ、たい…です、んっ」

言い終わるのと同時に噛み付くように唇を奪われて、そのまま2人でシーツの海に縺れ込んだ。



朝起きると隣に場地さんはいなかった。先に起きて一服でもしているんだろうか。枕元の時計を見て、自分が思っていたよりも長く眠っていたことに気付く。それから起き上がる前に布団の中をそっと覗いて、自分がパンツを履いていることと、彼のTシャツを着ていることだけをなんとか把握する。ブラは着けていなかったけど。

……やばい。なにがやばいって昨夜のわたしがやばい。なんかものすごい盛り上がってしまった、気がする。気がする、というか実際めちゃくちゃ盛り上がったし自分でも引くほどイった。例のごとく潮も噴いて、なかなかとんでもないことまで口走ってしまった。思い出すだけで今すぐ消えたいぐらい恥ずかしい。ジタバタしたい欲求に駆られて勢いよく布団に潜り込んだ。

「起きた?」
「………」
「オイ、無視すんな」
「おはようございます…」

寝室に入ってきた場地さんがベッドに腰掛けた。顔を出さずに小さく返せば、柔らかいタオルケットごと包み込むように抱きしめられた。引っ付いた身体越しに彼が楽しそうにくつくつと笑っているのが分かる。あぁもう、場地さん昨日のこと忘れてくれないかな。

「昨日すごかったなァ」
「……」
「なんだっけ、気持ち良すぎて頭おかしくなりそう〜、だっけ?」
「………」
「もっと気持ちいいことしてってオネダリしてくるし」
「…………」
「奥ぐりぐりして、場地さんのでいっぱいにし「あーもう言わなくていいです!!」

慌てて布団から出て恥ずかしすぎる言葉を遮るように場地さんの口に掌を押し付けると、かぷりと歯を立てられた。

「ひゃっ」

慌てて手を引っ込めようとすると、今度は手首を掴まれて掌に唇を落とされる。ニヤリと笑った場地さんの顔をもう直視できない。

「なぁ」
「なんですか…」
「昨日言ったこと、全部覚えてんの?」
「お、ぼえて、ます…」

いっそ忘れられたらどれだけ良かったか。ていうか殴ってでもいいから記憶を消してほしいぐらいだ。


「あ、」
「え?」
「ゴム、もうねーわ」

2回戦の途中、わたしはこの時既に散々イカされていたけれど場地さんがまだ満足していないのはどう見ても明らかで。わたしはあろうことか彼に「ゴム着けなくてもいい」と言ったのだ。「バカ、だめに決まってんだろ」と場地さんはちゃんとそこで止めようとしてくれたのに、やだ、とか場地さんもちゃんと気持ち良くなって、とかなんとか言ってその上に跨り自分で挿入した。ナマでシた経験なんてもちろんこれまで一度もなかったわたしは、過ぎる快感にかつてないほど大胆になってしまった。多分この時のわたしはIQ3以下だった。場地さんのいつもより余裕のなさそうな表情に無駄にときめいてしまって「もう出るから退け」と言われてもそのまま腰を振り続け「このまま出して」って「場地さんの、ナカにください」って言っ、た……。「熱いのいっぱい出てる」とか「ばじさん、だいすき」とか思ったままに口走って、そのあとは意識を失うように眠りについてしまったけれど、多分終わった後で場地さんがナカから掻き出してパンツとTシャツを着せてくれたんだろう。あぁもう、このまま消えてなくなりたい……。

なのに少し煙草の匂いが残る指先でわたしの頬を撫でて、俺は嬉しかったけど、なんて甘い声で言われてまた心も身体もきゅんと疼いた。ズルい…と小さく零せばどっちがだよ、と返ってきたけれど、どう考えても場地さんの方がズルいと思う。「不動産屋行くんだろ?早く準備しろよ」と言われて、小さく頷いてもぞもぞと布団から出ると、リビングからコーヒーの匂いがした。


「やっぱ2LDKの方が良くね?」
「うーん、でも高いし…会社からあんまり遠いのもなぁ…」
「それなんだよなー」

つーかペット可物件少な、と嘆く場地さんにそれは一旦置いておきましょうよ、と苦笑いした。場地さんの昔からの友人だという不動産屋さんでいくつか内見させてもらい、大量の資料をもらってきた。休憩しようと入ったカフェのカウンター席で渡された資料を前に、2人でウンウンと唸っていたところである。

「別に今のマンションでも良いと思うんですけど」

場地さんの今住んでいる部屋は一人暮らしには少し贅沢な広めの1LDKだ。会社からも近い。更新だってまだ先だし、家具や家電を買い替えるなら少しでも安く済ませた方が良いに決まっている。

「それは、まぁそうなんだけど…」

珍しく歯切れの悪い場地さんの顔をどうしたんですか?と覗き込むとふい、と視線を逸らされた。少し長めの黒髪からちらりと見えた耳が赤い。

「パー…さっきのダチが、そういうつもりなら広い部屋にしとけって」

親に挨拶して同棲するんだからそりゃあ、そういうつもりがないわけではない、ないけども。ぶわっと顔どころか首まで真っ赤になったのが分かる。指先がむずむずして心臓がぎゅうっと締め付けられるような感覚なのに、足の先はふわふわとして覚束ない。もう、なんだこれ。

「場地さん」
「…ンだよ」
「やっぱり、2LDKのペット可物件がいいです」
「あっそ」

誤魔化すようにコーヒーを口に運んだ場地さんを真似るように、冷たいフラペチーノを啜った。

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