Stay who you are.


ナマエは基本的にわがままを言わない。言ったとしても、どれも大したことないわがままとも呼べないようなものばかりだ。それも俺が何度も促してから遠慮がちに言うものだから、もっと我慢せずに言いたいことは言えばいいのに、と前から思ってはいたけれど、ナマエが何も言わないことに甘えていた自覚もある。少し前から様子がおかしいことにも気付いていた。普段は滅多にそんなことしないのに自分から誘ってきたり、独占欲だとか言ってネクタイを選んだり、かと思えば急に不機嫌になったり。そのときも「ちょっといやなことがあったから八つ当たりしてしまった」と言っていたけれど、それは多分嘘で。ナマエが言いたいことがあっても言えない性格だって、分かっていたはずなのに。めんどくさいなんて、本気で思ってそう言ったわけじゃない。

「もう、いいです」

珍しく言い合いになったあと、今にも泣きそうな声でそう言ってリビングから出て行ったナマエの後ろ姿を見て、このとき俺はようやく「やばい」と気が付いた。カッとなっていた頭が急速に冷めていくのがわかる。寝室に閉じ籠るナマエに何度か声をかけようとして、結局何を言えばいいのか分からなくてやめた。仕方なく、足を伸ばして寝るには狭いリビングのソファでの上でもぞもぞと寝返りを打つ。疲れているはずなのに、朝起きてナマエが荷物ごといなくなっていたら…と思うと到底眠れるわけもなくて。普段は滅多にしない自己嫌悪で、心臓の辺りが重苦しくなるのを感じた。


ここ最近、繁忙期でもないのにやたらと仕事に追われていた。原因は4月にうちの部署に配属された新卒だった。家が同じ沿線で、最初の歓迎会で家の近くまで送ったこともあってかどうやら懐かれてしまったらしい。元々いくつか俺の持っている顧客を回す予定で外回りに同行させたことはあったけれど、教育担当の他の営業社員とはあまり気が合わないから、となにかにつけて仕事のことで声をかけられるようになった。その度に事務処理に追われていた手を止めないといけないし、なんで俺が、と思いながらも無視するわけにもいかず対応していた。そのせいで教育担当の社員には「自分のせいですいません…」と謝られるし、そっちのフォローまでしていたら到底自分の仕事なんて終わるはずもない。最初は明るくて元気があって良い子だと思っていたけれど、いつまでも学生気分が抜けきらない様子や奔放な振る舞いに、だんだんと部署全体の空気まで悪くなっていくのが分かった。それでもみんな「新卒に辞められるのはまずい」という共通認識のもと我慢していた。課長にまで「場地くんにばっかり負担かけてごめんね」と謝られたぐらいだった。「最近忙しそうですね」と困ったような顔をするナマエにも、何度か愚痴をこぼしそうになってやめた。家に帰ってまで俺の仕事の愚痴なんて聞きたくないだろうと思ったから。

会議終わり、昼の前に一服…と思っていたときに「お昼ご一緒してもいいですか?」と声をかけられて、思わず「今から外出るから」と咄嗟に嘘をついたこともある。なんで昼までコイツの面倒見なきゃなんねーんだよ。この頃にはいっそ異動になんねーかな、なんて割と最低なことも考えるほどにはこの新卒に苦手意識を持っていた。連休明け辺りからプライベートなことを聞かれたり、仕事終わりに飯に誘われることがやたらと増えたからひょっとして…と思ったことは正直何度かあったけど、歓迎会のときに彼女がいるという話はしていたし、さすがに自意識過剰だろうと気にしないようにしていた。

「あの、仕事のことで相談があるんですけど…場地さん、明日の夜って空いてますか?」

そう聞かれたとき、思わず零れ落ちそうになった深い溜息をぐっと堪えた。仕事の相談と言われたら断るわけにもいかなくて、休憩室か近くのカフェで話を聞いたらさっさと切り上げようと了承したのが間違いだった。翌日の仕事終わり、「もうお店予約してあるんです!」と無理やり飲みに連れ出されて、仕事の話もほとんどせずにプライベートな話を聞かれ聞かされ、「飲みすぎちゃいました」と顔を赤くする若い女子を1人で帰らせるわけにもいかず、タクシー代だと金を渡そうとしたら家まで送ってほしいと酔っ払いに駄々をこねられて。正直その場でキレ散らかさなかった自分を褒めてやりたいぐらいだったし、俺も大人になったもんだと思った。昔の俺なら立場なんか気にせずにもうとっくにキレてる。精神的にめちゃくちゃ疲れ果てて、日付が変わる少し前に家に帰ると明らかに機嫌の悪いナマエに「本当に、残業だったんですか」と言われて、ここ最近の溜まっていた鬱憤を思わずぶつけてしまった。

ようやく瞼が重くなり始めたのは外が薄っすらと明るくなり始めた頃だった。いつのまにか寝落ちていたらしい。どれだけ睡眠不足でもいつもの時間にスマホのアラームが鳴ると自然と目が覚めるぐらいには社会人生活が身に染み付いている。狭いソファで寝たせいか、持ち上げた身体がぎしりと悲鳴をあげた。それからハッと飛び起きてナマエは、と姿を探すと「先に行きます」という書き置きをテーブルの上に見つけて、思わず小さな溜息が溢れる。一体何時に出ていったのか。一応寝室のクローゼットを開いてみたけれど、特に荷物が持ち出されたような形跡はなかった。どうやら本当に仕事に行っただけらしい。でも、もしかして今日仕事から帰ってきたらナマエが荷物ごといなくなってるんじゃないか、なんて考えたら、もうその日は1日仕事に身が入らなくて。同僚に「どうかしましたか?」と聞かれても「いや、別に…」と答えるだけで精一杯だった。仕事とプライベートは分けたいタイプだし、実際今まで公私混同なんてしたことなかっただけに、こんな自分に少なからずショックを受けた。

ありがたいことに今日は会議も外回りの予定もなくて、集中し切れない頭でどうにか今日の分の事務仕事を終えたのはまだ定時を少し過ぎた頃。それでもナマエはもう帰っているだろう。「お疲れ様です」と慌ててオフィスを出ようとしたところで、また「場地さんっ」と高い声に引き留められた。チッ、と舌打ちしそうになるのをどうにか堪えて「…なに?」と吐き出した声に不機嫌さが全面に滲み出てしまったのは許されたい。

「あの、昨日はありがとうございました」
「あー…うん。じゃあ、」
「あと、帰りはすいませんでした。わたし思ったより酔っちゃって、わざわざ家まで送っていただいて…」

コイツ、本当に悪いと思ってんのか?と疑いたくなるような楽しそうな声で話す女に更に苛立ちが募る。もはや苦手を通り越して若干嫌いになりつつあった。つーか、送りたくて送ったわけじゃねーんだけど。どうでもいい会社の部下をわざわざ送り届けるほど、俺は優しい上司じゃない。まだ何か話そうとする声を「悪いけど、今急いでるから」と遮った。

「えっ、あの…」
「じゃあ、お疲れ」

まだ何か言いたげな彼女を残し一方的に話を終わらせてオフィスを出た。こんな言い方をして、明日課長になにか言われるかもしれないと思ったけれど、やっぱり人間そう簡単に大人になれるもんでもないらしい。我慢するのは性に合わない。あの場でキレ散らかさなかっただけマシだと自分に言い聞かせた。電車に飛び乗ってから、つーか昼休みにでもとっ捕まえれば良かったと気付く。そんな思考にも至らないほど余裕がなかった。つい早足になる駅から家までの帰り道。外から見えたマンションの部屋にまだ明かりはついていなかった。



場地さんとケンカしてしまった夜はほとんど眠れないまま、外が明るくなる前に目が覚めた。当たり前だけど隣に場地さんはいなくて、泣き腫らした瞼がまたじくじくと熱を持ち始める。まだ起きるには早すぎる時間だったからしばらく布団の中でごろごろしていると、数日前に駅での話を聞いた直後に鍵をかけたインスタに、1件フォロー申請が届いていることに気が付いた。まさか、と思って確認するとやっぱりあの新卒の女の子からだった。見なきゃ良いのに、その子のページに飛んでつい見てしまった最新のストーリーには『会社の先輩と』『いつもありがとうございます!』とコメントが添えられていた。背景にはお洒落な飲み屋が映っていて、向かいに座っている男性は恐らく場地さんで。ていうかこのネクタイ、昨日してたやつだし、絶対そう。それからようやく、わたしをフォローしたかったんじゃなくてこれを見せたかっただけなんだろうな、と気が付いた。住所のことといい、こんな写真を撮られちゃうなんて場地さん隙だらけすぎでしょ…と小さく息を吐き出して、再び布団に潜り込んだ。

いつも通りに定時で仕事は終わったけれど、どうにも家に帰りたくない。朝も顔を合わせずに出てきてしまったのが良くなかったのだろうか。…今日は実家に帰ろうかな。それとも友達の家に泊めてもらおうか。きっと場地さんは今日も残業で遅くなるだろうから、彼が帰ってくる前にある程度荷物をまとめてしまえばいい。どうせ明日出社したら会うんだし、別に今日ぐらいは逃げたっていいんじゃない?でもそんなことしたら場地さん怒るかなぁ…とぐだぐだと考えながら時間稼ぎをするように残業をして、今日終わらせなくても良い仕事を片付けていた。このまま部屋を出たらどうなるんだろう。場地さんは探してくれるんだろうか。それとも呆れてそのまま捨てられたりするのかな。昨日吐き捨てられた「めんどくさい」の一言を改めて思い出してはまた勝手に落ち込んでしまう。オフィスを出たのは定時から1時間が過ぎた頃だった。こんなときに限って今1番会いたくない人にエレベーターで鉢合わせしてしまうんだから、本当に嫌になる。すぐにわたしに気付いて「あ、お疲れ様です」と笑った女の子に、同じように「お疲れさま」と笑って返してみたけれど、多分頬は引き攣っていたしうまく笑えた気はしなかった。

「まだ残ってたんですか?」
「まぁ…」
「場地さん急いで帰ったからてっきり彼女さんと待ち合わせなのかなって思ったんですけど、違ったんですね」

昨日の夜中のインスタといい、この煽るような言い方といい、到底会社の先輩にするようなことではないとは思うけど。今のわたしには彼女に言い返す気力もなくて、前を向いたまま「そうなんだ」とそっけなく返した。「ていうか、場地さんとミョウジさんが付き合ってるのちょっと意外でした」と言われて、ぴしりと身体が固まる。この子はわたしが言い返さないからってなんでも言っていいと思ってるんだろうか。

「お2人って、タイプ違いますよね」
「…なにが言いたいの?」
「あ、すいません。失礼でしたよね、こんな言い方…」

分かっていて言ったくせに。ちょうどエレベーターの扉が開いたタイミングで「まさかミョウジさんがそんなに怒ると思わなくて…」とわざとらしく口元に手をやって眉を下げて申し訳なさそうな顔を作った。その場にいた他の人にはわたしが一方的に怒っているように見えるんだろうな。煽ってきたのは向こうなのに。「別に怒ってないよ」なんて、なんでわたしがこんなこと言わないといけないんだろう。小さな声で「お疲れ様です」とだけ告げて、逃げるようにその場から立ち去った。


結局まっすぐ返ってきてしまったマンションの玄関の前にしばらく立ち尽くす。ついさっき起きた出来事を思い出すだけでもやもやとしたものが身体の奥の方に渦巻いて、それを追い出すように吐き出そうとした息は重たい溜息となって口から溢れ出た。ぎぃ、と引いた玄関の扉もいつもよりずっと重たく感じてしまう。はぁ、ともう一度溜息をついたとき室内からバタバタと大きな足音が聞こえて、引こうとしていた扉が内側から勢いよく開けられた。

「……早かったんですね」
「誰のせいで早く帰ってきたと思ってんだよ、バカ」

あの子が、「急いで帰った」と言っていたから、きっと家にいるんだろうとは思っていたけれど。場地さんが少しほっとしたような声で「おかえり」と言った。「…ただいま」とぎこちなく返すと、いつまでも玄関の外に突っ立っているわたしの腕をゆるく掴んで、部屋の中に引き入れられる。雑にパンプスを脱ぎ捨てると低めのヒールが床にぶつかって、かこん、と鈍い音が鳴った。

「…帰ってこねー気かと思った」
「いや、まぁ…割と本気で出ていこうかなとか、考えたりもしましたけど…」

「そんなことしたら、めんどくさいかなって」と、小さい声で言うと「別に、めんどくさくねーから」と間髪入れずに返されて、掴まれたままの腕に少し力が込められる。こういうことを言われると、1人で考えていたあれもこれも、さっきあった出来事も、もう全部どうでも良くなってきてしまうから困る。わたしが一言謝ってそれでこの気まずい空気がどうにかなるなら、それでいいんじゃないの、って。さっきみたいなのは、わたしが我慢すればいい。

「あの、昨日は…」

すいませんでした、と謝ろうとしたとき、くるりと振り返った場地さんに両頬をぎゅっと摘まれた。指先には結構な力がこめられていて思わず「いひゃい」と情けない声が出る。でも場地さんはそれ以上何も言ってこない。もう一度「いひゃいです」と訴えると、ようやく離された頬をすりすりと擦る。

「はぁ…」
「…場地さん?」
「お前は、理由もなく怒ったり拗ねたりしねーだろ」
「……そういう日だってありますよ」
「うそ」

「そんな泣きそうな顔して言われても説得力ねーよ」と言われて、自分が今とんでもなく情けない顔をしていることに気付いて俯いて目を逸らした。再び手を引かれて、リビングに入るとソファに腰掛けるように目で促された。大人しくそれに従うと、隣の空いたスペースに場地さんがどかりと座り込む。お互いに次の言葉を探しているようで、しばらく沈黙が流れた。それからふー、と長めに息を吐き出した場地さんが「昨日はごめん」とぼそりと呟いた。

「めんどくさいとか、思ってねーから。最近仕事立て込んでてイライラしてただけで」
「…わたしも、すいませんでした」

足の先にじんわりと血が通っていくような感じがして、ふ、と力が抜ける。これでいい。良かった。仲直りできて。そう思っていたときに「でも、なんでお前がそんなに怒ってたのかがわかんねー」と続けられてまた心臓がぎゅうっと緊張していく。

「そ、れは…別に、もういいっていうか」
「いつもそう言うけど、本当にそれでいいのかよ」
「……」
「俺はそういうの察するとかできねーし、言われねーと気付いてやれないから」

「何言われてもめんどくさいとか思わねーから、言って」と言われて、途端に目の奥が熱くなって、ぼろぼろと溢れてくる涙を慌てて袖で拭った。それから、これまであったことを話した。駅で聞いた話と、SNSを特定されたこと、さっきエレベーターで言われたことも。2人で飲みに行ったのが嫌だったとか、あの子にあんまり優しくしないでほしいとか、言わなくてもいいことまで全部。本当はずっと言いたかったし、聞いてほしかった。でもそんな話をしたって場地さんを困らせるだけだと思っていたし、こんな告げ口みたいなことをして嫌われる方が怖かった。

「はぁー…マジか…」
「すいません、こんな話」
「いや、それは別に。つーかお前そういうことはもっと早く言えよ」

ぐずぐずと何度も鼻を啜りながら一通り話し終わったあと、「SNS特定するって、今時の若者怖すぎだろ」と言ってから場地さんはわたしの鼻に数枚抜き取ったティッシュを押し付けた。

「こんな性格悪いとこ、知られたくなくて」
「別に普通だろ」
「だってわたし、あの子が仕事ですごいミスやらかして場地さんに嫌われちゃえばいいって思ってる」
「まぁ、確かにそれは困るけど」

小さく笑った場地さんが、わたしの頭を軽く引き寄せた。煙草と汗と柔軟剤の匂いの中に、彼の匂いが僅かに混じっている。前はもっと強く感じたそれがだんだんとわたしと同じ柔軟剤の匂いに掻き消されているのが嬉しいような悲しいような。

「…自信が、ないんです」
「自信?」

もし出会うタイミングがわたしよりあの子の方が先だったら、もっと場地さんと気が合う同世代の人が現れたら…そんなことを考えるだけでぞっとするぐらい怖くなる。わたしはたまたま運良く場地さんと付き合えているだけだ。この先もずっと、わたしを選んでもらえる自信がない。

「ずっと場地さんを繋ぎ止められる自信」
「…んなもん、俺だってねーよ」
「いや、それは自信持っていただいて…」
「なんだよそれ」

呆れたように小さく笑ったのが触れた身体越しに伝わる。さっきまでとは違ういつもと同じ空気に、ぎゅっと緊張して強張っていた身体がゆっくりと解けていく。

「でも、」
「ん?」
「わたしのことで余裕なくしてる場地さん見ると、なんかほっとする」
「…あっそ」

顔見たいなって思ったら頭を抱き寄せていた腕を肩に回されて、身体全部をすっぽり包み込むようにして抱きしめられた。これでは顔も上げられない。ずるい、と思ったけれどこれが彼の照れ隠しなのも分かっていたから、そのまま素直に身を預けて甘えるようにおでこをぐりぐりと押し付けた。

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