Let’s kiss and make up.


「おい、何時まで寝てんだよ起きろ」
「やです…あと20分は寝れます…」
「朝飯ちゃんと食えっていつも言ってんだろーが」

ばさりと布団を剥ぎ取られて身震いする。それをもう一度手繰り寄せて潜り込むと、はぁ、とため息が聞こえたけれど気付かないふりをした。昨日夜遅くまで寝かせてくれなかったのはどこの誰だと言ってやりたい。…いやまぁ誘ったのはこっちですけど。結局その5分後にもう一度叩き起こされて、キッチンで立ったままヨーグルトと食パンをかき込んだ。食洗機を開けると、場地さんが使ったらしいフライパンと白いお皿が入っていた。ちゃんとした料理はほとんどしないくせに、こういとこわたしよりよっぽどしっかりしてるよなぁ、と社会人としていくつか先輩である場地さんが、今日のわんこを観ながらコーヒーを飲んでいる姿をぼんやりと眺める。何をしていてもかっこいい彼だけど、欠伸をしたときにちらりと見える無防備な八重歯がたまらなくかわいい。思わずじぃっと見てしまっていたらしい。わたしの視線に気づいた彼に「なに?」と聞かれて「わたしの彼氏が朝からかっこいいなと思って」と返すと、すごい顔をされた。本心ですけど。

歯磨きをして、簡単に髪をまとめて、仕事用のメイクをして。帰りにクリーニング取りに行かなきゃ、なんて考えながら、わたしの服と鞄が8割を占める共有のクローゼットを開けた。後ろから来た場地さんに「今日はこれがいいです」と濃紺無地のネクタイを渡すと「ん、」と短い返事が返ってくる。今年のバレンタインにチョコと一緒にプレゼントしたものだ。

「お前これ好きな」
「…独占欲、ってやつですよ」

首輪みたいな?と冗談ぽく笑いながら彼の首に回した。全然冗談じゃないけど。「これで合ってます?」なんて言いながら結び、「下手くそ」と返されて最後に微調整されたそれを見ながら昨日のことを思い出す。


年度末にまとめた書類を倉庫へと運び、段ボールの中に仕舞っていく。こんなの全部デジタル化すればいいのに、と心の中でぼやきながら段ボールに油性ペンで『◯年度、第◯期』と書き込んだ。スカートについた埃を払い、書類倉庫から出てオフィスに戻る途中の廊下を今日夕飯はなににしようかなぁ、なんて考えながらぼーっと歩いていると、前から場地さんが歩いてくるのが見えた。後ろにいる誰かに説明しながら歩いているらしく、こちらには気付いていないようだった。そういえば場地さんの部署は今日から新卒が配属になるって言ってたっけ、と思い出す。

「お疲れ様です」
「おー、お疲れ」

すれ違うときに挨拶をすると、場地さんの後ろからひょこっと顔を出した女の子も軽く頭を下げた。くるんと上を向いたまつ毛と、ぱっちりした二重。黒目が大きくて、パッと見て可愛い子だな、と思った。

「あー、うちの部署の新卒」

そう簡単に紹介されて「よろしくお願いします!」と慌ててもう一度頭を下げた女の子を見て思わず「わぁ、若い」と溢すと「お前も十分若けーわ」と場地さんに笑われた。言いたいことはわかるけど、まだ大学を卒業したばかりの2つ年下の子なんてどうしても若く見えてしまう。まだ着慣れないスーツと、しっかりとまとめられた髪。初々しい空気がなんだか懐かしい。「こっち、前の部署で一緒だった内勤のミョウジサンな。今3年目」と紹介された。社内だし、相手は新卒だし、当たり前だけど場地さんがわたしを彼女だとは紹介しない。久しぶりに場地さんに苗字を呼ばれたことをなんとなくむず痒く思っていたら、女の子の視線がわたしの頭のてっぺんからつま先まで品定めするかのようにすっと動いた。それからにっこりと笑って、もう一度「ミョウジさん、よろしくお願いします」と言われた。気付かないと思ってやっているのか、わざとなのかは分からないけど…前言撤回、全然可愛くない。ていうか、なんか、ものすごーく嫌な予感がする。女の勘というのは嫌なときほど良く当たるものだ。「場地さんって顔は怖いけどいい人だから、頑張ってね」と握り拳を作って見せたのはしょうもない牽制だ。「あ?うるせーわ」と軽く頭を叩かれた。

「仲良いんですね」

そう言った女の子の目が笑っていなくて、あぁやっぱり…と頭を抱えたくなった。この天然人たらしめ。今日の夕飯は煮物にしてやる。「じゃあわたし行きますね」とその場から離れて、昼休みに入ってすぐに「帰りに買い物頼んでもいいですか?」「牛乳と卵と、柔軟剤もお願いします。いつものやつ」とLINEを送り、今すぐあの女の子にスマホの画面が見えるようにしてLINEを見ろ、と念じた。こんなわたしに彼女の余裕なんてものは微塵もない。そしてお願いしたものを買ってきてくれた彼のTシャツを着て「おかえりなさい」と出迎えたら、そのままベッドに引き摺り込まれた。計画通りである。ちょろすぎてむしろ心配になった。

ネクタイを結び直した場地さんにハンガーから外したジャケットを手渡してから、クローゼットの中からブラウスといつものテーパードパンツではなく、隣にかけられていたタイトスカートに手を伸ばした。

「昨日の、」
「なに?」
「新卒の子、頑張ってますか?」
「さぁ」
「さぁって…」

別に教育担当でもねーし、という場地さんの言葉に苦笑いしながら着替えていく。確かに主任と新卒なんて同じ部署でもそこまで関わることは多くはないだろう。自分が新卒の頃も、主任代理だった場地さんとまともに会話をしたのは入社して1ヶ月以上が経ってからだった。

「そっちは新卒いねーんだっけ?」
「今年は来ないみたいですね。部署異動で今度営業さんが1人増えるとは聞きましたけど」
「ふーん」

鏡で全身を確認していると、「ゴミってこれだけ?」と玄関から声をかけられた。昨日のうちにまとめて玄関に置いておいたゴミ袋のことだろう。当たり前のように一緒に玄関を出てから、「そういえば今日って出社しますか?」と聞くと「いや、直行」と返ってくる。

「帰りは?」
「そんな遅くなんねーとは思うけど」
「はーい」

一緒に暮らし始めて約半年、こんな会話にいちいちドキドキすることも無くなった。その割に年下の女の子に取られるんじゃないかと不安になってしまうぐらいには自信はないんだから嫌になる。それでも、駅に着いて「今日は煮物以外な」と頭をぐしゃぐしゃと撫でてから反対のホームに向かった場地さんの背中に簡単にきゅんとしてしまうわたしの方がよっぽどちょろい。

それから数日、なにごともなくいつもの日々が過ぎていき、やっぱり心配しすぎだったかなぁと思っていた矢先だった。事が起きたのはその週の金曜日。その日は前から歓迎会で飲みに行くから夕飯はいらないと言われていた。久しぶりの1人で過ごす金曜の夜。コンビニで買ったもので簡単に夕飯を済ませて、1人でのんびりするのもたまにはいいなぁ、なんて考えながら、最近配信された場地さんは全く興味のなさそうな恋愛ドラマを1話から再生していく。場地さんから「今から帰る」とLINEが届いたのは21時半頃だった。「途中まで車で迎えに行きましょうか?」と返すと「あぶねーからいい」とすぐに返事が来た。わたしが飲みに行くときは断っても駅か店の近くまで迎えに来るくせに、わたしが迎えに行こうとするといつもいらないと言われてしまう。「夜は冷えるってニュースで言ってましたよ」と上着を持って出なかった彼に軽く食い下がってみるけれど、既読は付いてもそれ以降返事は返ってこなかった。場地さん曰く、既読をつけるのは返事をしたと同義らしい。迎えにこなくていい、ということだろう。あの新卒の子に見せつけたいだけのわたしとしては無視して迎えに行っても良かったけれど、あとで怒られるのも面倒くさい。小さく息を吐いて、返事のこなくなったスマホの画面を睨んだ。スマホが再び震えたのはそれから5分後。

『後輩送ってから帰るから遅くなる』

そのメッセージを見た瞬間に、あの子だって分かった。だって場地さんの部署の人で帰り道が同じになる人はこれまで1人もいなかったし、こんなこと今までなかったから。もやもやとしたものが胸の奥からぶわっと込み上げてきて、既読だけつけて返事もせずにスマホをクッションに向かって投げつけた。
結局その日場地さんが帰ってきたのは23時を過ぎた頃だった。「ただいま」といつものようにリビングに入ってきた場地さんに「おかえりなさい。遅かったですね」とスマホから目を離さずに返す。そんなわたしの不機嫌オーラをすぐに感じ取ったらしい。

「…遅くなるって連絡しただろ」
「別になにも言ってませんけど」
「じゃあなんで怒ってんの」
「怒ってません」

「もう遅いんで寝ます」と顔も見ずにリビングから出ようとすると強く腕を掴まれた。自分でも面倒くさいことをしている自覚はある。好かれてるとか好かれてないとか、そういうことじゃないけれど、ただ漠然と不安になって、いちいち確かめないと気が済まなくて。掴まれた腕に思わずホッとして泣きそうになってしまう自分が情けない。

「何に怒ってんのか言ってくんねーとわかんねーんだけど」
「だから、別に怒ってないって…」
「もういいから、そういうの」

場地さんは夜遅くに女の子を1人で帰らせるような人じゃない。別に何も悪いことをしていないのに、勝手に拗ねて。なのに、こんな幼稚なやり方しかできないわたしをすぐに甘やかそうとするんだからこの人は本当にタチが悪い。無自覚だから余計に。掴まれたままだった腕を引かれて、ぎゅっと抱き締められただけでたまらなくなる。

「場地さん、」
「うん」
「本当になんでもなくて…ちょっといやなことあったから、八つ当たりしちゃっただけ、です」

はぁー、と大きく息を吐き出した場地さんが「お前が怒ってんのとか珍しいし焦るから、普通に」と、腰に回した腕に力を込めた。そんな一言で簡単に解消される程度の不安を1人で捏ね回してしまったわけだ。「めんどくさいことしてごめんなさい」と謝ると「いーよ、別に」と返ってくる。たったこれだけで満たされてしまうんだから、本当にどうしようもない。小さく背伸びをして首筋にすんと鼻を寄せると、煙草と食べ物の匂いに紛れて彼の匂いがした。



仕事の邪魔はしたくない。彼に迷惑をかけたくない。面倒な彼女だって思われたくない。呪文みたいに何度も頭の中で繰り返した。なにかあってもわたしが我慢すればいい。だって、場地さんは悪くないんだし。「あの子にあんまり優しくしないでほしい」なんてわがままを咄嗟に飲み込んだあの飲み会の日から、約1ヶ月が経った。

「あの、場地さんっ」
「なに?」
「今からお昼ですか?ご一緒してもいいですか?」
「あー、今から外出るから」
「あ、そうなんですか…」

たまたま通った会議室前の廊下でそんな2人のやりとりを見かけてしまった。あからさまにしゅんとした顔をした女の子に思わず「ざまぁみろ」「ていうか自分の部署の営業のスケジュールぐらい把握しとけ」と思ってしまった性格の悪い自分に少し嫌気がさした。本当は今すぐ場地さんのところに駆け寄って、今日の帰り何時ですか、とか、夕飯は何が食べたいですか、とかあの子に聞こえるように言ってやりたかったけど、わたし今すっごい不細工な顔してるんだろうな、と思ったらとてもじゃないけど場地さんに声をかける気にはならなくて、見つからないようにすぐに回れ右をした。


「ちょっとナマエ、アレ放っといていいの?」

昼休み、会社近くのカフェでわたしの向かいの席に座り眉間に皺を寄せて新作のフラペチーノをずずっと吸い込んだのは、同じ部署の同期だ。アレ、が何かとは聞かなくても分かる。「絶対場地さん狙いだよあの子!」と手にしていたプラスチックのカップをテーブルに叩きつけた同期に苦笑いを返す。最近2人が一緒にいるところを社内で度々見かけるようになった。彼女もそれを見たんだろう。教育担当じゃないからそんなに関わることはない、と言っていたはずなのに。夕飯のときに何気なく「最近よく一緒にいますよね」と聞いてみたら「俺の持ってる得意先いくつか回すから、その関係で」と返ってきた。至極自然な回答だった。外勤の営業同士だし、内勤のわたしが知らない仕事をしていることにやけに焦りを感じてしまうのは、どう見てもあの子が場地さんのことを好きだから、なんだろうか。最近仕事が終わったあとや休みの日にも場地さんの社用のスマホが鳴ることが増えた。忙しそうだなぁと思いながらも、スマホから微かに聞こえる高い声に大きな溜息を吐きそうになるのを毎回必死に堪えていた。

「良くはない、けど…仕事に口出すわけにもいかないし、まだあの子が場地さんのこと好きって決まったわけでもないし…」
「あんたそれ本気で言ってる?」
「……半分ぐらいは」

はぁ、と溜め息を吐いた同期に「あんまり我慢するの良くないよ。前もそれで色々あったんだし」と言われてしまい、思わず「う、」と言葉に詰まる。前、とは場地さんの同期である他部署の先輩にねちねちと嫌がらせをされたときのことを言っているんだろう。あのときは異動前で忙しそうな彼の手を煩わせたくなくて、相談もせずに我慢した結果ミスをして仕事で迷惑をかけてしまった。底に残って飲めなくなったフラペチーノを、緑色のストローで意味もなくぐるぐるとかき混ぜる。仕事に私情を挟むような人ではないけれど、わたしが嫌だと言えばあの子との関わり方は多少変わるだろう。でもそんなこと言って場地さんに面倒な彼女だと思われる方が嫌だった。こんな思考に陥っている時点で既に面倒な女だとは自覚しているけれど。

「ナマエの気持ちも分かるけどさぁ、」
「実際に何かされたわけでもないしね。場地さんに彼女いるって知らないのかもしれないし」
「言えば良いのに。場地さんはわたしのだから手出さないでって」
「…わたしがそんなこと言えると思う?」
「思わない」

本当は言いたいけど。2人を社内で見かけるたびに「何の話をしてるんだろう」とか「わたし以外にそんなふうに笑いかけないで欲しい」とか、しまいには「あの子が仕事でとんでもないミスでもすればいいのに」なんて考えてしまう。最低だなって思う。自分がこんなに性格の悪い女だなんて知らなかった。

その日の帰り、ざわざわと騒がしい駅のホームで女の子たちの高い声がやけに耳についた。「場地さんの最寄り、〇〇駅らしいよ」「え、普通に近いじゃん」と、聞こえてきた言葉に思わず振り返るとあの子がいた。連休が明けてから彼女の服装はリクルートスーツからちょっとおしゃれなネイビーのスーツに変わっていた。一気に垢抜けた姿に余計に焦りを感じてしまう。一緒にいる他の女の子たちは多分彼女の同期だろう。わたしには気付いていないようだった。なんでそんなことまで知っているんだろう、と思っていると、続けて聞こえてきた会話に思わず耳を疑った。

「この前住所が書いてある書類見ちゃった」
「えー、個人情報漏洩じゃん」
「でも場地さんガードめっちゃ固くない?」
「まぁ、彼女いるらしいから」
「えー、いいのそれ」
「いいでしょ」

艶々のネイルを眺めながら放たれた言葉に唖然とする。いや…いいわけないでしょ。個人情報含めて。ていうか誰に聞かれているかも分からないのに、よく周りに聞こえるような声量でこんな会話ができるな。それから「彼女ってうちの会社の人なのかな」という言葉に小さく肩が跳ねる。

「社内らしいよ。誰かは知らないけど」
「へー、場地さんって社内恋愛アリなんだ」
「意外だよね」
「インスタとか調べたら出てこないの?」
「1人、この人かなって思ってる人はいるんだけど」
「え、どの人?」
「これ、この人っぽい」
「あー見たことある」

その言葉に今度は背筋がヒヤリとした。どくんどくんと心臓が嫌な音を立てる。場地さんはSNSなんてやってないし、わたしも基本見るだけで投稿はあんまりしていないから、それだけで付き合っているかは分からないだろうけど。別に社内で隠しているわけでもないしバレて困ることではないけれど。なんとなく、この子たちには知られたくないなと思ってしまった。なんだか勝手なことを言われそうで。ついさっきまで「見せつけてやりたい」ぐらいに思っていたはずなのに。そんな気持ちは急激に萎んでいった。
さっきから聞こえてくる会話にメンタルがどんどん削られていくのがわかる。もうこれ以上聞くのやめよう、そう思って鞄からイヤホンを取り出したときだった。

「普通に飲みとか誘ってもいつも断られるんだけど、仕事で相談したいことがあるって言ってみたらすんなりご飯OKもらえちゃった」

持っていたイヤホンを落としかけて、慌てて指に力を込めた。彼女がいるとわかっている人に対して、なんでここまで積極的になれるんだろうと思ったのと同時に「なんでそんな簡単に騙されちゃうの」って場地さんに対しても不満が込み上げてくる。場地さんはなにも悪くないって、分かっているのに。でも、一度抱いてしまった感情はそう簡単には消えてはくれなくて。「明日帰り遅くなると思う」と、夕飯のときに場地さんに言われた一言に、ずしんと心臓のあたりが重苦しくなるのを感じた。

「…なんで?」
「なんでって、普通に残業だけど」

思わず聞いてしまった言葉に、当たり前のように残業だと返される。残業、なんだよなぁ…。場地さんは会社の部下に仕事のことで相談があるって言われたから、話を聞いてあげるだけだ。あの子が外でどんな話をしていたかを知っているわけでもない。だけど、でも、だって…。

仕事の邪魔はしたくない。彼に迷惑をかけたくない。面倒な彼女だって、思われたくない。呪文のように何度も繰り返した言葉を頭の中で反芻する。結局その日も言いたいことは何も言えないまま、「わかりました」と「最近忙しそうですね」としか返せなかった。次の日の夜、場地さんが帰ってきたのは日付を跨ぐ少し前だった。もう寝てると思っていたらしい。静かに玄関を開けた場地さんをリビングで迎えると「まだ起きてたのかよ」という言葉に小さく苛立ちが募る。

「…遅かったですね」
「あー、まぁ」

疲れた様子でネクタイを外してジャケットをソファに放り投げた場地さんに思わず「本当に、残業だったんですか」と聞いてしまった。あ、と思ったときにはもう遅い。「…は?」と明らかに機嫌の悪い声で返される。自分でも嫌な言い方をした自覚はあった。部屋の空気が静かに張り詰めていくのを肌で感じる。言いたいことがあるなら言え、というような視線を送られた。それに気付いていないふりをするも場地さんがはぁ、と大きな溜息を吐き出した。

「なにが言いてーの」
「……別に、」
「そういうの、1番めんどくせーから」

いつもみたいに、なんでもない、と言おうとした言葉を遮るようにそう言われてピシリと身体が固まる。言われなくてもそんなこと分かってる。ただ1人で勝手に自信を無くして、勝手に焦って、勝手に機嫌を悪くしているだけだ。めんどくさいなんて、そんなの自分が1番よく分かってる。でも、分かってはいるけれど、直接言われた「めんどくさい」の一言は、このときのわたしにはあまりにも重い一撃だった。

「……なんでもかんでも言えば良いってもんでもないでしょ」
「でも言わねーと分かんねーだろ」
「言ったって解決するか分かんないじゃん」
「だから、それも言われないと分かんねーってさっきから言ってんじゃねーか」
「だから、言いたくないんだってば!」

珍しく大きい声をあげたわたしに、場地さんが驚いたような顔をしている。言い合いになってしまったことに自分自身驚いていた。部屋がしん、と静まり返って、今更心臓がどくんどくんとうるさく鳴るのが耳鳴りのように響く。これまでもお互いの日常の不満を言い合うような小さなケンカとも呼べないようなものは何度かあったけれど、場地さんは何かあっても翌日まで引き摺ったりしない人だったし、わたしも何か言われたらすぐ謝るのがほとんど癖になっていたから、ケンカらしいケンカなんて、付き合ってからこれまで一度もしたことはなかった。

「もう、いいです」
「は?」
「言いたいことなんてないし、もういいです。めんどくさくてすいませんでした」
「…っ、おい!」

泣き出しそうなのを誤魔化すように急いでリビングから出た。場地さんに何か言われる前に、一刻も早くこの部屋から逃げ出したかった。パタン、と静かにリビングの扉を閉めて寝室へと閉じこもる。一緒に暮らしているとこういうときの逃げ場がなくて不便だな、なんて同棲を始める前にも考えたデメリットがぼんやりと頭の中に浮かぶ。だからって今部屋を飛び出しでもしたら、それこそ面倒な彼女だろう。本当は今すぐに出て行きたいぐらいだったけど。ケンカをしたこともなければ、仲直りだってしたことがない。どうすればいいのか分からないまま、冷たい布団の中に潜り込んだ。

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