タオルで軽く拭いただけの髪が、安っぽいバスローブの背中を湿らせていく。シャワーを浴びたばかりの身体を大きなベッドに投げ出して、置きっぱなしにしていたスマホの画面を表示する。19時を少し過ぎたところだった。3時間の休憩で入ったのが確か17時頃だったから、あと1時間ぐらいはゆっくりできるか、とそのままベッドでダラダラとSNSをチェックしたり、なんとなくテレビをつけてみたり。すぐに長い髪を乾かす気にはならなくて、もうしばらくしたらドライヤーをしようと、水音がするバスルームの方へとちらりと目を向けた。今シャワーを浴びているのは彼氏でもない、ただの大学の同期だ。

始めは、友達の友達、ぐらいの関係だった。同じ大学、同じ学部の同じ学科で、顔と名前ぐらいは知っていたけれど喋ったことはなくて。仲良くなったきっかけは友達主催の飲み会だった。それなりに大所帯となった飲み会で、たまたま近くに座った松野くんと喋る機会ができた。話してみると、地元も、今住んでいる一人暮らしのアパートも近くて、お開きになる頃にはそこそこ仲良くなっていたと思う。それから学校で顔を合わせれば挨拶ぐらいはするようになって、同じ授業があれば近くの席に座るぐらいの仲になった。彼が人の懐に入るのが上手いというのもあると思うけど、なにかと共通点が多かったことも、松野くんと仲良くなった理由のひとつだと思う。わたしたちは2人ともお互いに好きな人がいた。相手は年上で、バイト先の先輩で、大学に入ってすぐの頃からもうかれこれ2年近く片想いしていて、あまり脈がなさそうなところまで一緒。片想いのもどかしさや苦しさを共有していくうちにお互いの呼び方が松野くんから千冬くんに、ミョウジさんからナマエへと変わり、授業の空き時間を一緒に過ごしたり、何の予定もない夜は2人で飲みに行くぐらいには仲良くなっていた。彼の隣は随分と居心地が良かった。うっかり淡い感情を抱きかけては、バイト先の先輩に会うたびにしなしなと萎んでいくのを感じた。現金だな、と思う。でも、だって、千冬くんには他に好きな人がいるんだから、この気持ちは友達という枠を超えてはいけないのだ。

「はぁ、そろそろ彼氏ほしい」

春が終わり、過ごしやすい季節はあっという間に過ぎ去った夏の初め。2人で飲みに行った帰り道は、夜なのにじっとりとした空気が肌にまとわりついてくる。何の気なしにぼそりと呟いた言葉に、千冬くんは「俺も」と前を向いたまま返した。「夏休みまでに彼氏できなかったら遊んでね」なんて、言ってから後悔した。なんだか軽い女みたい。彼は優しい人だから、そんなふうには捉えないかもしれないけど。

「なー、最近どう?」
「どう、って?」
「好きな人と」

千冬くんはずっと前を向いたままだった。「別に、相変わらず進展ないよ」って、わたしも前を向いたまま残念そうな声で答える。たまにバイトのあと一緒に帰ったり、途中のコンビニで数百円分奢ってもらったりすることはあったけど。それだけだった。相変わらず望み薄だなぁ、と思う。「そっちは?」と返すと「俺も一緒」と返ってくることに少しホッとしてしまう。なんだか自分がひどく小さい人間みたいに思えた。先輩がだめだったから千冬くんを選んだ、みたいな。そんなことは、これっぽっちもないんだけど。でも、軽い女だと思われたくはないくせに、あわよくばっていう下心はずっとあって。夏だけど人肌恋しいよなあって薄く笑う彼に「…じゃあ、する?」と言ったのは半分は冗談だったけど、半分は本気だった。まさか彼がその言葉に頷くなんて思っていなかったから、驚いてまんまるい猫目を見開いた顔がかわいいな、なんて考えていた。

居酒屋から真っ直ぐには帰らずに、少し薄暗い通りに逸れて、いくつかのホテルの前を通り過ぎてから割と安いところに入った。手を引かれたまま入り口の前で「今からだと休憩じゃなくて宿泊になるっぽいけど、いい?」と聞かれて、こくりと頷く。途端に静かにしおらしくなってしまったわたしを見て少し困ったように笑う千冬くんが「やっぱやめとく?」と言うから、やめない、とはっきりと答えた。シャワーを終えて髪を乾かして部屋に戻ると、スマホを見ていた千冬くんの隣にベッドをなるべく揺らさないようにとそっと腰掛けた。すぐにスマホを伏せてベッドサイドに置いた千冬くんが「部屋、暗い方がいい?」と聞くから、慌てて大きく頷いた。

「あの、ほんとにするの」
「いやならしない」
「いや、とかじゃないけど…」

千冬くんは、やじゃないのって聞いたら、いやだったらここまで来てねーよって言われて、その言葉に嬉しいって心臓が跳ねる。一度、触れるだけの口付けをされた。

「じゃあ、する?」
「…うん」

さっきのわたしと同じセリフに頷くと、小さく吐息を溢して笑った千冬くんがやけにいやらしく見えたのは、場所のせいなのか雰囲気のせいなのか。ただ、さっきからどくんどくんとうるさい心臓の音が、触れられた手のひら越しに彼に伝わってしまうのが恥ずかしくて死にたくなった。

「すげー音」
「…言わないでよ」
「ごめんって」

俺もちょっと緊張してるって笑った顔が、掠れた声が、熱い手のひらが、好きだって思ってしまった。友達の枠なんて、とっくに飛び越えてしまっていた。その日、恋人のようにわたしを抱きしめて眠る千冬くんの腕の中で少し泣いた。

千冬くんとこういうところへ来るのは今日が6度目だった。大体月1回か2回。1回だけで終わるのかと思った関係はずるずると続き、かれこれ半年近く彼とわたしは身体を重ねていることになる。最初こそわたしから誘ったけれど、2回目からはなんとなく向こうから誘われるようになって、拒んだことは一度もない。お互いに都合が良かったんだと思う。身体の相性も悪くなかったから、余計に。ただ、毎回ホテル代を全額千冬くんが払うのが、申し訳ないなとは思っていたけれど。何度言っても払わせてくれなくて、でも、だったら家でしようとも言えなかった。

「あれ、まだ髪乾かしてねーの?」
「あー…うん」

シャワーの音が止んで少ししてから、金髪をがしがしとタオルで拭きながらバスルームから出てきた千冬くんが隣に腰掛けて、ベッドのスプリングが大袈裟に跳ねた。「俺がやってもいい?」と濡れて冷たくなった髪に触れられる。「いいけど」と頷くと、ドライヤー取ってくる、と言ってまたバスルームの方へ向かった彼の背中に小さくため息をつく。ずるいな、と思う。セックスまでしておいて言うことじゃないのかもしれないけれど、彼の距離感にいまだに戸惑うことがある。近い、というか、勘違いしたくなるような、そんな距離感。しているときにかわいいって言ったり、頭を撫でたり、指を絡めたり。まるで恋人同士みたいなひどく甘い行為に、期待しては勝手に落ち込んだ。

「熱くない?」
「大丈夫だよ」

耳元で大きな声で言われて、首筋が擽ったくなる。ベッドの淵に腰掛けるようにして千冬くんの足の間に座って、後ろからドライヤーの風をあてられる。丸まった背中を見せるのが恥ずかしくて、自然と背筋が伸びた。時折頭を撫でるように指が髪の間に入って地肌に触れて、その度に肌が粟立つ。乾かしてもらってる間にスマホをいじるのもどうかと思って隣に置いた。でもそうなると途端に手持ち無沙汰になってしまう。なんとなく数年前まで習っていたピアノの鍵盤を追う仕草をしてしまうのは、楽器を習ったことのある人特有の癖だと思う。ほぼ無意識に膝の上で指を動かしていると、ふとドライヤーの音が止んだ。「はい、おしまい」と軽く手櫛で整えられる。丁寧に乾かされた毛先を一束摘んで「ありがとう」と振り返ってからベッドに乗り上げて千冬くんの後ろに回った。

「わたしもやりたい」

彼から受け取ったドライヤーでふわふわの金髪を乾かしていく。オレンジ色の蛍光灯が頼りなく灯る暗い部屋では、それがいつもより鈍く光って見えた。たまに刈り上げられたところに指が触れるとぴくりと肩を縮こまらせて「擽ったい」と言うのがどうしようもなくかわいくて、胸がきゅっとなって、たまらずうなじに口付けた。振り返った千冬くんが、「なにカワイイことしてんの」とちょっとだけ恥ずかしそうに笑うから、また胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。その顔が、やっぱりずるいと思った。



久しぶりに先輩とバイトのシフトが被った日の帰り、いつものように遅いし送るよ、と言ってくれた。わたしもいつものように、すいません、なんて言いながらもその言葉に甘えた。しばらく他愛のないおしゃべりをしながら歩いていると、「…最近彼女できてさ、」と言われて、思わず立ち止まってしまったわたしに困ったような笑顔を見せるこの人は、きっとわたしの気持ちを知っていたんだと、このときようやく気が付いた。

「あ、でも遅くなった日はこれからも送らせて。危ないから」
「…彼女さんに悪いですよ」
「女の子を夜遅くに1人で歩かせた方が怒るようなやつだから」

大丈夫だよ、と優しく笑ったその顔が好きだったな、と思う。会うだけで心臓が痛いくらいに高鳴って、喋るだけでいつも死ぬほど緊張した。笑いかけられただけでその日1日頑張れると思った。それぐらい大好きだったはずなのに、わたし今ちょっとほっとしてる。そのくせちゃんとショックは受けているんだから嫌になる。気を抜くと涙が溢れ出てきそうだった。

「良い彼女さんですね」

なんて、強がって言ってみたけれど、やっぱり涙がぽろぽろと溢れてくるのを止められなくて、「すいません」と慌てて袖でそれを拭った。その日わたしは千冬くんのことを思い出すこともなく一晩中泣いた。


泣き腫らした目をどうにかしようとして、午前の授業をさぼってしまった。午後の授業が始まるギリギリに教室に駆け込んだわたしを見た友達が「珍しいね、寝坊?」と笑う。

「なんか目腫れてない?」
「あ、寝過ぎたからかも」
「どんだけ寝たの」
「えー、ついさっきまで」

友達にも、前の席に座っていた千冬くんにも、泣いたってバレないかとちょっとドキドキした。授業が終わってから、振り返った千冬くんが教科書とペンケースを鞄に片付けながら「なぁ、今日の夜って空いてる?」と聞いてきた。…ホテル、行くのかな。昨日のこともあるし、正直そういうことをする気分じゃないんだけど。でも断るのもなぁ。そんなことを考えながらも「空いてるよ」と返すと、「観たい映画あるから付き合ってほしいんだけど」奢るから、と言われた。

「………」
「え、だめ?」
「や…全然、だめじゃない」

だめじゃない。むしろ誘ってくれて嬉しいのに、素直に喜べなかった。でも、それなら好きな人誘いなよ、とも言えない。

「4限の教室どこ?」
「12号館」
「じゃあ終わったらホール前集合でいい?」
「分かった」

またあとで、と手を振って教室を出て行った彼の背中を見送っていると「デート?」と近くにいた友達に冷やかされた。「そういうんじゃないよ」と笑って返す。ただ友達と映画を観に行くだけで、別にデートじゃない。千冬くんにとっては。でもわたしにとってはもっとずっと特別な意味を持ってしまうことを、彼は知らない。授業が終わってすぐにホールの前に向かうと、千冬くんは既に待っていた。「お待たせ」と声をかけるとスマホを見ていた顔をぱっと上げた千冬くんの、メッセージ画面がちらりと見えてしまった。かわいい猫のスタンプを送りあっていた。好きな人、かな。そういえばどんな人なんだろう。千冬くんが好きになるんだから、きっと素敵な人なんだろうなって思った。小さくて可愛らしい感じかな。それとも、綺麗で大人っぽい人なんだろうか。映画館のあるショッピングモールに入っているマックで少し早めの夕飯を食べながら、そんなことを考える。マックにしたのはわたしの希望だった。そういう気分だったから。「夜に食うと罪悪感すごいって前に言ってなかった?」と向かいの席でポテトをつまむ千冬くんに言われた。「まだ夕方だからギリギリセーフだよ」とチーズバーガーを齧りながら返す。あ、ピクルス抜いてもらうの忘れた、と思わず眉間に皺が寄る。「ふ、ピクルス抜き忘れてんなと思った」と笑われた。だから、そういうの、ずるいんだってば。

映画はわたしも公開前から気になっていたものだった。奢る、と言って誘われたけれどそう毎回あれこれ奢られるのも嫌だったから、お金を払われる前に2人分の座席をスマホで予約してクレジットカードで決済しておいた。それを伝えるとなんとも微妙な顔をされた。

「なんでそういうことすんの」
「だって、いつも払ってもらってるじゃん」

なにを、とは言わないけど。休憩ならまだしも、たまに泊まると1回で1万円近く使ってしまうわけだし。自分だって普段わたしに財布を出させないんだから、これぐらいはさせてほしい。

「ポップコーン食う?」
「今食べたばっかだし、飲み物だけにする」
「何がいい?買ってくる」
「じゃあ、アイスティーで」

分かった、と言って列に並ぶ千冬くんを少し離れたところで待つ。ちょうどLINEで今月の後半のシフトが送られてきていた。すいすいと指を動かしながら目を通す。真っ先に先輩と被っている日がないかチェックしてしまうのはもはやただの癖だったけど、3回被っている日があることを確認して、大きな溜息をついた。千冬くんのことが好きだと思うのに、先輩と会えることをやっぱり嬉しいとも思ってしまう、こんな自分がどうもはしたなく感じてしまって嫌いだった。この日観た映画はいかにも千冬くんが好きそうな純愛もので、面白いとは思ったけれど、観終わったあとやけに心臓が重たくなった。

帰り道、当たり前のように家まで送ろうとしてくれている彼の半歩後ろを歩く。誘われたときはそういう気分じゃないとか思っていたくせに、家に着く少し前に「…今日はしないの?」とTシャツの裾を小さく引くと、振り返った彼は「してみる?」と言ったあの日と同じ顔をしていた。

「あー…まぁ、ホテル行く金もねーし」
「……じゃあ、うち来る?」
「えっ」

言ってから、間違えた、と思った。気まずそうにわたしから視線を逸らす千冬くんは「いや…、あー…」と言葉を濁した。最悪だ。死ぬほど恥ずかしかった。ホテルに行くお金がないからしないと言われたことも、自分から誘って拒否されたことも。今すぐにこの場から逃げ去りたい。思わず俯いたわたしの手を、千冬くんがきゅっと握った。

「俺の家行こ」

泣きそうなのがバレないように、黙ってこくりと小さく頷くと握られた手を引かれたまま歩く。千冬くんの家に向かう途中でコンビニに入り、「ちょっと待ってて」と言われ適当に雑誌をめくっていると、すぐに会計を済ませて戻ってきた彼の手元にちらりと目をやる。小さいビニール袋の中に入っていた箱を見て、あ、と思った。たしかに、わたしの部屋にはないものだった。初めて入った彼の部屋は適度に散らかっていて、いかにも一人暮らしの大学生の男の子の部屋、という感じだった。なんか飲む?と狭い廊下に置かれた小さな冷蔵庫を覗く彼の隣に並ぶ。

「つっても麦茶とビールぐらいしかないけど」
「麦茶作ってるの?偉いね」
「普通だろ」
「コンビニ寄ったとき、飲み物ぐらい買えば良かった」

気が利かなくてごめんね、と謝ると、ふと唇に柔らかいものが触れた。「え、」と小さく声を漏らした唇の隙間に温かい舌が入りこむ。くちゅくちゅと音を鳴らして口内をかき混ぜられて、吐息のような声が漏れる。いつもと違う少し強引なキスに戸惑っていると、ブラウスの中にするりと手が差し込まれた。え、うそ、ここで?と思う間もなく背中のホックを容易く外されてしまう。ようやく離された口から大きく息を吸い込むと、ぺろりと首筋を舐められて、ぴゃっと身体が跳ねた。「かわいい」って耳に吹き込まれて、お腹の奥がじくじくと疼き始める。

「や、ちょっと、まって…」
「やだ」
「ぁ…っ」

そのあとどうやってベッドに行ったのか、もうよく覚えていない。いつもよりずっと激しく求められて、たまらなくなってぎゅっと目を瞑って耐えていた。「だめ。目開けて、ちゃんと俺のこと見てて」そう言われた瞬間、これまでとは比べ物にならない絶頂を感じて、あ、わたしこのまま死ぬのかも、なんて思ったほどだった。恥ずかしいとかそんなことを考える余裕もないほどに身体中を触られて舐められて、自分が自分じゃなくなるみたいな、怖いぐらいの快感にもうどうしていいのか分からなくなって、縋るように彼の背中に腕を回した。彼が行為の最中に何を言っていたのか、自分が何を口走ったかも、もはや記憶が朧げだった。意識を失うように眠りについて、起きたときにはもう外は薄らと明るくなっていた。ベッドの下に散乱していた下着と服を拾い身に付けて、そのままその部屋をあとにした。


「なんで勝手に帰るんだよ」

隣の席に座った千冬くんに、珍しく怒ったような声でそう言われてびくりと肩が跳ねた。今日に限って他の友達が誰も来ていなくて、なんだか気まずい。

「あ、ごめん…朝から予定あったの忘れてたから…」
「それなら声かけろよ。起きたらいねーしびっくりすんじゃん」

そのままの口調で、「次からはそういうのやめろよ」と言われて驚いた。次って、なに。なんなのその言い方。なんだか急に自分の扱いが軽くなったような気がして、やっぱり家なんか行くんじゃなかったと思った。そのまま何も言わずに前を向いたわたしに千冬くんは何か言おうとしていたけれど、聞く気にはなれなくて気が付かないふりをした。その日から、千冬くんを避けるようになった。

授業が被っているときは仕方ないけれど、なるべく2人きりにならないようにして、ご飯や遊びの誘いもそれとなく理由をつけて断った。断る口実がほしくて、バイトのシフトも増やした。バカみたいなことをしている自覚はあったけど、どうしても千冬くんと会いたくないと思ってしまったんだから仕方ない。そんなことをしているうちに誘われることもLINEが来ることも少なくなっていって、授業で会ったときとほとんど喋らないようになっていった。

「ナマエって彼氏できたの?」

ふと友達に聞かれた言葉に、持っていたペンを落としかけて慌てて握り直した。まさか、できてないよと返したけれど、あまり納得していないように「ふーん」と不満げな声が返ってきた。

「できたら言うよ」
「それもそうか」
「どうしたの、急に」
「あー、なんか松野くんがさぁ」

出てきた名前に心臓がどきりと嫌な音を立てた。「ナマエが最近付き合い悪いから、なんかあったのかなって聞いてきたよ」と言われた。

「2人仲良かったのに、何かあったの?」
「…いや、最近バイト忙しかったから」

それでかな、と適当に笑って誤魔化した。自分から避けたくせに、わたしのことを気にかけてくれていたのが嬉しい、と思ってしまった。なんて自分勝手なんだろう。大学で姿を見かけるたびに、やっぱり好きだなぁって思う。こんなことなら避けなきゃ良かったのかもしれない。でも、だからこそ、前みたいな関係を続けてわたしの存在が彼の中でどんどん軽くなっていくことにも耐えられなかった。

それから数日後、長期休みに入る前の最後の授業のあと、教室から出たところに千冬くんが壁に背を預けるようにして立っていた。わたしを見つけると小さく手を上げてこちらへ向かってきた彼が「ちょっと話したいことあるんだけど、いい?」と聞いてきた。わたしはそれに頷いて答える。

「なんか、きもいことしてごめん」
「別に、きもくなんてない、けど…」
「あー…その、できれば2人きりで話したいんだけど」

俺の家でも良い?という言葉に、また頷いた。なにを、言われるんだろう。良い話ではないことだけは確かだと、2人の間に流れる気まずい空気が言っている。これまで散々都合よく抱かせていたくせに突然勝手に避けて、なんなんだよ、とか、そんなことを言われるんじゃないかと思うと膝が震えた。彼はそんなことを言う人じゃないって分かっているくせに、思考はどんどん悪い方へと突き進んでいく。彼の家に来るのは2度目。前回来たときのことを思い出すと、なんとも言えない気持ちになる。恥ずかしいような、虚しいような。「なんか飲む?」とこの前と同じように小さな冷蔵庫を覗く彼の隣に並んだ。何も言わずに唇を重ねられたのも、あの日と同じだった。深くなる口付けに抗わずにいると、そのまま床に押し倒された。狭い廊下の、固いフローリングの上に寝かされて、わたしの顔の両隣に手をついた千冬くんが真っ直ぐにこちらを見つめる。

「……そんなに嫌だった?」
「え?」
「好きって言ったの、迷惑だった?」
「な、…っ」

言い終わる前に首筋に吸い付かれる。ちくりとした痛みを感じて、痕が付けられたんだと認識した。今まで、痕をつけられたことなんてなかったのに。首筋に触れる髪がくすぐったくて身を捩ると、はぁ…と大きく息を吐き出した千冬くんが肩口に顔を埋めて、ごめん、と謝った。

「その、言い訳みたいになるけど…こういうことするために呼んだわけじゃなくて、」
「う、ん…」
「なんで避けられてんのか、ちゃんと聞きたくて」
「うん、あの、わたしも聞きたいことが、あるんだけど…」

身体を起こした千冬くんに倣うように、わたしも両手をついて上半身を持ち上げた。何か言おうとするたびにさっきからどくんどくんとうるさい心臓が口から飛び出してしまうんじゃないかと思った。

「ごめん…その、好きって言ったって、ほんと?」
「…………は?」
「や、なんていうか、覚えてないっていうか、」
「マジで言ってる?」
「う、ごめんなさい…記憶にない、です」

「そういやあの日、なんかやばかったもんな」と言われて、全身の血が沸騰したように熱くなった。あの日の痴態を思い出すだけで恥ずかしすぎて無理。真っ赤になっているであろう顔を思わず手で覆った。

「それは千冬くんのせいじゃん…」
「マジで何も覚えてない?」

顔を隠したまま頷くと、マジか…と脱力した千冬くんがまた大きく息を吐き出した。なんなんだろう、これ。だって千冬くん、ずっと好きな人いるって言ってたじゃん。お互いの片想いの傷舐め合ってきたじゃん。ぼーっと放心しているようでぐるぐると回り続ける思考の中で、都合の良い考えをどうにか追い出そうとしていた。そんなわたしの頭の中を見透かしたかのような彼の言葉に、思わず息が詰まる。

「俺はずっと、ナマエのこと好きだった」

そうじゃなかったら、あんなことしない。顔を隠していた手を握られる。うそだぁ、って泣きそうな声が出た。情けなくて、やっぱり恥ずかしい。

「ずっとって、いつから」
「…はじめてした日よりは前」
「好きな人いるって、言ってたじゃん」
「………だいぶ前にフラれた」
「…なんでその時言ってくんなかったの」
「言えるか、あほ」

なんかださいじゃん、その頃にはもう、お前のこと好きだったしって、今度は千冬くんが照れたように顔を隠した。胸の奥がむずむずと疼きだす。手も、吐き出す息も震えた。

「わたしも、好きだよ」
「……知ってる」

この前自分で言ったこと、覚えてねーの、と言われて、「は、え?」と間抜けな声が出た。ようやく収まりかけた心臓がまだうるさくばくばくと音を立てた。うそでしょ。間髪入れずにほんと、ってわたしの手をきゅっと握り直した千冬くんが言った。どうやら口に出ていたらしい。

「付き合えんのかと思ったら、避けられるし」
「……ごめんなさい」
「その場の空気で言っただけなのかと思って、結構へこんだ」
「ちがう…その、わたしも好きだからそういうことしたいって、思ったから、」
「うん」

小さく笑った顔に、心臓がさっきまでとは違う音を立て始める。もう一度すき、と口に出してみる。ずっと先輩のことを好きだったのに、簡単に移り変わってしまった気持ちに悩んでいたはずなのに。声に出して伝えたら、まるでそれが当たり前のことのように思えてきた。やっぱり現金だな、とは思うけど。

「俺と、付き合ってくれますか」
「…本当に、わたしでいいの」
「ナマエが、いいんだけど」

小さな声で「よろしくお願いします」と返すと、握られていた手を離して、指が絡められた。こつんとおでこを合わせて「つーか俺、結構わかりやすくアピールしてたつもりなんだけど」と、至近距離で彼の青い瞳に真っ直ぐ見つめられるとたまらなくなって、誤魔化すように口付けると、「そういうとこ、かわいい」と笑われた。

「この前も、すげーかわいかった」
「やだもう、忘れてほしい」
「絶対ぇやだ」

もう一度触れ合った唇の、彼の口角が上がっているのがわかって、余計に恥ずかしくなる。それから軽々と抱き上げられて、ベッドに寝かされた。そういえばこの前もこんなふうにしてベッドまで移動したんだっけ、とふと思った。「こういうことするために呼んだんじゃないって言ったのに」ちょっとだけ、意地悪したくなってそう言った。本当は、『こういうこと』を期待してるくせに。

「うん。だめ?」

だめじゃないって、わかっているみたいな言い方がずるいなと思う。結局そのあとはこの前よりも更に激しく乱されてしまって、この部屋に来たのはまだ明るい時間だったはずなのに気が付けば外はもう暗くなっていたし、彼がこれまでいかに手加減してくれていたのかを身をもって知ることになってしまった。こんなの聞いてない。そう思いながらもやっぱり拒む気にはこれっぽっちもならなくて、求められるがままに身体を差し出して、わたしからも彼を求めた。熱に冒された目で彼を見上げるとまた「かわいい」と言われて、お腹の奥がきゅんと疼いて仕方なかった。

カラカラに乾いた喉が張り付いて声が出ない。けほ、と小さく咳き込むわたしに「はい」と麦茶が入ったグラスが差し出された。ありがと、と受け取ったそれを勢いよく喉に流し込んでいく。再び「はい」と差し出された手にグラスを手渡すと、すぐ近くにあったローテーブルにそれを乗せた。裸のまま、またずるずると布団の中に潜り込むと、当たり前だけど彼の匂いがした。そんなことにも今更気づく。それから、わたしに背を向けている彼のうなじに吸い付くように唇を落としてみる。びく、と肩を縮こまらせて口付けた場所を押さえながら「擽ったいんだけど」と少し恥ずかしそうにして笑う顔が、ずるくて、かわいくて、好きだなって思った。

美しくも正しくもない恋の仕方

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