日誌の空白をせっせと埋めていたとき、ふと目をやった教室の窓の外にふわふわと動く金髪が見えた。あ、と慌てて立ち上がると、ガシャンと大きな音を立てて椅子が倒れた。ドキンと心臓が大きくひと鳴りして、我に返る。今から追いかけたところできっと追いつけない。追いついたところで、どうするつもりなんだ。倒した椅子を起こして、再び日誌と向かい合う。もしかしたら今から彼女と帰るところだったのかもしれない。そんなところにわたしが出て行ったら修羅場もいいところだ。いつだったか、彼が新しい彼女と手を繋いで歩いているところを見てしまったことを思い出して、ポキ、と小さな音を立ててシャーペンの芯が折れた。



5月の中間テスト明けに行われた席替えでわたしの前の席になった松野くん。それまではほとんど話したこともなかったけど、なんとなくいいなぁとは思っていた男子。でも松野くんをいいなって思ってるのはわたしだけじゃなくて。隣のクラスのみかちゃんとか、3年のちょっと有名な先輩とか。松野くんは人気者なのだ。だから別にこれは好きとかそういうんじゃなくって、『なんとなくいいな』だったのに。毎朝「おはよ」って声をかけられるだけで心臓が高鳴った。たまに「この問題わかる?」って聞かれるから、勉強できないやつって思われたくなくて、苦手な数学の予習だってした。松野くんが振り向くたびにふわっと揺れる金髪とシトラス系のワックスの匂いに無駄にときめいた。休み時間に話しかけられたら10分間誰にも邪魔されませんようにと密かに願った。連絡先を交換してからは、たまに授業中に届くくだらないメールにすらきゅんとした。授業中、松野くんの襟足を眺めるのが好きだった。
『なんとなくいいな』はあっという間に『好き』に変わって、今となっては奇跡みたいだなと思うけど、それは松野くんも同じだったらしい。

「行事前ってなんでこんなカップル増えんだろーな」
「イベントマジックだよね」
「あーあ、俺も彼女ほしい」

その一言に心臓が大きく跳ねた。夏休みに入る少し前の、期末テストが終わった頃。4日かけて開催される体育祭と文化祭の準備期間中だった。下敷きを団扇代わりにして扇ぐ松野くんの金髪がふわふわと揺れる。松野くんに彼女ができちゃったらやだなぁって声に出すかどうか、しばらく悩んでやめた。

「松野くんならすぐできるよ」

告白して断られたことないでしょ、と続けると「揶揄うなよ」と少し恥ずかしそうにする顔に、また心臓が跳ねる「ミョウジだって、すぐ彼氏できそうじゃん」かわいいし、って。金髪からちらりと覗く耳が赤くなっていく様子をただ眺めていた。「そんなことないよ」って返した声が震えて上擦ってしまって恥ずかしかった。その日の帰り道、「教室で待ってて」というメールが届いているのに気付いた瞬間、今まさに乗ったばかりの電車から飛び降りて学校まで走って戻った。教室の前でぜぇはぁと乱れる呼吸をどうにか整えようと胸に手を当てる。どくんどくんとうるさい心臓がいつまでも落ち着かないのは、走ったせいだけじゃない。額に張り付いた前髪を手櫛でどうにか整えようとするけれど、次々に流れ出る汗がそれを邪魔をする。すぅ、と大きく息を吸い込んでから扉に手をかけた。

「あの、松野くんごめん。駅ついてからメール気付いて…」
「えっ、もしかして駅からわざわざ戻ってきた?」
「う、うん」
「うわ、ごめん」

もしかしてわたしの期待しているような何かがあったわけじゃなかったのかもしれない。ただ文化祭の準備で用事があっただけなのかもしれない。ようやく冷静になりはじめた頭でそんなことを考えていたら、わざわざ走って戻ってきたのが恥ずかしくて仕方なくなったのに。「…そういうことされると期待すんじゃん」って、少しだけ視線を逸らした松野くんがそんなこと言うから、やっぱりわたしだって、期待したくなるじゃんか。

「俺、ミョウジのこと好き」

わたしたち以外誰もいない放課後の教室。なんか少女漫画みたいって笑ったら、赤い顔でうるさいって返された。「わたしも好き。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

付き合ってすぐ、花垣くんたちに揶揄われながら回った文化祭。体育祭のリレー中に隠し撮りした写真はすぐにバレた。帰り道、不意打ちで奪われたキス。夏休みにはバイクでいろんなところに連れて行ってくれた。誰もいない千冬くんの家に、親に嘘をついてお泊まりもした。「いい?」って聞かれて「まだだめ」って返したら「あーーーー…だよな」って言われて。残念そうにするけどちゃんと待ってくれるところ、好きだなぁって思った。その日は狭いシングルベッドで抱きしめられたまま眠った。朝目が覚めて、すぐ隣に千冬くんがいるのが幸せだなと思った。

漫画やドラマみたいに劇的ななにかがあるわけじゃない。ただ普通の、どこにでもいる高校生同士のお付き合い。それで十分だったのに。12月に入ってすぐの頃、他のクラスの女の子が千冬くんに告白したって友達から聞かされた。どうして教えてくれなかったの、と聞いたら余計なこと言って不安にさせたくなかったって言われたけれど、告白してきた相手は可愛いって有名な子だったし、あの子はわたしからなら奪えるって思って告ってるわけで。そんなことを考えていると途端に怖くなってしまった。それからは千冬くんといても楽しいと思うよりも、いつか振られるんじゃないかって不安の方が大きくなっていった。修学旅行なんて、もう散々で。せっかく友達が気を使って2人にしてくれようとしたのにわたしはそれを断った。2人になったら言わなくていいことを言ってしまいそうで、千冬くんから聞きたくない言葉を聞かされる気がして、怖かったから。この頃にはわたしはもう付き合っている、というよりも付き合ってもらっているという感覚で。分かっていたことだけど、こうなってしまったら終わりが来るのなんてあっという間だった。

「最近ナマエがどうしたいのか、もうよくわかんねー」
「………」
「…別れたい?」

別れたくなんてなかったけれど、このときのわたしはただ頷くことしかできなくて。あのとき「別れたくない」と一言そう伝えていたら、今とは違う未来があったんだろうか。
別れてすぐの頃はご飯も食べられないぐらいに落ち込んだりもしたけれど、1ヶ月も経てばまぁ高校生の恋愛なんてこんなものだと思うようになって、なんてことない顔をして教室内で挨拶を交わせるぐらいにはなっていた。
それから割とすぐに千冬くんには新しい彼女ができて、わたしにも別の彼氏ができた。千冬くんの彼女は修学旅行前に告白してきたのとはまた別の子で。「やっぱりモテるんじゃん」なんて、心の中でこっそりと悪態を吐くわたしの新しい彼氏も千冬くんとは全然違う、背が高くて、毎日部活で汗を流している爽やかスポーツマンタイプだった。たまに彼の部活が終わるのを待って一緒に帰ると、他の部員や先輩たちに揶揄われるのが擽ったくて、でも全然悪い気なんてしなくて。こうやって少しずつこの人の隣にいるのが当たり前になるんだって、思っていたのに。お互い他のクラスの相手だったけど、たまに千冬くんの彼女が教室に来るのを見ては勝手に傷付いて、その度に彼氏に対する小さな罪悪感を募らせていた。

同じクラス内で付き合って別れたってだけでも十分気まずいのに、下駄箱で鉢合わせした日なんかは本当に最悪。千冬くんの彼女は元々学校内で会えば挨拶を交わすぐらいには仲の良い子だったから無視することもできなくて、「ばいばい」となるべく明るく手を振ってみたけれど、口元は絶対引き攣ってた。それ以来、2人がいないことを確認してから下駄箱に行く、というなんとも虚しい習慣がついてしまった。その日は彼の部活が終わるのを待っていたから、わたしが帰る頃には校舎内は既にがらんとしていた。下駄箱からローファーを取り出して床に落とすとやけに大きな音が辺りに響いたのと同時に、「あれ、まだいたんだ」とかけられた声にぴくりと小さく肩が跳ねた。

「彼氏待ち?」

隣に並んだ千冬くんの顔が見れなくて、「あー、うん。まぁそんなところ」と、下を向いてローファーのつま先を意味もなく見つめたまま答えた。「仲良いな」って小さく笑って言われた言葉にずしんと心臓が重たくなる。

「…松野くんは?」

彼女待ち?なんて、別に聞きたくもないことを聞いてしまったのは、2人の間に気まずい空気が流れる前に何か話題を振らないといけないと思ってしまったからだ。いつまでも心の中では『千冬くん』と名前で呼んでいたわりに、ちゃんと『松野くん』と口に出せたことにほっとしたと同時になんとも言えない虚しさに襲われる。

「いや、バイトまでの暇つぶしで漫画読んでた」
「今からバイト?大変だね」
「まぁな」

少し乱暴に下駄箱に上靴を投げ入れた千冬くんが「つーか今日寒くね?」とマフラーに顔を埋めた。当たり前のように続けられた会話に胸がそわそわと落ち着かない。もうちょっとだけ、と願ってしまった時点でだめだった。どうかわたしの気持ちには気付かれませんように、と祈りながら「そうだね」と返す。

「あ、カイロいる?」
「いーよ、お前冷え性じゃん」
「でもふたつ持ってるから」

ひとつあげる、とブレザーのポケットから取り出したそれを差し出すときに千冬くんの指が少しだけ触れた。「指つめた」と笑う顔に、ふわりと香るワックスの匂いに、胸が苦しくなってどうしようもなく泣きたくなった。

「じゃあな。カイロありがと」
「あ、うん…また明日ね」
「また明日」

千冬くんの背中をぼんやりと見送っていると、少し遠くからざわざわとした話し声と足音が聞こえてきた。多分部活終わりの集団だろう。その中にいるであろう彼氏に、どんな顔して会えばいいのか分からなかった。



今日もただ教室の隅から席の遠くなった彼の背中を眺めるだけだった。一応用意したチョコレートは、他のみんなと一緒に義理チョコだと言って渡そうか悩んでやめた。どう考えても義理じゃないし、もし受け取ってもらえなかったら…と思うと怖かったから。日誌を書き終えて、筆箱をしまおうと開いた鞄に入っている小さな紙袋の中には、12月に渡せなかった誕生日プレゼントと、下心満載のチョコレート。渡せないだろうな、と思いながらも作った中で1番形が良かったものをわざわざ箱に入れたりして。これ、お父さんにあげたら喜んでくれるんだろうなぁと思うと少しだけ心が軽くなった。もう一度、いないと分かっていながらも窓の外に目を向けてみる。

「あーあ、なんで別れちゃったんだろ…」

誰に向けたわけでもない呟きが、がらんとした教室に小さなため息と一緒にこぼれ落ちる。さっさと帰ろうと椅子から立ち上がったのと、教室の扉が勢いよく開いたのはほぼ同時だった。扉の方に目を向けるとそこにいた彼の姿にどきん、と大袈裟に心臓が跳ねた。

「あ…まだいたんだ」
「あー…うん」
「さっき下にいるの見えたから、もう帰ったのかと思ってた」
「うん…いや、お前が教室にいるの見えたから戻ってきたんだけど」

その言葉にもう一度心臓が跳ねた。どくんどくんとうるさくて、彼の声がなんだか遠くから聞こえるような気がする。なんで、って聞きたいのに、さっきから忙しなく脈打つ心臓のせいでうまく言葉にできない。今声を出したらひっくり返る、多分。盗み聞きする気はなかったんだけど…と、どこか居心地が悪そうに頭を掻きながら、一歩ずつこちらに近付いてきた千冬くんが「あいつと別れたって、ほんと?」とやけにはっきりとした声で聞かれてしまった。あれはそういうつもりで言ったわけじゃなかったけれど、彼氏と別れたのも本当だったから特に否定せずに小さく頷いて答えると、気まずそうにわずかに視線を逸らされた。

「そっか、あー…マジか」
「なんかだめだね、長続きしなくて」
「あ、ごめん、そういうつもりじゃ…」
「ううん。…松野くんは?」

「もうチョコもらった?」なんて、また聞きたくもないことを聞いてしまったのはすぐに別れてしまったことが急に恥ずかしくなって、かっこ悪く感じてしまったからだ。もう貰ったのかな、それともこれから約束でもしているんだろうか。いいな。理由もなくチョコを渡せる関係って。自分から手放したくせに今になって惜しくなるなんて、我ながらどうしようもないヤツだ。

「もらってない」
「え?」
「つーか、俺らももう別れてて」
「えっ、ごめん…わたし知らなくて…」
「あー…うん、いや、気にしないで」
「ごめん…」

沈黙が流れる。想定外の言葉に、教室内がなんとも言えない微妙な空気に包まれた。別れたなんて知らなかった。いつ?この前下駄箱で会ったあの日は、どうだったんだろう。きゅっと鞄を掴む手に思わず力が入る。本当にもう付き合ってないなら…チョコ、渡しちゃだめかな。嫌がられるかな。

「なぁ」
「えっ、あ、なに?」
「それ、誰かに渡すやつ?」

それ、と指差されたのは、鞄からちらりと覗くいかにもプレゼントが入っていそうな紙袋。まさに目の前の彼に渡したいと思っていたものだ。慌てて鞄を自分の方へと引き寄せた。

「えっと、これは…」
「俺以外のやつに渡されるの嫌なんだけど」
「え?」
「…この前下駄箱で会ったとき、やっぱナマエのこと好きだなって、思って」
「え、えっ」
「つーか、そもそも俺は別れたくなかったし」
「えっ、あの」
「でもナマエがもう俺のこと好きじゃねーなら仕方ないと思って、でも他の子と付き合ってみてもやっぱだめだった」

さっきから「え」以外の言葉を発せないわたしをよそに、千冬くんは「俺はまだナマエのこと好きだから、他のヤツにチョコやんのなんて嫌だし邪魔してーんだけど」と続けた。膝が小さく震えて、まるで徹夜した翌日みたいに足元がふわふわして覚束ない。どうしよう、わたし今絶対変な顔してる。思わず俯いて固まったままでいると、はぁ、と小さく息を吐き出した千冬くんに、「ごめん…こういうの嫌だったらはっきり言ってくれていいから」とさっきまでより少しだけ頼りない声で言われて、また心臓がぎゅっとなる。嫌なわけがない。わたしだって、あの日の彼の態度に、もしかしたらって期待したんだから。

「急にごめん、いきなりこんなこと言われても気持ち悪いよな」
「い、いやじゃないよ」
「…ほんとに?」
「あの…わたしも、一緒」

あの日、やっぱり千冬くんが好きだって思ったから、もしかしたら千冬くんもそうなんじゃないかって思ったから彼氏と別れた。彼女がいてもいいからどうしても渡したくて、チョコを用意した。気持ち悪いのはわたしの方だ。

「これは、千冬くんに渡したくて用意した」
「マジで?」
「マジ、です…」

再びはぁ、と大きく息を吐き出した千冬くんが力無くその場にしゃがみ込んだ。腕で覆われていたから顔はよく見えなかったけれど、金髪からちらりと覗く耳が赤くなっているのが可愛くて仕方ないて、彼と同じようにしゃがみこんで「顔見たい」と言うと「絶対やだ」と返された。

「あー、やばい。ニヤける」
「わたしも」
「俺さぁ、ナマエに松野くんって呼ばれんのすげーやだった」
「…千冬くん」
「うん」

そっちのがいいって笑った彼に「千冬くん、好き」と言ってみたら不意打ちずりぃってまた顔を赤くした彼の、以前と変わらないワックスの匂いがふいに鼻を掠めた。悪戯っぽく笑う彼から、そっちのがずるいじゃん、と赤くなった顔を隠すのは今度はわたしの番だった。

少女漫画みたいにできすぎた恋がいい

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