仕事中、パソコンの画面を見つめながらケンカの原因はなんだったっけなあ、とぼんやり考える。場地くんが靴下を脱ぎ散らかしてカゴに入れてくれなかった上に、重ねて脱いだ服をそのまま洗濯機に入れていたとか、飲み終わったペットボトルをキッチンに置きっぱなしにしていたとか、そんな理由だったような。ケンカのきっかけは確かそんなこと。原因はそれだけじゃない。それでも、なんて小さな理由で怒鳴ってしまったんだろうと、思わず溜息をついた。あぁ、頭が痛くて重い。
一緒に暮らしていると日々の小さな積み重ねが幸せであり、ストレスでもある。洗濯物の干し方が雑だったり、ゴミの分別が適当だったり。洗面所に立つたびに真ん中を押し潰された歯磨き粉のチューブが視界に入っては、小さな苛立ちが募る。端っこから使えばか。そんな愚痴をこぼしていると「洗濯物干してくれるだけマシだよ」と職場の同僚に宥められたけれど、場地くんの変な干し方のせいで形が歪んでしまったお気に入りのブラは以前奮発して買ったワコールの高いやつだったし、それはやっぱり許せない。場地くんの3枚990円のボクサーパンツとは一緒にしないでいただきたい。ていうか誰のために高い下着買ったと思ってるんだ。ばか。

なんだか最近のわたしは怒ってばかりいて。それでも毎回ケンカに発展しないのは、場地くんが軽く受け流して言い返さないからだ。多少不満そうな顔をすることはあっても、次の日には忘れてしまったとでも言うようにケロリとしているし、「言い返してケンカしてる時間が無駄」と以前言っていた。そもそもケンカしようという気がないらしい。わたしたちが普段大したケンカもせずに過ごせているのは、場地くんのそういう性格のおかげだった。でも昨日はそうはいかなくて。
いつものようにわたしが、あれができてない、こんなことしないでと怒っていると「じゃあお前は全部完璧にできてんのかよ」と珍しく強い口調で言い返された。今までわたしに対してそんなふうに怒る場地くんを見たことがなかったから、驚いて何も言えずにいるわたしに「もういいワ」と言った場地くんは結局朝まで寝室に来ることはなかった。リビングにあるソファで寝たらしい。一緒に暮らし始めてから数ヶ月、初めて別々に寝た夜だった。今日は早番だったらしく、わたしが起きるよりも早く家を出て行った場地くんに「いってらっしゃい」を言わなかったのも、今朝が初めて。いつもならわたしが寝ていても家を出る前には必ず声をかけてくれるのに。次の日まで引きずるケンカなんてしたことがなくて、朝起きたときはどうしようもなく悲しくて泣きそうになった。ていうかちょっと泣いた。
疲れているのにソファで寝かせてしまったことや、いつも怒ってばかりで可愛げのない姿ばかり見せてしまっていたことを反省していたはずなのに。思い出しているうちにやっぱりゴミはきちんと分別してほしいし、洗濯物の干し方もちゃんとしてほしい、という思考になってしまうわたしは本当に可愛げのない彼女だと思う。そんなことを考えていると余計に頭が痛くなってきた。ズキズキと痛むこめかみを押さえながら窓の外を見ると灰色の分厚い雲が空を覆っていて、やっぱり…とまた溜息を吐く。若い頃はこんなことなかったのに。気象病とか言うわけのわからない頭痛に悩まされるようになったのは、いつの頃からだったか。


いつも通り定時で全ての業務を終えて会社を出ると、外は雨が降っていた。昼休憩のときに見た天気予報アプリでは夕方までは曇りマークだったはずなのに、今見るとしっかり雨マークになっていた。会社から駅はそう遠くはないし、幸い雨もまだそこまでひどくはない。駅まで走るか、いっそ諦めて歩くか悩んでいると、同僚の男性が「傘ないの?駅まで入る?」と声をかけてくれた。

「あー、いや、大丈夫だよ。走るから」
「その靴で?」
「……」

今日に限ってヒールのパンプスを履いていたわたしの足元を指差して苦笑いした同僚は、「いいから入りなよ」と傘をこちらへと傾けた。ごめんなさいお邪魔します、と差し出された傘の下に入ろうとしたそのとき、ポケットに入れていたスマホが震えた。画面を見ると場地くんから「会社の前、車」とだけ書かれた短いメッセージが届いていた。顔を上げると見慣れた車が会社の前にハザードランプを焚いて停まっていて、「なんか、お迎え来てくれたみたい」と隣にいる同僚に伝えると「良かったじゃん」とニヤニヤと笑われてしまった。

慌てて車に駆け寄ると、場地くんが中から助手席の扉を開けてくれた。なるべく車内が濡れないようにと急いで乗り込み扉を閉める。

「ありがと」
「…おー」
「仕事終わるの早かったんだね」
「早番だったからな」
「…珍しいじゃん、お迎えなんて」
「あー…まぁ、雨だったし」

せっかく迎えに来てくれたのに、つい可愛くない言い方をしてしまった。「雨降ってるとお前すぐ頭痛いって言うし」と続けた場地くんの優しさに、なんだか申し訳なくなった。それきり会話の途切れてしまった車内には、ラジオから聞こえる流行りの歌と、雨が車を叩きつける音がだけが響いている。昨日のケンカを引きずっているからか、なんだか沈黙が重い。こんなときに限ってやたらと信号に引っかかってしまうのだから嫌になる。しばらく車を走らせていると、場地くんが前を向いたまま口を開いた。

「お前さぁ、さっきのなに」
「さっき?」
「…男の傘入ろうとしてただろ」
「あぁ、傘持ってなかったから声かけてくれて……って、」
「ンだよ」
「え、もしかして怒ってる?」
「うっせーな。悪いかよ」

雨のせいで窓の外はもう真っ暗だ。街灯に照らされて一瞬見えた場地くんは、バツが悪そうな顔をしていて、耳が少し赤くなっているのはわたしの気のせいじゃないと思いたい。その顔を見ただけで心臓がぎゅうっとなる。普段はかっこいいくせに、たまにこんな顔を見せるんだから場地くんはズルい。

「昨日のこと怒ってるのかと思ってたのに、違ったの?」
「はぁ?昨日?」

なんかあったっけ、と言う彼にはさすがに少し呆れてしまったけれど、それと同時にもう怒っていないんだとわかると心底ほっとした。元ヤンが怒るのは本当に怖い。

「昨日、わたしが怒ったら珍しく言い返したから」
「あー」
「ベッドにも来なかったし」
「普通にソファで寝落ちしてたわ」
「朝出るときも声かけてくれないし」
「寝坊して時間なかった」

一虎が酔って電話してきて2時まで付き合わされてよぉ、と話す場地くんの横顔を見ながら、そうだこの人はこういう人だったと思い出す。結局わたしが今朝からあれこれ気にしていたのは、場地くんの言う「時間の無駄」だったんだろう。

「めちゃくちゃ怒ってるんだと思って気にしてたのに…」
「なんでだよ」
「場地くんの言い方が怖かった」
「あー…」
「元ヤン出てた」
「悪かったって」

宥めるようにわたしの頭をぽんぽんと撫でる場地くんの大きな手に擦り寄ると「猫みてぇ」と笑われた。片手で運転したまま、本当に猫にするみたいにあごの下をすりすりと撫でられて、気持ち良いような恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちになる。

「わたしもごめんね」
「なにが」
「いつも怒ってばっかで」
「いや、それは普通に俺が悪いだろ」
「……やっぱりそうだよね?」
「おい」

目を見合わせて笑い合って、信号待ちの車の中で触れるだけのキスをして、それだけで今日1日わたしを悩ませていた頭痛もどこかへ行ってしまった。どうやら頭痛の原因は気圧じゃなかったらしい。マンションの駐車場に着くと、運転席から身を乗り出した場地くんに後頭部を引き寄せられた。いつもより優しい、甘やかすような口付けを何度も落とされて、つい口角が上がってしまう。それに気付いた場地くんに、「笑うなよ」とほっぺをつねられた。全然痛くないけど。

「んふふ」
「…その顔やめろ」
「ごめん」
「つーか頭痛は?」
「ん、もう平気」

もう一度唇が触れたと思ったら下唇をかぷりと噛まれ、薄く開いた唇の隙間から熱い舌が入り込む。後頭部に添えられていた手が首元や鎖骨を撫でながら下に降りていき、するするとブラウスの中に侵入して脇腹を撫でた。

「え、ここで…?」
「うん」
「いや、だめでしょ」

誰かに見られたらどうすんの、とその肩を押し返すとわたしが小言を言ったときよりもずっと不満そうな顔をされた。

「無理」
「ちょっ、待ってってば…!」

器用に助手席のシートを倒し、わたしの身体に跨るようにして馬乗りになられると、狭い車内ではもうどこにも逃げ場はなかった。



(夢の通い路企画提出物)

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