title by Annie



最寄駅の近くにある行きつけの小料理屋に入ると「いらっしゃい」と美魔女な女将が声をかけてくれた。「ナマエちゃん、今日も遅いのねぇ」と心配そうにしてくれるのがいつもちょっと嬉しい。カウンター6席と奥に小さな座敷があるだけのこじんまりとしたお店はチェーンの居酒屋に比べると少し高くつくけれど、その辺のお洒落なカフェやイタリアンよりもよっぽど居心地が良くて、お酒の種類が多いのも良い。なにより行きつけの小料理屋があるというのがなんだか大人な感じがして気に入っていた。

いつものカウンターに腰掛けて生ビールを頼んだ。冷たいグラスに口をつけて一口飲むと喉を通るしゅわしゅわした炭酸と下の上に感じる苦味がやけに美味しく感じられたのは、今日の気温がいつもより高かったからだろう。どこかで今年の最高気温を記録したとさっき開いたニュースアプリに書いてあった。もう夏はすぐこそ…いやその前に梅雨か、と思うといつからか感じるようになった低気圧による頭痛に悩まされる季節の訪れに少し憂鬱になった。

好物の揚げ出し豆腐は来るたびに注文していると、いつの間にか夏でも冬でも頼まなくても勝手に出てくるようになった。割り箸とは違う木の色の濃い細いお箸で豆腐を割ってつまむと衣と豆腐に染み込んだ優しい出汁の味が口の中に広がった。ゆっくりと味わってからビールをもう一口飲んだところで、店の引き戸が開いた。

「いらっしゃい」
「こんばんは」

三ツ谷くんもこんな遅くまで大変ね、と女将さんが苦笑いする。

「お疲れ、遅かったんだね」
「おー。つーか今日暑くね?」

隣の椅子に腰掛けた彼はわたしの手元を見ると「あーいいな俺もビールにしよ」と言って女将さんに生ビールをひとつ頼んだ。

乾杯、と既に泡が消えて半分ほどしか入っていないグラスと、綺麗に黄金比率で注がれたビールが入ったグラスが小さく音を立てる。


三ツ谷くんと出会ったのもこの店だ。最初はお互いひとりで来ていたけれど、よく顔を合わせるお客さんだなぁと挨拶をするようになり、そのうちに一緒に飲むようになった。話してみると年も同じで住んでいるところも近く、しかも働いている業界も同じ。そうなると自然と会話は弾んだ。

「ミョウジさん、あのブランドのAWコレクション見た?」
「見たー!ていうか展示会で既に1着買った」

まだ夏も来てないのに、もう秋の話してるの?と女将さんはまた苦笑いした。ファッション業界に身を置いていると良くあることだ。わたしたちはまだ肌寒い春先にサンダルを履くし、8月の終わりには既にブーツを履いている。

「買ったのってこのワンピ?」

三ツ谷くんがスマホの画面をこちらへ見せてくる。映し出されていたのはまさに先日買ったばかりのワンピースだった。

「そうそれ!一目惚れしちゃった」
「俺もこれ見てミョウジさん好きそうだなって思った」

…そういうところだよ三ツ谷くん。思わず溢れそうになった溜息を堪える。綺麗な二重幅と特徴的な垂れ目、すっと通った鼻筋に、隣から見るとより際立つ長い睫毛。正直デザイナーよりもモデルの方が良いのでは?と思うような顔立ち。まぁ、モデルするには身長がちょっと足りないか…と思いつつ、自社の新ブランドの服を脳内で三ツ谷くんに着せてみる。うん、似合う。所謂イケメンに分類されるであろう三ツ谷くんはたまにこう、グラっときそうな台詞を平気で吐くから困る。こうやって数多の女の子たちを勘違いさせて泣かせてきたんだろうな、と思う。

「さすがデザイナー様、よく分かってるね」
「ミョウジさん、このブランドも好きそう」
「えー、どれ?」

「ほらこれ、好きだろ?」とまた違うページをわたしに見せてきた。ほんと、好き好き連呼すんのやめてくんないかな。いや好きだけど、そのブランドは。

同い年で、同じ最寄駅、デザイナーをしていてとってもお洒落なイケメン。わたしが三ツ谷くんについて知っていることはこれぐらい。そういえば連絡先も知らなかった。好きになるにはわたしは彼のことをあまりにも知らなさすぎる、と思う。なにより、わたしは今のたまに会って飲むだけのこの距離感が気に入っていた。変な勘違いから貴重な飲み友達を失うのは惜しい。

「わたし、三ツ谷くんとはずっと良いお友達でいたいわー」

ちょっとわざとらしかっただろうか。わたしの言葉に三ツ谷くんはさっき頼んだ冷酒を飲みながら「へー」と返事をした。へーってなんだよ。

店に入って1時間半ほど経った頃、お互いに頼んだものをそれぞれお会計してから一緒に店を出た。それから5分ほど歩いた先にある分かれ道で「じゃあね」と言って別れる。これがいつものパターンだ。わたしの家は左に進んですぐ。三ツ谷くんの家がこの分かれ道からどれぐらいの場所にあるのかをわたしは知らないし、きっとこれから先も知ることはないんだろう。





「わたし、三ツ谷くんとはずっと良いお友達でいたいわー」
「…へー」

ふざけんなよ、マジで。


今のマンションに引っ越してから少し経った頃、雰囲気の良い小料理屋を見つけた。綺麗な檜の引き戸に敷居が高そうというか、入り難い空気を感じたけれど美味そうな匂いに釣られて一歩足を踏み入れると美人な女将さんが柔らかく笑っていらっしゃいと出迎えてくれてなんだかホッとした。

仕事終わりにすっかり常連になった小料理屋を訪れると、奥の座敷にサラリーマンが座っているが、カウンターには誰もいなかった。今日は来ていないのか、と小さく肩を落とした。会えば一緒に酒を飲んで食事をするけれど別に約束しているわけじゃない。なんとまぁ驚くことにいまだに連絡先すら知らない。だから、別に彼女が今日この店にいないのはなんら不思議じゃない。ただ、誕生日ぐらい気になる女の子と一緒に美味い飯食って美味い酒飲めたらいいなと少し期待して来たから思ったよりがっかりしてしまっただけだ。

「はい、どうぞ」

冷たいビールが目の前に置かれた。いつも通りきめ細かい泡が黄金比率で乗っている。

「ナマエちゃん、なかなか手強いわねぇ」
「ぶっ、ゴホッ…」
「あらやだ、ごめんなさい」

吹き出した俺に温かいおしぼりが差し出された。咽せながらすいません、と受け取ったそれを口に当てていると「若いって良いわね〜」と笑われた。年上の女性に言われるとやけに恥ずかしかった。


最初に話しかけたのは若い女の子がひとりでこんな店にいるのが珍しかったのと、服や持ち物のセンスが良いなと思ったからだった。あわよくばって下心も、まぁそれなりにあったりもして。話してみるとファッション関係の仕事をしていると言われ、やっぱりなってちょっと思った。それからもう数ヶ月、店で会えば一緒に飲む、それだけの関係を続けている。結構分かりやすくアピールしているつもりではあるけれど、暖簾に腕押しとでも言うのか、イマイチ手応えを感じない。数年前の俺なら酔い潰れてとりあえず身体の関係、なんて展開に無理やり持ち込んだかもしれないけれど、どうにもそこまでがっつく気にはなれなかった。それは30を手前にしてようやくそういう欲求が落ち着いてきたからと、良い飲み友達をそんな理由で失うのが嫌だったからだ。そして彼女が異様に酒が強いというのも理由の一つ。ザルを通り越してもはやうわばみだ。俺よりもよっぽど酒に強い。とにかくそういう隙がない。

「三ツ谷くんイケメンなのにねぇ」
「はは、ありがとうございます」

頬に手を当ててため息を吐くように「ナマエちゃんも今良い人いないって言ってたし、2人が上手くいけばいいのに」と、サラッと有益な情報を漏らしてくれた。それでも彼女が今以上の関係を望んでいないんだから仕方ないとも思う。

ビールを早々に飲み干して今日の2杯目は珍しく白ワイン。日本のワイナリーで作られているものらしく和食にも良く合う味だった。いや、ワインの味なんてそんなわかんねーけど。お品書きを見ながら今日は魚の気分すね、と答えると出てきたのは鱧真薯だった。上品な出汁の味が意外と白ワインにもよく合う。なんとなく、彼女の好きそうな料理だなぁ、と思いながらそれをつまむ。チェーンの居酒屋ではないのだから、その日によってメニューは変わる。あーこれ食ってほしいな、今から呼び出したら来ねぇかな。あぁ、そうだ連絡先知らないんだった、だめじゃん。そんなことを考えているとまるで図ったかのようなタイミングで店の引き戸が開いた。

「こんばんはー」

あ、三ツ谷くんいるじゃん、と嬉しそうに笑い、当たり前のように俺の隣の椅子に腰掛ける一連の流れにやたらと心臓が高鳴った。

「お疲れ」
「おつかれー。お、良いねワイン。わたしも飲みたーい」

店に入ってすぐに頼んだ白ワインと共に頼まずとも出てきた揚げ出し豆腐は彼女の好物らしい。

「あ、これも美味いよ」

良かったら、と先ほどの器を彼女に差し出すと「えー、いいの?ありがと」と控えめに一口分を箸で切り分けた。綺麗にリップが塗られた艶めく唇に箸を運ぶ仕草がやたらとえろく見えたのは、俺が既に酔っているからだろうか。





三ツ谷くんが良かったら、と言ってくれた鱧真薯を一口食べると口の中でじゅわっと広がった出汁の味とふわふわの真薯が絶妙なバランスで絡み合う。

「ん、美味しい」
「これ食ったときミョウジさん好きそうだなって思った」

白ワインのグラスを傾けながら言った三ツ谷くんを思わず睨みそうになる。そうでもしないと平常心でいられなくなりそうだったから。

「つーか今日のブラウスこの前俺が言ったブランドのさ」
「あーそう…今年の、SSの」
「だよな」

やっぱ似合うな、と甘く微笑む三ツ谷くんに今度こそ眩暈がした。別に三ツ谷くんに言われたから選んだわけじゃない。元々好きだったブランドの元々お気に入りだったブラウスだ。なのになんだか気恥ずかしくて思わず三ツ谷くんから目を逸らしてしまった。


『ナマエちゃん、なかなか手強いわねぇ』

いつものようにお店に入ろうと引き戸に手をかけたとき聞こえてきた女将さんの言葉に、ピシッと身体が固まる。そして直後に三ツ谷くんが咽せた。えー、と?つまりこれはそういう…?

今は店に入るべきじゃないと即座に判断し回れ右。思考が上手くまとまらない頭をフル回転させながらなんとかいつもの分かれ道まで歩いた、ところで再び回れ右をして店に戻った。いや、だってなんか普通に嬉しかったし。そういう対象に見てもらえてたんだなって思うと、やっぱり今日も会いたいなと思ってしまった。お店の前で一度大きく深呼吸してから「こんばんはー」と、店内に入った。いつもより大きな声が出てしまったような気がして少し恥ずかしい。なるべくいつも通りを心がけて三ツ谷くんの隣の椅子に腰掛けた。


バーほどではないにしても、その辺の居酒屋と違ってお酒の値段は安くはない。いつもならそこまでは飲まない三ツ谷くんが珍しくハイペースでグラスを空けるから、ついそれに付き合ってしまった。ビールとワインを飲んだあと、今日は洋酒の気分だと言ってウィスキーをロックで2杯。三ツ谷くんの目は既にとろんとしはじめている。ここで先に酔い潰れて可愛らしく寄り掛かったりできたらそのままお持ち帰り…なんて展開もあったのかもしれないけれど、残念ながらわたしの肝臓はそんなにひ弱ではないし、彼もそれを知っている。

「三ツ谷くーん、大丈夫?」
「んー…ちょっと、飲みすぎたかも」
「ちょっとじゃないって」
「残りミョウジさんが飲んでいいよ」
「えー」

カウンターに頬杖をついてへらりと笑った顔が可愛い、だなんて成人男性には失礼だろうか。三ツ谷くんから受け取ったウイスキーのグラスを傾けて、残りを一口で煽る。「さすが」と目尻を下げて笑った顔を見ながら、アルコールを即座に分解してくれるこの体質を今夜だけは少し恨んだ。

いつも通り会計を済ませて店を出る。昼間は暑い日が増えたけれど、夜はまだ心地よい風が吹いていて酔いを覚ますのにはちょうど良かった。隣を歩く三ツ谷くんは珍しくずっと無言だった。そんなに酔っているんだろうかと心配になってちらちらとその横顔を伺うけれど、顔色は悪くなさそうだし足取りもしっかりしている。いつもの別れ道に差し掛かる前に徐に口を開いた。

「俺さぁ、実は今日誕生日なんだけど」

思考が停止する。え、えっ?誕生日?今日!?

「えぇ!?ちょ、そういうことはもっと早く言ってよ!」
「この歳になって自分から言うのもあれじゃん」
「いや、言ってよ!そしたら奢ったのに…」

「そう言うと思ったから店では言わなかった」と苦笑いされてしまった。

「えー、じゃあ今度お店で会ったら奢る」
「だから良いって」

次行くときはしっかりお金下ろして行かないとな、なんて考えていると、再び口を閉ざした三ツ谷くんがじっと見つめてくるから、なんだか妙に緊張してしまう。「他にほしいものあるんだけど、言っていい?」と、言われて更に緊張感が高まった。

「そんなに高価なものじゃなければ…」
「ミョウジさんの連絡先」
「え…」
「やっぱこういうのだめ?」
「いや、だめじゃない、けど…」
「けど?」
「なんか、こう、勘違いしたくなるじゃん」

たまらず三谷くんから視線を逸らすと「ここまで言ってんだから勘違いしてよ」と笑った三ツ谷くんの声がなんだか耳に心地良い。

「…三ツ谷くん誰にでもこういうこと言ってそう」
「あー、もうそういう時期は終わったから」

時期ってなんだ、時期って。ていうかそういう時期もあったんかい。





酒の力を借りないと連絡先も聞けないってどういうことだ。こんな姿、ドラケンたちに見られたら絶対ぇ馬鹿にされるだろうな。でもずっと流されるような刹那的な恋愛ばかりしてきたからか、こういうのも悪くないと思ったんだ。

「連絡先は、全然良いんだけど」
「うん」
「勘違いしたそのあとはどうなるの?」

しっかりしてんなぁ。地に足が着いてるって感じ。でもこういうのがミョウジさんの良いところだってこともちゃんと知ってる。

「責任は取るよ」
「責任って言われるといきなり重いな…」
「いや、自分で聞いたんじゃん」

ミョウジさんとのこういう掛け合いも結構好き。彼女の隣はいつだって居心地が良い。

「えっち上手いよ、俺」
「三ツ谷くんかなり酔ってるね?」
「んー…うん…わりと?」

「でも酔って記憶なくしたことはねぇから安心して」そう言って甘えるように彼女の細いくびれに腕を巻き付ければ「もー、酔っ払いだるいって」と言うけれど、嫌がる素振りは見せなかった。家寄っても良い?と聞けば「三ツ谷くんの家がいい」と返された。いつもの分かれ道の先を手を繋いで歩く。足元がふわふわとどこか覚束ないのは多分飲みすぎたせいだけじゃない。

「あー、あんな飲まなきゃ良かった」
「なんで?」
「いや、なんか…勃たねーかも」
「えー…三ツ谷くんってそういうのストレートに言っちゃうタイプなんだ…」
「いやだった?」
「別に嫌ではないけど…なんかちょっと恥ずかしいじゃん」

いくら飲んでも顔色ひとつ変えないくせに、こんな一言で赤くなるのが可愛い。勃たねーかも、なんて余計な心配だったわ。つーか好きな子を前にしてそういう欲求が落ち着くわけがなかった。

「ていうかわたしえっちするなんて言ってないからね?」
「え、この流れでヤらねーとかある?」
「だってまだ付き合ってないよわたしたち」
「あ、」
「ねーえー、ほんとしっかりしてよ酔っ払い」

呆れたように言いながらも繋いだ手は離さないらしい。あーもう可愛いな。

「俺と付き合ってください」
「ふふ、よろしくお願いします」


「あ、わたしも言い忘れてた」
「ん?」
「お誕生日おめでとう、三ツ谷くん」


後日「えーやだ!お赤飯炊かなきゃ!」と誰よりも喜んだのはいつもの小料理屋の女将さんだった。

お似合いのよすが

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