title by ユリ柩


火曜日の2時間目。期待に弾む心臓をどうにか鎮めたくて、一度小さく息を吐き出してからをしてから胸に手を当てる。いつものように社会科準備室と書かれた札の下にある扉に手をかけると、本来なら施錠されているはずのそれはガラガラと音を立てて開いた。はぁ、と白々しくうんざりと溜め息をつきながら、勝手に鍵を開けたであろう人物に声をかけた。本当はそんなこと、これっぽっちも思っていない。

「松野くん」
「ミョウジ先生、おはよ」
「おはよう、じゃないよ。またサボったの?」

もう2時間目始まってるよ、とわざとらしく呆れたように言えば、松野くんは読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。「先生は学生の頃サボったことないの?」と聞かれて、間髪入れずに「ないよ」と答える。高校までは。大学生の頃はそれはもうサボってバイトや遊びに明け暮れていたけれど、そんなことは今はどうでもいいし彼に言う必要もないから言わない。

「真面目かよ」
「普通だよ。ほら授業行きな」
「はいはい」

教科書が全く入っていないのが一目でわかるぐらいペラペラのスクールバッグに漫画を入れて、先生またね、と社会科準備室から出て行った松野くんを見送りふぅ、と息を吐いた。心臓はまだうるさいままだ。
この春大学を卒業し、不安と期待に胸を躍らせて……いや不安7割、働きたくない気持ち2割、かっこいい先生いないかな、という邪な期待1割ぐらいの気持ちでやってきたこの高校。赴任前から分かってはいたけれど、ちょっとやんちゃな子が目立つ。赴任先の学校を聞かれて答えると「大変そうだね」と返されることが多い。底辺とまではいかないけれど、実際治安はあまり良いとは言えない。

「空き時間は好きに使っていいよ」と言われた社会科準備室は、他の先生はあまり使わないらしい。去年まではおじいちゃん先生が使っていたらしいけど、今はもうほとんど物置にされていると聞いた。学校内で好きにできる部屋をひとつ手に入れられるなんて幸先良いな、と思いながら扉に鍵を差し込み回すとくるり、と空回りした。つまり既に鍵が開いているということだ。誰か他の先生が資料でも取りに来ているんだろうかと思いながら「失礼しまーす」と声をかけて中に入ると、1人の男子生徒が奥にある椅子に腰掛けて漫画を読んでいた。どちらかというと小柄で可愛らしい顔つきではあるものの、着崩された制服と金髪にピアス。明らかに真面目な生徒ではないその風貌に、思わずうわ、と一歩後退った。不良だ。しかしサボりを堂々と見逃すわけにもいかないし、せっかく手に入れた空き教室をこんなことで手放すのも惜しい。いまだこちらに気付く様子のない男子生徒に、やっぱり声かけるのやだな、と思いながら、仕方なく話しかけた。

「…あの、」
「ん?」
「ここ、今から使うから」

教師が生徒に舐められるわけにはいかない。そう思い、緊張しつつも引き攣った笑みを貼り付けて「出て行ってね」と言ったわたしの顔をちらりと見た男子生徒は「やだ」とだけ返して再び漫画に視線を落とした。

「やだって…あの、授業始まってるよ?」
「知ってるけど」

なるほどほとんど誰もこない空き教室なんて不良の格好の溜まり場だ。だから他の先生たちも使わないんだ、と納得した。もしかしたら去年まで使っていた先生は見逃していたのかもしれないけど。それにしてもこの子可愛げないな。顔は可愛いのに。

「つーか誰?」

こちらを見ることなく投げかけられた一言に、なんて生意気な生徒だと思った。「クソガキ」と、思わず頭に浮かんだ言葉がうっかり口をついて出てこないように、すぅ、と息を吸い込んだ。いけないいけない。わたしはもう教師なんだから。

「ミョウジです。始業式で紹介されてたんだけど」
「ふーん」

「始業式出てねーや」と続けられた言葉に、心の中で「そうでしょうね」と答える。なかなか出て行ってくれなさそうな不良くんが座る向かいの椅子に腰掛けると、そこでようやく漫画から顔を上げた彼の綺麗な空色の瞳と目が合った。お、やっぱりイケメン。

「きみは?」
「…なにが?」
「名前」
「……松野千冬」
「何年生?」
「2年」
「松野くんのクラス、今なんの授業?」
「知らねーけど、体育以外」

体育は出るのかよ。そこはちょっと可愛いな。警戒したような視線が、猫みたいだと思った。

「松野くんにここに居られると、わたしが怒られるんだよね」
「あっそ」
「だから、わたしのいないときだけにしてくれない?」

一瞬ぽかんとした顔をした松野くんが、直後にふはっと笑った。なんだよ、笑うとやっぱり可愛いんじゃん。ちょっと今の笑顔はズキュンときちゃったよ先生。クソガキだなんて思ってごめん。

「それでいいのかよ」
「いいよ。どうせ他の授業もサボってるんでしょ?」
「まぁそうだけど」
「そこは目瞑ってあげるから、わたしがここにいるときは出て行ってね」

そう言って向かいに座る松野くんの手から漫画本を取り上げると、はぁ…と小さく溜息を吐いてようやく椅子から立ち上がってくれた。それからわたしから奪うようにして取り返した漫画を鞄に突っ込んだ。「火曜のこの時間は多分毎週来るから、松野くんは来ちゃだめだよ」と言えば、扉に手をかけた松野くんがこちらを振り返る。

「先生、名前なんだっけ」
「ミョウジだよ。ミョウジナマエ」
「…またね、ミョウジ先生」

だめだと言ってもそれ以降も火曜の2時間目には必ず社会科準備室にいる松野くんを毎回追い出していると、今度は昼休みや放課後に来るようになった。昼休みや放課後は追い返す理由もなくて、仕方なくそのまま流れで一緒に過ごしている。会話をする時もあればしない時もあって、たまにわたしのお弁当のおかずを掻っ攫っていく松野くんと過ごしていると、なんだか野良猫にでも懐かれたような気分だった。

「先生ってさぁ」
「んー?」
「彼氏、いんの」

ついさっきわたしから奪った、食後のデザートにするつもりだったお菓子を食べながら何の気なしに聞いてきた松野くんの視線が、探るように動く。見た目のイメージよりも低い声がわずかに緊張しているように感じるのは、多分気のせいじゃない。そんな彼の態度にちょっと浮ついた気持ちになってしまうわたしは教師としてどうかと自分でも思う。

「…彼氏はいないけど」
「へー」
「旦那ならいるよ」
「えっ」
「えって、失礼だなぁ」
「え…マジで結婚してんの?」

くりっとした猫目を見開いた松野くんの声に、焦りの色が滲んだ。そのことに、ほんの少しの優越感を感じてしまう。可愛い生徒で遊んではいけない、そう思うのに、あからさまな好意を向けられて悪い気はしなかった。我ながら最低な自覚はある。

「嘘だけど」
「嘘かよ」

背もたれに身を預けた松野くんが、はぁ、と安堵の息を吐き出して、わずかに口元を綻ばせた。彼はそういう顔を見せる相手を間違ってると思う。そういうのは、同級生とした方がいい。

「…いるよ、彼氏」

びくり、と長机越しに向かい合う男の子の、薄い肩が震えた。ぱっと反射的に顔を上げた松野くんの、綺麗な瞳の奥が動揺に揺れているのをじっと見つめる。

「…それも嘘?」
「これはほんと」

大学のサークルで知り合った同い年の彼氏とは付き合ってもうすぐで2年半。そこそこ順調なお付き合いを続けているけれど、前回会ったときに生理だと嘘をついてセックスを断ってしまったのは、今目の前にいる彼のせいだった。こんなこと、誰にも言えないけど。

「先生の彼氏ってどんな人?」
「別に、普通のサラリーマンだよ」
「かっこいい?」

ここで、「なんの仕事してる人?」とならないのが高校生って感じだよなぁ、と思った。これが同年代か上の世代の人との会話なら、歳は?仕事は?年収は?となるけれど、高校生にとって大事なのはそこじゃないんだろう。はぁ、若いっていいな。いやいや、わたしもまだ若いけど。高校生と接していると自分が全然若く感じられなくなってくるから本当に怖い。

「かっこいいかは微妙。でも可愛いよ」
「可愛い系好きなの?」
「たまたま付き合った人がそうだっただけ」

嘘だよ。可愛い男の子が好きだから今の彼氏だってほぼ顔で選んだし、松野くんのその可愛い顔だって実はドストライクだよ。なんてことも、もちろん言えるはずもないので心の中に秘めておく。すると松野くんは「…俺と彼氏どっちが可愛い?」と聞いてきた。

「あ、可愛い自覚あるんだ?」
「嬉しくはねーけど…たまに言われる」
「うーん…僅差で松野くんの方が可愛いかな」

若さには勝てないね、と言いながらふわふわの金髪に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でると途端に不機嫌そうな顔をされた。子ども扱いすんな、と言われてしまったけれど、わたしからしたら立派な子どもなんだから仕方ないし、その顔だってやっぱり可愛い。肌だって、張りがあってぴちぴちじゃんか。

「松野くんは?彼女いないの?」

いるわけない、って思ったのは彼からの明らかな好意を感じていたから。こんなに分かりやすくわたしに「好き」を向けてくるんだから、きっと彼女なんていないんだろうなって、勝手にそう思っていたのに。

「いるよ」
「……へぇ、ちゃんと青春してんじゃん」

松野くんからの返事に、ぐ、と息が詰まって、一瞬、え、なんで?って聞き返しそうになってしまった。大丈夫。声は震えていなかった、はず。

「うちの高校の子?」
「同じクラスの、吉川ってやつ」
「吉川さん?2年生は授業持ってないからわかんないな」

どうやら彼がわたしに向ける好意は、思春期にありがちな大人に対する幻想だったらしい。松野くんはそれがちゃんと分かっていて、同級生と年相応な恋愛もしているんだ。それなのにわたしときたら勝手に妄想を膨らませて、大人としても教師としても最悪だ。途端に恥ずかしくなって、熱を持ち始めた顔を隠そうと机の上に置きっぱなしにされていた松野くんの漫画を手に取り読むふりをした。

その日の放課後、職員室で松野くんのクラスの名簿をこっそり見てみた。しかし吉川という名前は見当たらなかった。というか松野くんのクラスどころか、そもそもこの学校に吉川という苗字の女子生徒なんていなかった。

「松野くんってマジでクソガキ…」

思わずその場にしゃがみ込んでしまいそうになるのはどうにか堪えたけれど、思わず大きな溜息を吐き出してしまった。揶揄われていたことに気が付いて腹が立ったけれど、それよりも松野くんに彼女がいなくてホッとしてしまったのも事実だった。「ミョウジ先生、どうかしました?」と近くにいた教頭に声をかけられたけれど、「いえなんでも!」と思ったより大きな声が出てしまって、恥ずかしかった。
その夜、1週間ぶりに会った可愛い彼氏とのえっちの最中、甘い声で「ナマエ」って呼ばれて「きもちい?」って弱いところを責められて。目の前にある可愛い顔に、たまらず手を伸ばした。そりゃあ気持ち良いんだけど、なんかもうだめだった。目を閉じると浮かんでくるのは違う可愛い顔だったから。それからはひたすら目を瞑って脳内変換に勤しんだ。頭の中で、腰を打ちつけるたびに金髪が揺れた。あのくりっとした猫みたいな目を細めて「先生、かわいい」って幻聴まで聞こえてくるんだから、もうどうしようもない。生徒をオカズにしてしまうなんて、本当に最悪。教師失格。誰かわたしを埋めてほしい。
次の日の空き時間、コーヒーをお供に社会科準備室で雑務を片付けていた。窓からグラウンドを見下ろすとちょうど松野くんのクラスが体育の授業をしているところで、本当に体育はサボらないんだなぁ、なんて思いながら見ているとふとこちらを見上げた松野くんとばちんと目が合った。その瞬間、ふわっと笑った松野くんの笑顔にわたしはまたズキュンと射抜かれた。それと同時にこんな幼気で穢れを知らなさそうな少年をオカズにしてしまった罪悪感で死にそうになった。


「松野くんのクラスに吉川さんなんていないじゃん」

心臓がうるさい。この一言を吐き出すために何度深呼吸したことか。今日も今日とてわたしの食後のデザートを奪った松野くんに言えば、「名簿、調べたんだ?」と猫目を細めて悪戯っ子のように笑った。ムカつくけどその顔はやっぱり可愛い。

「先生」
「…なに」
「彼氏と俺、どっちが好き?」

なんだよ、その答えなんて分かってるけど、みたいな聞き方。どこか余裕そうな表情がほんと生意気。

「松野くん」
「千冬」
「…千冬、くん」
「うん」

言われた通りに名前で呼べば満足そうに笑った顔が、やっぱりドストライク。机から身を乗り出した彼はわたしの頬にそっと手を添えて、ゆっくりと顔を近付けてきた。

「んむっ、」
「こら、大人を揶揄わないの」

唇が触れる少し前にその顔を手で制すると、わたしの行動が予想外だったのか顔を顰めた松野くんが「ケチ」と言った。ケチじゃないんだよ。そんなことしたらこっちは職失うんだよ。死活問題なんだよ。教員免許取るの、どんだけ大変だと思ってんのよ。「松野くんは先生を無職にしたいの?」と言えばようやく諦めてくれたらしい。乗り出していた身体を戻し、ムスッとした顔のまま椅子に座り直した。

「ちなみに、」
「なに」
「彼氏とは別れました」
「………マジで?」
「マジで」

それを聞いた松野くんははぁ…と大きな溜息を吐いてから「先生ずりぃ」と、ずるずると椅子の背もたれにもたれ掛かりながら、小さく笑った。

新しい春を掘り起こして

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