【散りゆきてなお】
合肥に駐留する張遼が重い病だと聞き、曹丕は堪らず駆けつけた。
臥せっていたと報告を受けていた男は今、隣をゆっくりと歩いている。はらはらと散り始めた桜の花びらが、その髪に触れては落ちた。
「今年は見事なものです」
「そうか」
穏やかな横顔を眺めていると、言いたかった言葉がつかえてうまく出てこない。
病をおし何度も戦場に出る張遼を、孫権はいまだ警戒しているようだった。その存在自体が合肥の守りの要になっている。
しかし、張遼の齢はすでに五十を越えた。
張遼が居なくなった後のことは、戦局上では考えていた。それでも一武将としてではなく、ひとりの人間としての張遼を失うことは、いまだ考えられずにいる。
考える事が、耐えられなかった。
「調子はどうだ」
やっとの思いで出た言葉は、自分でも驚くほど冷静だった。
「おもいのほか、良くはないようです」
昔からこの男は、偽るということを知らない。
「それは困る。お前の後継はいささか頼りない」
「申し訳ございませぬ」
「お前そっくりな奴ならよかった。この樹のように、武も知もたわわな奴なら」
「誰もが散るのです、この花のように。そして次代の養分となります」
張遼が言わんとしていることは分かった。それでも曹丕は、今、この花がいいのだ。
「私は貴方の養分に、そして次代の礎のひとつになることができるのなら、それでいいのです。…だから、」
そっと張遼の手が曹丕の髪に落ちた花びらをはらった。
「…他の者の前では、そんな顔をしないでください」
自分は今どんな顔をしているのだろう。きっと情けない表情に違いない。
曹丕は張遼を力任せに抱きしめ口付けた。
痩せてしまった。いつの間にか自分よりも小さくなってしまった。
それでもその存在は曹丕の心を大きく占め、いつでも初めて会った少年時代にまで戻してしまう。
張遼の手が子供をあやすように曹丕の背を撫でる。
角度を変え何度も唇を重ねてその舌を翻弄する間も、暖かな腕は曹丕を包み込んでいた。
ようやく唇を離す。五十代とは思えない張遼の妖艶な表情に猛る情欲を抑え、抱きしめる腕に力を込めた。
「知っていたか…?」
「何をですか」
「私の初恋は文遠、お前だ」
どく、という心音を感じて身を起こすと、驚いたような張遼の表情が見えた。
額を寄せてほんとうだと囁くと、ほんのわずか、頬に朱が差した。
「他の者の前では、そんな顔をするな」
言うと、仕返しですかと少し笑った。
いつも悠々と構える男のそんな表情に愛おしさと、同時に切なさを覚える。
考えたくはなくとも、近いうちにこの花は散るのだ。
「綺麗ですな…」
はらはらと降りかかる花びらを両手で受け止め、張遼は微笑む。
「ああ、そうだな」
本当に、本当に綺麗だ。
お前が私の礎になることを望むなら、その花びらを、全てを受け止めよう。
散り行く後もその美しさを、気高さを忘れずにいよう。
それでも、いつまでも共にと
どうしても、願わずにはいられない…。
すすり泣きの声が聞こえた。
張遼死す、の報せに、以前張遼の部下だった者が思わず漏らしたものだ。
曹丕はゆっくりと目を開ける。
それと同時に、いつかの風景がまぶたの裏から溶け、今まさに花びらの中にいるという錯覚も消えた。
伝えにきた早馬の者も、目を腫らしている。
そうか、とだけ答え、曹丕は天井を見上げた。
お前から得たものはこれまでも、そしてこれからも支えに、あるいは道標に。
握り締めたこぶしに、触れるものがあった。見ると、季節外れの花びらが一枚。
優しく撫でるように掠めたそれは、やがて、曹丕の足元にゆっくり滑り落ちていった。
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曹丕の初恋は張遼なのだということをしつこく主張。
曹丕は張遼に、恋慕のほか少しばかり父性なんかも感じていたのではないかなぁと勝手に妄想しては身悶えております。認められたかった、越えたかった大人のひとり、それが張遼。
30代×50代なんて濃いものを読んでくださってありがとうございました!
(06/06/01)