恐れ慄くことはないのです、我が子よ!4


 一番古い記憶は、潮のにおいと波の音。取り戻した意識を再び失いそうなほどの、背中の激痛。まるで、世界から拒絶されているかのような、孤独感と、恐怖心。そして、夜空に滲んだアイツの顔、それだけが光って見えた赤い瞳。それが、わたしにとっての『はじまり』だった。



* * *



 ビッケは黙って、エルの背中に刻まれたユンゲラーの『サイコカッター』による傷を、濡らしたタオルで優しく拭う。粗方の汚れを拭き取ると、消毒液を染み込ませたガーゼで、丁寧に傷口を消毒した。
 エルがグズマへの誤魔化しの為に言ったように、物理攻撃があまり得意でないユンゲラーの『サイコカッター』は、それほど大きな傷を残しはしなかったようで、ビッケは心から安心する。それに、エルの背中にあるこの大きな傷痕から比べれば、ユンゲラーがつけた傷など微々たるものであった。


(…これほどの傷、人の手でつけられるものじゃない…。恐らく、ポケモンにつけられた傷なんだわ…)


 エルの傷はその部分だけ赤黒く変色しており、背中一面に達するほどの傷の大きさからしても、凡そ人間の手によるものではないことは明らかだった。人間よりも遥かに強大な力を持つ、ポケモンの仕業によるものと考えるのも、何ら不思議ではないだろう。


(傷口の形状からして、恐らく巨大なポケモンの爪痕…。すると考えられるのは、ドラゴンタイプか、もしくは…)


「…理由、聞かないでくれるんだね。ありがとう、ビッケさん」


 ビッケが思案に耽っていると、背中を向けたままのエルが、笑いながらそう言った。我に返ったビッケは、慌てて表情を取り繕い、エルの背中の手当てを続ける。


「いえ…ご事情がおありなのでしょうから」


「優しいねえ、ビッケさんは。まあ、事情を聞かれたところで、説明できないんだけどさ」


「…? それはどういう…」


「覚えてないんだよ、なんにも。この傷を負った時のこと」


 そう語るエルの声色は、驚くほどアッサリとしていて、逆にビッケの方が困惑してしまった。エルにとって、記憶がないこと自体は、さしたる問題ではないらしい。ならば何故、背中を見せることを頑なに拒んでいたのか。


「わたしを育てたヤツが言ってたんだけどさ、野生のポケモンは普通、人間を襲うようなことしないんだって。あるとすれば自分の縄張りを荒らされた時くらいで、そうだとしてもこんな風になるまで痛めつけるようなことは、しないって」


「え、ええ…。我々も野生ポケモンの行動パターンは把握しています。その方の言う通り、野生のポケモンは滅多なことでは、人に危害を加えません」


「…だから、わたしの背中の傷は、ポケモンが人に命令されてやったものだって、そうとしか考えられないって、アイツは言ってた」


 心配そうに鼻を鳴らすマーシャの頭を撫でながら、エルは静かに語った。その可能性は、エルの背中の傷を見てすぐに、ビッケも考えていた。
 ポケモンという生き物は、ペットとして飼われているものもいれば、扱いを間違えれば最悪、死に至るほど危険なものもいる。ポケモン図鑑にも、過去に襲われたケースがあるという記述がされているポケモンは多い。
 しかし、その記述のいずれもが生還者による伝聞で、実際に大怪我を負った、もしくは死亡したという例は、報告されていない。まるで、ポケモンにも最低限の矜持があるかのように、野生のポケモンと人の関係は、一定のバランスを保っていた。それを壊すのはいずれも、人に使われ、人と隷属関係にあるポケモンである。つまり、ポケモントレーナーと、そのポケモンだ。


「もし本当にそうだとするなら、そいつはきっと、わたしのことを殺そうとしてたんだと思う」


「……!」


「…あんまり、気分のいいことじゃないでしょ。人殺しをさせられるポケモンが、この世界のどこかにいるかもしれないなんて……。そういうことを思い出させるから、わたしはこの傷が嫌いなんだ」


 優しい手つきでマーシャを撫でるエルの表情は、深い悲しみに満ちていた。ビッケはそれ以上なにも言えなくなってしまって、エルを労わるような優しい手つきで、彼女の背中の傷に包帯を巻いていく。
 もしもエルの傷痕が、人間から命令されたポケモンの仕業だとするなら。いや、それ以上に、彼女の死を願った誰かがいるのだとしたら。何も知らず、覚えてすらいないのに、自身に確かな殺意が向けられたのだと知ってしまった彼女の心中は、想像を絶するものであっただろう。ビッケはただ、エルが少しでも痛みから逃れられるように、入念に傷の手当てをすることしか、できなかった。



* * *



 エルがビッケから手当てを受けている間、グズマはそわそわとした様子で、眠る子供たちの頭を撫でるルザミーネのことを見ていた。
 どう見ても自分と同年齢か、或いはそれよりも年下にしか見えない彼女が、実は自分よりもひとまわり以上も年上で、おまけに二児の母だと知った時には、両目玉が飛び出す勢いで驚いたものだ。
 交番の主であるクチナシは、ビッケのハピナスが見張っているという件の盗人を逮捕しに、ウラウラの花園へと向かったので、実質グズマとルザミーネは、二人きりの状態だった。


「んぅ…かあさま……」


「ふふ、かあさまはここよ、リーリエ。もう何も怖くありませんからね…」


「…よくよく見りゃあ、そっくりだよな、アンタら親子」


「ええ、ふたりとも、わたくしの自慢の子供たちですのよ」


 そう笑うルザミーネの表情は、最初にグズマに見せたものとは違う、紛れもない母親のそれであった。その眼を見ていると、普段であれば女子供といえど容赦のないグズマでさえ、あっという間に毒気を抜かれてしまう。彼女には、人を惹きつける不思議な魔力があった。


「ねえ、そういえばあなたのお名前、まだ聞いてなかったわ」


「あ゛? …オレさまはグズマ。泣く子も黙るスカル団のボス、グズマさまだ」


「グズマ…。いいお名前ね。あなたにもお礼を言わなくてはなりませんわね、あのユンゲラーを倒してくれたこと」


 一瞬、ルザミーネの眼の色が、とても冷たいものに変わる。まるで、愛しい子供たちを危険な目に遭わせたユンゲラーと、そのトレーナーへの怒りを、押し隠しているような眼だった。


「…なんて、なんて醜いのかしら。わたくしの子供たちが目にする世界は、美しいものでなくてはならなかったのに……」


「……?」


「でも、あなたのおかげで、わたくしの溜飲も下がりましたわ。ありがとう、グズマ。あなたは本当にお強いのね」


 にっこりと笑うルザミーネに、グズマは「お、おう」とだけ返した。どうやら、自身の強さを称えられたことに、それほど悪い気はしなかったらしい。ルザミーネはそんなグズマの様子に微笑んで、ふと何か思いついたように、懐から何かを取り出す。


「これ、よろしかったらお持ちになって」


「あ゛?」


「わたくしの名刺ですわ。何か困ったことがあったら、いつでも連絡してちょうだい」


「なっ…いいのかよ? アンタ、どっかの組織のお偉いなんだろ、そんなヤツが俺なんかを…」


「あら、自分のことを『なんか』だなんて言うのはおよしなさいな。わたくしは、わたくしが好きだと思った人と、お付き合いしたいの」


「……!」


「わたくし、強い人も、それからいい子も好きよ。だから、あなたと仲良くしたいの、グズマ」


 あまりにもあっさりとそう言ったルザミーネに、グズマは度肝を抜かれるような気分だった。
 今まで、アローラ中の誰もが、グズマのことを相手にしなかった。しまキングの師匠に逆らい、カプに喧嘩を売って破門された、愚か者だと言われ続けてきた。自分を認めてくれた大人は去っていき、残ったのは同じ穴のムジナの、スカル団の連中だけ。エルのような物好きもいたが、ポケモントレーナーでもない彼女では、グズマの心の中の満たされない部分を満たすことはできなかった。
 だが、ルザミーネは違った。一度ポケモンバトルを交わせば、そのトレーナーがどれだけの実力を持っているのかは一目瞭然だ。ルザミーネは確かに強かったし、それに気ままな少女のようでありながら、それでいて自分より遥かに大人だった。そんな彼女が、自分のことを認めてくれた。ハラのもとを飛び出てから、どうしても埋まることのなかった空虚な部分が、初めて満たされたような気がした。


「代表、お待たせしました」


 その時、エルの手当ての為に奥の部屋にいたビッケが、ルザミーネのもとに戻ってきた。何となく後ろめたいような気がして、グズマは急いでルザミーネの名刺をポケットに突っ込む。しばらくしてクチナシの服を借りて着たエルがやってくると、ルザミーネはもう一枚の名刺を取り出した。


「エルさん、大丈夫かしら?」


「ええ、この通りピンピンしてますから! 心配してくれてありがとう、ルザミーネさん」


「あなたにも、これをお渡ししておきますね。わたくしたちの手を借りたいことがあったら、いつでも連絡してちょうだい」


「あ、ありがとうございます」


「それに、もうすぐエーテルパラダイスも完成するから、近々アローラに越すつもりですの。そうしたら、改めてお礼をしますわ」


 エーテルパラダイス。その単語が、やけにグズマの耳に残った。



* * *



 エルとグズマ、それから男を逮捕して戻ってきたクチナシに別れを告げ、ポー交番を後にしたルザミーネたちは、専用の船に乗ってマリエシティの港へと降り立った。辺りはすっかり暗くなっていて、月と星が夜空に輝いている。すやすやと眠るリーリエとグラジオを愛おしそうに見つめながら、ルザミーネは迎えにきた職員に2人を任せた。


「代表、やはり今日はお休みになった方が…。先方には私が頭を下げますので…」


「子供たちのそばにいたいのは山々ですが、わたくしには為さねばならないことがあるの。その為には、一分一秒とて惜しいのよ、ビッケ」


「…はい、わかりました」


 ルザミーネとビッケは、マリエシティの南方に建つ高級和食店、ローリングドリーマーを訪れた。ジョウト風の暖簾を潜り、オリエンタルな音楽が響く店内へ入ると、店主の男性がルザミーネを見るなり、すぐに奥の部屋へと通してくれる。そこは商談や会合の際に使用される、完全防音仕様の個室であった。


「お待たせしてしまい、申し訳ございません。…ゲーチス殿」


 ビッケが恭しく頭を下げた先に、凡そこのジョウト風の空間には似つかわしくない風貌の、長身の男がいた。高級そうなスーツ姿に、インバネスコートで右半身を隠したその男は、窮屈そうに脚を組んでルザミーネたちに視線を向ける。その男の名は、ゲーチスといった。


「これはルザミーネ嬢、お会いするのは実に13年ぶりですね」


「まあ、ルザミーネ嬢だなんて! わたくし、もう2人の子供の母親ですのよ。お嬢さん扱いはおよしになって、ゲーチスさん」


「失敬、ルザミーネ代表とお呼びするべきでしたか。昔と何ら違わぬ美しさのままでしたので、つい」


「フフッ、本当にお上手なんだから。…ビッケ、少し下がっていてちょうだい」


「…かしこまりました」


 ルザミーネが視線をやると、ビッケはすぐさま部屋から出る。畳と木目の壁に囲まれた広い部屋に、ルザミーネとゲーチスの2人だけが取り残される。ルザミーネはゲーチスの向かいの席に座ると、その長く細い脚を組んだ。


「イッシュからわざわざご足労いただき、感謝しております。…それから、わたくしの話を信じてくれたこと、本当に心からありがたく思っておりますのよ」


「些か突飛な話ではありましたが、モーン博士の論文は、ワタクシも目にしておりましたので。…それにしても、よく決断なされたものです」


「…ウルトラビーストは、この世界のポケモン達をも遥かに凌駕する力を持っています。5年前の襲来の際には甚大な被害が生まれ、あの国際警察ですら犠牲を伴って、ようやく駆除できたのですから」


 ルザミーネの表情が、みるみる厳しいものに変わっていく。その美貌に似合わぬ鋭い眼差しで、目の前のゲーチスを見上げた。


「夫は、あのバケモノだらけの世界に、今もたった1人で取り残されているのです。それに、いずれまたウルトラホールは開くでしょう。今度あのバケモノの餌食となるのは、わたくしの愛しい子供たちかもしれない。そんなの、このわたくしが許しません!」


「……」


「あのバケモノは、この美しい世界にいてはならないのです! たとえ地獄に堕ちようとも、あのバケモノどもを殺す手段を得なければならない! どんな手段を使ってでも!」


 そう叫んだルザミーネに、ゲーチスは暗い笑みを浮かべた。すると、テーブルの上に置いてあった黒いファイルケースから、書類の入った封筒を取り出して、ルザミーネへと差し出す。


「我がプラズマ団の開発部門に在籍する、ザオボーという研究員です。アナタからお預かりした、ビーストキラーの開発計画書を見せたところ、随分と興味を示していましてね」


「まぁ…!」


「彼は、古代ポケモンの化石から再現した、ゲノセクトというポケモンの開発に関わった男。きっとアナタのお役に立つことでしょう」


 ルザミーネは封筒を受け取ると、同封されていたザオボーの顔写真を手に取り、「この眼鏡のセンスはイマイチですわね」と笑った。満足げな表情のルザミーネに、ゲーチスは低い声で囁く。


「ただし、ひとつだけご忠告を」


「?」


「その男は些か、出世欲が強すぎましてね…。お恥ずかしながら、このワタクシも手を噛まれたことがあります。扱いには呉々もご注意なさい、寝首を掻かれたくなければ」


「ふふ、わたくしこう見えて、もう3年もエーテル財団の代表を務めておりますの。人を扱う術は心得ておりますわ」


「これは失敬、余計なお世話でしたか。…ところで、ルザミーネ代表。代わりにと言っては何ですが、以前お話しした件については…」


「ええ、わかっておりますわ。イッシュ地方にエーテル財団の支部局を設立する計画については、代表たるわたくしの権限で白紙に戻しておきます。あなたがたプラズマ団のお邪魔は致しませんわ、ゲーチスさん」


「それはそれは、何よりで。御心遣い、感謝いたしますよ、ルザミーネ代表…」


 ルザミーネが頷くと、ゲーチスは満足そうに笑って、片手で器用にテーブルの上のワインボトルを開け、ルザミーネのグラスへと注いだ。まるで血のように赤いワインが、透明なグラスの中で揺れている。ゲーチスは自身のグラスにも同様にワインを注ぐと、仄暗い笑みを浮かべるルザミーネと共に、乾杯を交わした。


「…ふぅ! 話がひと段落して安心したら、何だかお腹が空いてしまいましたわ」


「ふははっ、相も変わらず、アナタは少女のような人だ。再会を祝して、ワタクシがご馳走しましょう」


「まあ、素敵なお話。ですけれど、この一杯を頂いたらお暇しますわ。此処に来るまでの間、少し良くないことがあったので、今夜は子供たちのそばにいてあげたいのです」


「良くないこと?」


「ええ、腹立たしい話ですけれど」


 グラスを傾けながら、ルザミーネは昼の出来事を、簡潔に話した。徐々に低くなるルザミーネの声を聞きながら、ゲーチスはルザミーネの怒りに同調する。


「それは災難でしたね」


「ええ、それはもう、はらわたが煮えくり返る気持ちです。けれどここだけの話、あの男が最大級の罰を受けれるよう、既に手配済みですの」


「フフフ、アナタは本当にお美しくなられた。亡きお父君も、さぞやお喜びでしょう」


「まあ、相変わらず人を褒めるのがお上手ね、ゲーチスさん。けれど、本当に子供たちに怪我がなくてよかった。あのジグザグマがいなかったら、リーリエは今頃どうなっていたか…」


「…ジグザグマ?」


 途端に、ゲーチスの声色が変わった。ルザミーネはそのことには気づかず、グラスに残ったワインを一息で飲み干す。


「ええ、珍しいジグザグマでしたわ。『しんそく』を覚えているジグザグマなんて、わたくしでもお目にかかったものはないもの」


「…それは確かに、珍しいジグザグマですね。ジグザグマは、アローラには生息していないでしょう。野生ではなく、人のポケモンだったのでしょうか?」


「ええ、エルさんという、とても可愛らしい女性のポケモンでした」


 ルザミーネがそう言うと、ゲーチスはゆっくりとグラスを置き、そして天井へと目を向ける。すると一瞬、ギシ、と軋む音が、天井裏から聞こえてきた。その音を聞いたゲーチスはルザミーネに向き直ると、いっそ怖くなるほどに、穏やかに笑った。


「それは、何よりで」



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