ちょっとまじめな白鳥沢 | ナノ
 みにくいアヒルの子は空を飛ぶ夢を見るか7


「いいか、巴。白鳥沢に入るんならその間、俺はお前のじいちゃんじゃなくなる」
「うん」
「特別扱いはしないし、バレーにも口出ししない。もしこの先バレーをしていく上で壁にぶち当たるようなことがあっても、自分とチームメイトとでその壁を乗り越えなきゃならねえぞ。その覚悟はできてるか?」
「当たり前! だってあたしは鷲匠の名に相応しいエースになるんだから!」


 そう言ったのは俺の方だってのに、何度我慢できずに口を出しそうになったことか。それでもあいつは、普通の女子選手なら耐えられないような困難の中にあっても、決して根を上げなかった。


 その年のインターハイ、白鳥沢女子は準決勝敗退に終わった。1セット目を25-23で失い、セッターを鴨井から空知に変えて挑んだ2セット目はデュースの末に28-26で勝ち取ったが、3セット目からはチームを一新したが故の連携の甘さが仇となって25-21で敗れることとなった。
 だが身内の贔屓目抜きに見ても試合内容は悪くなかったし、浮き彫りになった課題も練習試合を重ねて場数を踏めば自ずとクリアできるだろう。烏養から教えを受けただけあって、眞白はアナリストとしてだけでなく監督としても優秀だ。


「鍛治君〜。どうだった、女子の試合?」


 やたらと馴れ馴れしい声が背後から聞こえてきて、俺は内心溜息を吐きたくなった。準決勝を終えてクールダウンをしていたはずの覚が、目敏くも俺を見つけやがったのだ。馴れ馴れしいのはこいつの生来の性格だからああだこうだ言うつもりは無えが、俺としては見られたくないところを見られてしまった。


「…準決勝敗退だ。内容自体は悪くなかったがな」
「へぇ〜、鍛治君がそんなこと言うなんて珍しい! 俺らはストレート勝ちしても『あそこのプレーは何だ!』ってめちゃくちゃ怒鳴られるのに」
「お前らがせっかくの勝ち試合でもポカばっかりやらかすのが悪い。クールダウンが終わったんならさっさと帰りの準備をしろ、戻ったらミーティングとレシーブ練だぞ」
「ウゲッ!? 明日決勝なんだから身体休めようよー!」


 甘っちょろいことを抜かす覚のことは放っておいて眼下のコートをちらりと一瞥すると、次の試合のチームと入れ替わりに白鳥沢が体育館を出て行くところだった。
 9番の背番号をつけた空知の背中が震えていて、その背中を10番の背番号をつけた巴が摩っている。今日の試合は空知の試合経験の少なさが顕著に現れた局面が多かっただけに、あの子にとっては特に悔しい結果だっただろう。だがきっとその悔しさは空知を更に強くする。


「…空知ちゃんが試合に出たってことは、鴨井チャンが外されたってワケね」


 …本当に目敏い奴だ。空知の様子を見てあの子が試合に出たことと、鴨井が途中交代を命じられたことを悟ったのだろう。そして何故、鴨井ではなく空知が試合に出ることとなったか、覚のことだからそれすらもお見通しのはずだ。
 鴨井はトス技術だけなら間違いなく全国でもトップクラスだ。それどころか、俺がこの40年のうちに見てきた女子選手の中でも5本の指に入る。だが鴨井にとって不幸だったのは、その優れた才能がこの白鳥沢という環境と壊滅的に相性が悪かったことだろう。中等部の監督や眞白の前の監督を悪く言う訳じゃないが、あの子の致命的な欠点を指摘してくれる指導者にも恵まれなかった。


「…この白鳥沢じゃ、点を稼げる強いヤツが全て。だから俺みたいな、ゲスブロックしかやりたくないってブロッカーも受け入れられる」
「……」
「どんなに美しいトスを上げられたところで、トスだけじゃ点には繋がらない。真に点を稼げないのは役立たずのエースなんかじゃなく、セッターの方だ。鴨井チャンはそのことにもっと早く気付くべきだったよネ」


 覚の言うところは尤もで、鴨井はセッターというポジションでありながらあまりにも我が強すぎた。スパイカーがいてこそのセッターであるということに気付かないまま、ここまで来てしまった。
 どんなに才能が飛び抜けたセッターであっても、殆どの奴は高校に上がる前にそのことを思い知るものだが、鴨井はその機会をとことん逃し続けた。そうなるに至ったのは鴨井自身の性格や育った環境も一因だろうが、俺が思うに"あいつ"が鴨井のエースであったことも原因のひとつだったと思う。


(もしも巴が、鴨井の無茶なトスを受け入れるようなことをせず、拒んでみせたなら…。そうしていたなら、少しは違っていたかもしれねえがな…)


 巴は我が孫ながら、呆れ返るほどに素直なやつだ。鴨井の無茶なトスも、セッターとして難のある性格も、自分自身への過酷すぎる仕打ちも、ただ鴨井が誰よりもバレーが上手いからというその一点のみで、何もかも手放しで受け入れてしまった。自分の力を100%出しきれないトスなど、本来であれば拒むべきだったんだ。それこそ上がったトスを無視してでも。
 だが結果として巴の決して何も拒まない素直さは、鴨井の支配的なセットアップを助長させてしまった。だからといって巴が悪い訳ではないし、俺が話に聞く限りでも鴨井がしてきたことは到底許されることではない。どこかで挫折を味わわなければ鴨井の為にもならないし、眞白が途中交代を命じたことは鴨井の今後を考えれば良い判断だったと思う。もしも鴨井がこの先もバレーを続ける気でいるなら、だが。


「それにしても鍛治君はよく耐えたよネ。唯一の孫娘が鴨井チャンの独裁政権下で迫害されてても、一回も口出さなかったんでしょ?」
「…白鳥沢にいる以上は、たとえ孫だろうが他の生徒と同じ扱いをするし、バレーにも口を出さない。あいつが入学する前にそう決めたからな」
「でも鍛治君はさ、実のところ巴のことが可愛くて仕方ないでしょ。あんな酷い目に遭わされてる巴のこと、見てらんなかったんじゃない?」


 覚の全てを見透かすような大きな眼が、俺の胸の内を覗いてくる。その鋭い洞察力を発揮するのは試合の時だけにしておいてほしいものだと思うが、こいつのことだから言っても無駄だろう。
 巴のことが可愛くて仕方がないだと? 当たり前だ、たったひとりの孫娘が可愛くないじじいがどこにいる。あいつの手のひらが紅葉みたいにちいさかった頃から、それこそ目に入れても痛くないほどにずっと可愛がってきたんだ。


 いったい誰に似たのか、とにかく頑固で強がりな子供だった。子供は泣くものだっていうのに、人に泣き顔を見られることを3歳やそこらの頃から何よりも嫌がっていた。母親に怒られたりして泣きべそをかくと、あいつはすぐさま庭に飛んでいって、飼っている土佐犬のヨシツネの犬小屋の中に籠城するのがお決まりだった。


「巴、もう誰も怒ってないからいい加減に出てこい。ヨシツネがうちの中に入れねえだろう?」
「やだ!!」
「いつまでもこんなところで泣いてると風邪引いちまう。じいちゃんが一緒にお母ちゃんに謝ってやるから、な?」
「ないてない!!」
「…駄目だなこりゃ。照乃、任せた」
「はいはい、任せてちょうだいな。巴ちゃん、出ておいで? おばあちゃんと一緒におやつでも食べましょうか」
「…ばあちゃん…う゛ぅ〜〜〜っ……」


 泣きながら犬小屋に籠りだす巴を宥めるのは、いつだって女房の照乃の仕事だった。俺や娘夫婦の前では絶対に泣こうとしない巴が、照乃の前でだけはわんわんと泣く。祖父としては複雑な心境だったが、逆に言えば巴は照乃以外の前では強がりたかったんだろう。幼いながらに大した根性の持ち主だと思った。
 あいつの背が伸びて犬小屋の中に籠ることが到底できなくなっても、泣き顔を絶対に見せたがらない頑固な性格は変わらず、今度は犬の散歩中に家の外でこっそり泣くようになった。おまけに泣き止むまで絶対に帰ってこないから、あいつが長いこと散歩に行ってる時は何か泣きたいことがあった時なんだなというのが鷲匠家の共通認識だった。巴が生まれて初めて出たバレーの試合で相手のマッチポイントにサーブをミスって負けた時なんざ、夜中まで帰ってこなくて警察沙汰になったぐらいだ。

 そもそも巴にもバレーをさせるつもりなんて、俺には毛頭なかった。スパイカーだった父親に似たのか力が強くてタッパもあって、類稀なバレーの才能を秘めていることは間違いなかったが、例え才能があろうとなかろうと自分が好きなことを存分にやればいいと思っていた。バレー以外のスポーツでも、音楽や絵を描くことでも、それこそ何でも。
 だが照乃に連れられて俺のチームの試合を見にきたその日から、あいつはバレーの虜になった。幼稚園や小学校がない日は練習に行く俺にくっついて来たがって、可愛い孫の望みを無下にすることもできずに何度も白鳥沢へ連れていった。俺が育てた男子選手のプレーを見て育ったからか、女子選手のセオリーからはだいぶ離れたタイプの選手に育ったが、俺は密かにそのことが誇らしかった。


「じーちゃん、あたしは絶対に白鳥沢のエースになる! 鷲匠の名前に負けない、じーちゃんが自慢できるような孫になるから見ててな!」


 孫にそんなことを言われて嬉しくないじじいがいるんなら会ってみたいもんだ。その言葉通り、あいつは小学校で所属した強豪のジュニアクラブで結果を出して、鳴り物入りで白鳥沢へ進学した。そこで交わした約束が、生徒となる以上孫としては扱わないこと、それからバレーに対して口は出さないことの2つだった。
 巴が自分のチームで本来の力を発揮しきれていない実情も、鴨井とのプレースタイルの相性の悪さも、あの中等部の監督の元じゃそこから脱却できないであろうことも、全部わかっていた。あまりにも巴の為にはならない環境の悪さに、何度余計な口を挟みそうになったことかわからない。何なら一度どうしても見ていられなくなって、それとなく「バレーの調子はどうだ」と聞いてみたこともあった。だが巴は俺の心配を余計なお世話だと跳ね除けた。


「うちのチームのことに口出ししてくんな、ジジイ! あたしが白鳥沢に入るんならって、そういう約束だったろ!」


 巴も年頃だからそういう口の利き方が増えてくるかもしれないとはわかっていたが、今まで『じーじ』だの『じーちゃん』だのと呼んでくれていた可愛い孫娘から『ジジイ』と呼ばれるのは流石に堪えた。だが俺との約束を一途に守っているのは巴の方で、あいつは一度も俺にバレーの話をすることはなかった。
 そしてあいつが中学3年生になった4月のことだ。俺はその時、自分のチームを連れて東京の大学のもとへ遠征に行っていて、4〜5日ほど宮城から離れていた。そんな折、意外な人物から俺宛に電話が掛かってきたと学校から連絡があって、俺は早速そいつに電話を折り返した。


『はいもしもし、烏養です…』
「白鳥沢の鷲匠だ」
『! ああ、鷲匠先生! ご無沙汰です、この度は突然連絡してすみません』


 俺に連絡をよこしてきたのは、烏野高校の監督を長く勤めていた因縁の男、烏養だった。因縁といっても、チームの方針が真逆というだけでいがみ合っている訳ではないし、連絡を取ることだって全くない訳ではなかったが、数年前に体調を崩して現役を退いた烏養から連絡が来るとは思ってもみなかった。


「入院してると聞いていたがな。体調は大丈夫なのか」
『今年に入ってから少しずつ自宅療養に切り替えていってるところでして、今のところは何とかやっていけてます。先生のご活躍は病院の中でも耳にしていて、何くそ負けてられるかと思ってましたよ』
「また血圧が上がって医者からどやされるぞ。それにしてもお前の方から連絡をよこしてくるとはどういうことだ? 悪い虫の報せかと思ったぞ俺は」
『こちとら来年か再来年の復帰も視野に入れてるんですよ、くたばるにはまだまだ早いわ! …いえ、つい昨日のことなんですが、鷲匠先生のお耳に入れた方がいいかと思いまして』


 そう言うと奴は、妙に神妙な声色になった。それはバレーや指導についての話をする時には、逆にしないような声色だった。


『つい昨晩、巴ちゃんに偶然会ったんです』
「巴に?」
『リハビリついでに近所を散歩してましたら、でっかい土佐犬に女の子が襲われてるところに出くわして、慌てて助けに行ったらそれが巴ちゃんだったんですよ。まあ襲われてるってのはこっちの勘違いで、実際は飼い犬とじゃれてただけだって言うんでホッとしましたが』
「…そりゃ迷惑をかけたな」
『いえいえ。ただ…お住まいからは随分と距離が離れてる上に、見つけた時間帯が時間帯だったものでね。おまけにその…どうやら泣いていたみたいで、眼が真っ赤だったものですから』


 俺はその話を聞いた時、ついにこの時が来たかとそう思った。中学に上がってからは一度も無かった巴の悪癖が、中総体前のこの時期に再発したということは、自分のチームで耐え難い何かがあったのだろう。じじいの贔屓目抜きに見ても精神的に強い子ではあったが、それでもまだたった14歳の女の子なのだから、あの環境ではそれも当然だった。


『それとなく理由を聞いてはみたんですが、頑なに話してくれなくてですね。もう夜もかなり更けていたし、孫の繋心に送らせてそれきりなんですが…』
「…あいつのことだ、お前がこうやって俺に告げ口すると思ったんだろう。孫が世話になったな烏養、感謝する」
『とんでもない。巴ちゃんのことは鷲匠監督の袖を掴んで離さなかった頃から知っていますから、もう半分自分の孫みたいなものですよ。大きくなりましたね、本当に』


 まだ小さい巴を大会の会場に連れていった時に何度も会ったことがあるからか、烏養は巴のことを心配してくれているようだった。巴の正真正銘の祖父としては、半分自分の孫みたいなものという一言は気に食わなかったが、それでも奴の心遣いをありがたいと思う。
 烏養との電話が終わった後、俺はすぐに家に電話をかけて巴の様子を聞いた。だが俺の心配をよそに、電話に出た女房はやんわりとした声でこう言った。


『心配しなくても巴ちゃんは大丈夫よ、鍛治さん』


 照乃がそう言った時、俺はごく自然と安心することができた。
 巴はとにかく頑固で強がりで、自分の弱った姿を絶対に誰にも見せたがらなかったが、唯一照乃にだけは弱さを曝け出すことができた。その照乃が大丈夫というからには、あいつはきっと大丈夫なのだろう。


「…もしもあいつが泣きついてきたらすぐに言ってくれ。身内を甘やかすなんてことはしたくねえが、いざという時は打って出る」
『ふふふ…。でも本当に大丈夫よ、昨日帰ってきた時も巴ちゃんはサッパリした顔をしてたもの。あの子が可愛いのはわかるけど、そっと見守ってあげてちょうだいね』
「わかってるさ、俺の自慢の孫だからな」


 巴はいつだったか、俺が自慢できるような孫になると言った。それはきっとバレーボール選手として確かな実力と実績を身につけるという意味で言ったんだろうが、俺にとってはもう十分に自慢の孫だ。
 鷲匠鍛治の孫という重荷も、周囲の期待や敵意も、何もかもを一身に背負って少しも弱音を吐かずに堂々と立つ巴は、まさに白鳥沢というチームが掲げる"強者"そのものだ。とんだ孫馬鹿だと笑われるかもしれねえが、俺はそれこそあいつが白鳥沢に入る前からずっとそう思っていた。

 遠征から帰ってすぐ、中等部の監督から巴がイップスになったことを報告されても、俺は巴のバレーには口出しをしなかった。巴はイップスを克服する為に普段は読みもしない本を読み漁って、どこで調べたのかイップス治療を行なっているという専門のクリニックにまで話を聞きに行って、中等部男子のセッターである瀬見に練習に付き合ってもらいながら自力でイップスを克服した。
 プロのスポーツ選手ですら長年悩まされるような症状を独力で、それもたった1ヶ月で克服するなんてこと、本音を言えばよく頑張ったなと褒めてやりたい。だけど巴がそれを望んでないことはわかっていたから、俺は敢えて何も知らないフリをしてきた。

 巴が高等部に上がって、俺が指導しているすぐ隣のコートで練習するようになってからも、口を出さないという約束は徹底した。最初こそチームに居場所がないように見受けられた巴も、空知や戸鷹といった仲間ができ始めると毎日楽しそうにバレーをするようになっていって、内心ほっとした。本人にとっては試合に出れていないのだから悔しいことには変わりないだろうが。
 そんな折、監督復帰に向けて準備しているという烏養からまた電話がかかってきた。奴の教え子である眞白が白鳥沢に赴任することになったから、面倒を見てやってくれという電話だった。眞白がマネージャーをしていた頃の烏野はとにかく戦いづらくて仕方がなかっただけに、奴が大学でもバレー分析を続けていて全日本チームに参加するほどになったと聞いて驚いたものだ。


「お久しぶりです、鷲匠先生。烏野にいた頃、白鳥沢には本当に苦しめられましたけど、こうしてご一緒にお仕事ができるだなんて光栄ですわ」
「苦しめられたのはこっちも同じだ、お前のいた頃の烏野はそりゃもうねちっこい戦い方をするもんで頭にきてたぞ」


 見てくれは高校の頃から少しも変わっていなかったが、眞白は当時よりも更に見る眼を養っていて、女子バレー部の副顧問になってすぐに白鳥沢女子のチームの問題点を見抜いた。さっそく攻撃陣を改善するよう前の監督に進言したが、奴は奴で赴任したての眞白からの提言を簡単に受け入れられなかったのか、意見を強く対立させた。


「私は何も今の戦い方を否定しているのではありません。ただ現状、鴨井さんの独善的とも言えるセットアップと、今いるスパイカーとの相性の悪さは火を見るよりも明らかです」
「俺も鴨井も今の攻撃パターンがすぐに上手くいくとは思ってない! 俺たちは長期的に考えて今のスタイルを採用して、それに備えてスパイカーを育成している!」
「その為にスパイカーの本来の持ち味や素質を殺すことが、まさか本気で正しいと思っていらっしゃるのですか? たとえどんなに優れたセッターを擁していようと、攻撃の軸はスパイカーであるべきではなくて?」


 俺としては眞白の意見に賛成だが、如何せんあいつの伝え方にも少々問題があった。俺は眞白がそういう奴だと知っているから気にしないが、常にニコニコ笑って淡々と正論だけを言うもんだから、受け取りようによっちゃ嫌味と思われても仕方ない。事実、女バレの監督にはそう受け取られちまって、奴は益々今のプレースタイルに意固地になっちまった。眞白も社会人1年目だから多少の衝突は仕方ないとはいえ、人と密に接する仕事をする以上はこういうところも学んでいく必要がある。
 だが運命というやつは数奇なものだ。前監督が腰の病気を患ったことを機に、1年間の休職に入ることになった。そこで副顧問である眞白が代理として監督に就任することになったが、奴はこの1年を前監督のピンチヒッターとして終えるつもりなど毛頭もないようだった。


「私は鷲匠さんにこのチームのエースになってもらおうと考えています」


 眞白が正式に監督となることが決定する直前、あいつは教官室にやってくるなり俺にそう言った。高校の頃から試合で勝とうが負けようがニコニコと笑っていやがる不思議な奴ではあったが、その笑顔がこちらに向けられる日が来るとは到底思っていなかった。ましてや俺の孫が、この眞白にエースとして指名される日が来るなどとは。


「彼女は牛島くんにも劣らない素晴らしいエースとなれる可能性を秘めた選手です。オープンでしか本領を発揮できないという短所こそあれど、あのパワーと高さはそれを補って余りあるほどの長所です」
「…そうか」
「男子選手並みのスタミナもさることながら、レシーブのスキルも目を見張るものがあります。特に強打レシーブに関しては本職のリベロを凌ぐ勢いです。今までベンチ外に甘んじていたのが不思議でなりません」
「それはわかったが、何故それを俺に言う? 俺は自分の孫がいる以上、女子には口は出さねえぞ」
「うふふ、そんなこと仰らないでくださいな。鷲匠先生にもっと口を出してもらおうと思って、こうして私の方針をお話ししてるんですから」


 笑いながら何てことを言いやがるんだこいつは、と率直に思った。これからてめえが監督をやるっていう時に、敢えて他の人間に口を出させようとするなんざ、正気か? だが眞白は相も変わらぬ満面の笑みを携えたままこう続けた。


「よくよく考えてみれば、せっかくすぐ隣のコートに白鳥沢を何度となく全国へ導いた名将がいるのに、その教えを受けられないだなんて勿体ないじゃありませんか。勿論メインの指導は私が行いますが、鷲匠先生の目に留まったことは私にも共有して頂いて、なんなら先生ご本人が指導にあたってもいいですし」
「…眞白、お前なぁ…」


 …流石は烏養の愛弟子というか、眞白の奴は大した大物だ。俺が巴可愛さのあまり、約束を無視してでもあいつの指導に乗り出すことを期待して、煽ってやがる。
 そりゃあ巴のプレーに対して口を挟みたいことは幾らでもある。スパイクジャンプの踏み込みはまだ甘いし、相手ブロックとの駆け引きはペーペーもいいところだし、サーブにはムラがありすぎるし、強打レシーブはできても無回転のレシーブはてんでダメだ。あいつはやりようによってはもっと強くなれる選手だと、誰よりも俺が一番よくわかってる。


「私が烏野にいた頃、烏養先生はご自身の孫である烏養くんに一番厳しかったんですよ。ですから鷲匠先生も、鷲匠さんにうんと厳しくしてあげてくださいな。きっと鷲匠さんも、その方が嬉しいでしょうし」
「…このカラス女め」
「あら、光栄ですわ。使えるものはなんでも使い、喰らえるものはなんでも喰らう。それが私が烏養先生から教わった、カラスの戦い方ですもの」


 これだから烏野の連中は好かねえ。バレーのプレースタイルもそうだが、目的を果たす為には手段を選ばねえんだ、こいつらは。
 この絵本の挿絵の天使みたいな笑顔の裏にある真っ黒な打算に心底呆れながらも、俺は眞白の頼みを拒むことはできなかった。何故なら俺は、歌の歌詞にもあるようなとんだ孫馬鹿のくそじじいで、巴のことが可愛くて可愛くて仕方がないからな。



* * *



 約17年の人生の中で、今この瞬間が一番悔しい。準決勝に負けたのは間違いなく私のせいだ。
 雪乃と交代して、白鳥沢に入学して生まれて初めて出た試合は、今までと何もかもが違った。緊張で手は震え、視界は狭まり、頭は回らない。中学の頃とは比べ物にならないほど高度なレベルで展開する試合についていくだけで精一杯で、練習で培ってきた実力を発揮することなんてとてもできなかった。
 結果、みんなのおかげで何とか2セット目を返すことができたけど、3セット目を落として白鳥沢は敗退。自分の無力さが悔しくて堪らず、みっともなくも涙した私を、チームメイトたちは励ましてくれた。けれどその優しさが今の私には辛くて、みんなには悪いけど適当な理由をつけてその場を離れた。


「残念だったな」


 今一番会いたくなかった人とばったり会ってしまった不運に、私は神様を心底恨んだ。
 今この瞬間だけは、絶対に牛島くんに会いたくなかったのに。
 情けない泣き顔なんか見られたくなかったのに。私は慌てて涙を拭って何とか自然に振る舞おうとしたけど、私の意思なんてお構いなしに勝手に涙が溢れ出てきてしまう。


「…すまん、涙を拭えるものの一つでも差し出すべきなんだろうが、渡せるものを何も持ち合わせていない」
「そ、そんなこと気にしなくていいよ! 私の方こそみっともないところを見せちゃってごめんなさい…」


 牛島くんが申し訳なさそうにする必要なんてどこにもないのに、私のことを気遣ってくれる優しさに益々好きになってしまいそうだった。むしろ私の実力が及ばないせいで変に気を使わせてしまったことが申し訳なさすぎる。


「試合の終盤を見ていた。無論、課題はあるが、決して悪くない試合内容だったと思う。練習を積んで連携を強化すれば、春高では挽回できるはずだ」
「…春高ではそうかもしれない。でも…」
「?」
「私は今の試合で勝つべきだった…! 雪乃から正セッターの座を確実に奪う為には…!」


 雪乃は巴を信頼することができず、今まで積み上げてきたものを捨てることができず、オープントスを上げるようにという桃ちゃんの指示を無視して交代を命じられた。
 どんなに努力したところで私1人では雪乃には絶対に敵わないけれど、"私と他の5人"の方が"雪乃と他の5人"より強ければ、私にも正セッターになるチャンスは巡ってくるはず。そしてそれを証明するには、この試合は絶好のチャンスだったはずなんだ。そう悔悟する私に、牛島くんはどこか嬉しそうな様子でこう言った。


「…空知は入学した当初に比べて、随分と白鳥沢の選手らしくなったな」
「え?」


 それはどういうことだろうか。私なんてまだまだ技術的には未熟もいいところだし、さっきの試合では散々たる有様だったのに。けれど牛島くんはその言葉の真意を話してくれなかった。


「今後、空知は体幹を鍛えるといい。試合終盤になると疲労からかトス姿勢が不安定だった」
「! う、うん!」
「お前たちは今よりもっと強くなれるはずだ。春高では楽しみにしている」


 牛島くんの嘘偽りのない真心のこもった言葉が、私の鼓膜にいつまでも響き渡る。その途端に、勝手に溢れてきて止まらなかった涙が、ぴたりと止んだ。


「…ありがとう、牛島くん。春高では必ず!」


 終わった試合を悔やんでも仕方がない。このリベンジはいつか必ず果たしてみせる。みんなの強さを証明する為、そして他ならない私の強さを証明する為、必ず。





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