ちょっとまじめな白鳥沢 | ナノ
 みにくいアヒルの子は空を飛ぶ夢を見るか6


 バレーの練習が好きだ。練習してる間は、家に帰らなくて済むから。バレーをしてる間だけは、自分が世界で一番強いと思えるから。


「お帰り、雪乃」


 練習を終えて家に帰ると、リビングにいるはずのない奴がいた。見たくもない顔と対面するハメになって、私は思わず舌打ちしてしまう。


「なんで家にいるの」
「雪乃! お姉ちゃんに向かってそんな口の利き方はないでしょう」
「いいよ、お母さん。言っても聞かないんだから、この子は」


 その良い大人ぶった態度が余計に私を苛立たせることに気付かないのだろうか、こいつは。はたまた確信犯なのか。どちらにせよ鼻につくことには変わりない。
 こいつは7つ離れた私の姉。雪が降った日に生まれたから雪乃と名付けられた私に対して、雨の降った日に生まれたから雨音と名付けられた。私が高校に上がると同時に家を出て、今は県外の大学に通っているが、今日帰ってくるなんて話は聞いていなかった。


「部活はどう? 全国大会には行けたの?」
「……」
「答えないってことは負けたんだ? だから言ったじゃない、雪乃程度じゃ牛島くんみたいにはいかないんだから部活なんてやったって無駄だって。来年は受験生なんだからちゃんと勉強しなさいよ」
「…ああ、そうだね。あんたみたいに受験に失敗したからって3年も引きこもるハメになったら困るもんね」


 私がそう言った直後、急に私の方に花瓶が飛んできた。私のすぐ脇を通った花瓶は床に叩きつけられ、甲高い音を立てて粉々に砕け散る。花瓶の中に水は入ってなかったけど、飾られていた造花の白薔薇が一面に散乱した。
 私はほとほと呆れ返ってしまって、花瓶を投げた張本人の姉を見下す。姉は鬼みたいな形相で私を睨んでたけど、私はちっとも怖くなかった。


「何それ、みっともない。言い返されたからって暴力に訴えるなんて、大学で普段何を学んでるワケ?」
「や…やめなさい、雪乃!」
「うるさいっ!! 黙れ黙れ黙れっ!!」
「まあ仕方ないか、国立に行けなかったから"仕方なく入った"程度の私大だし。あんたの主張が正しければ、国立を出てない人間なんて全員ゴミだもんね」
「うわあああああああああっ!! うるさいうるさいうるさい、うるさいーーーーっ!!」
「雪乃!! 自分の部屋に行っていなさい!!」


 言われなくてもこんなところに長居するつもりはない。私は馬鹿みたいに泣き喚いてる姉と、その姉を必死で宥めている母を置いて、2階の自分の部屋へ向かった。
 私の家は代々医者をしてる家系で、父親も母親も医療従事者だった。そんな家だからか姉も自然と医者になることを目指してて、親も子供に自分の後を追ってほしがってるように思えた。そんな家族の中でひとりだけ、医者になるだなんて夢も持たずろくに勉強もせず、ひたすらにバレーにのめり込んでいる私は、完全に異端だった。そんな私に姉はよくこう言っていた。


「仕方ないよ、雪乃は鴨井家の"できない子"だもん」


 歳の離れた姉は成績でしか物を見れないような視野の狭い女だった。事実あいつは学校のテストでは毎回満点だったし、白鳥沢の特進クラスに進学してそこでトップの成績を収めていた。それに対して私は、別に成績が特別悪い訳でもないけれど姉に比べれば平凡なもので、そんな私を両親も姉も"できない子"だと馬鹿にしていた。


「気にしないでいいよ、雪乃? できない子ほど可愛いっていうんだからさ、あんたの成績が最悪でもみんな見限ったりしないよ」
「……」


 いっそさっさと見限れと、ずっと思っていた。父親も母親も姉も大嫌いだった。こんな連中みたいになるんなら勉強なんて出来なくていいと、物心ついた頃には既にそう思っていた。
 バレーを始めたのも、家にいる時間を少しでも減らす為だった。私の通っていた小学校は場所が白鳥沢に近いこともあってか、なかなか環境の良いバレーボールクラブがあって、そこで私は頭角を現して"天才"の称号を恣にした。私が巴と初めて会ったのも、この頃だった。


「あんた、めちゃくちゃトス上手いな!」


 ジュニア大会の会場で、試合を終えたばかりの私に駆け寄ってきた巴は、開口一番にそんなことを言ってきた。巴が着ていたユニフォームは近隣では強豪と名高いジュニアクラブのもので、そんなチームの選手から手放しの賞賛を受けたという事実は私に自信を与えた。本心では「ありがとう」とお礼を言いたかったけれど照れ臭さの方が勝って、私はわざとスカした態度をとった。


「別にたいしたことない。練習してればこれぐらいできて当然」
「たいしたことなくないよ、さっきの試合の19点目のトスとか凄かったじゃん! あんな乱れたレシーブから遠く離れたレフトまでトス持ってけるなんて、中学生でも難しいと思うよ!」


 巴はこの頃からいっそ馬鹿馬鹿しいほど素直だった。これから試合で対戦するかもしれない相手をわざわざ褒めに来るなんて、私だったら考えられない。ただ褒められて悪い気はしなかったから、私は上機嫌になってそのまましばらく巴と話してた。


「雪乃は中学、どこ行くの? あたしは絶対に白鳥沢!」
「…たぶんわたしも白鳥沢になるんじゃない? うちの姉も白鳥沢だったし、親もそこに行ってほしいみたいだし」
「じゃあ一緒のチームになれるじゃん! うわーっ、あのトス打てるの楽しみ!」


 大人から天才だなんだと褒められることはあっても、同学年の子からここまで褒められたことは一度もなかった。私がチームの誰よりもバレーが上手いから、みんな私の才能を妬んでいたのだ。下手くそどもの僻みなんて醜いものに構ってる暇なんかないから別に気にしないけど。
 でも巴はあの連中とは違って、私のトスを打ちたいと言ってくれた。本当は姉が進学した白鳥沢に行くのは凄く嫌だったんだけど、巴がいるのなら行ってみてもいいかなと、そう思った。

 そして私が巴と出会ってからしばらく経ったある日に、私の人生が一変した。練習を終えて家に帰ると、リビングで姉がわんわんとみっともなく泣いていた。今年で白鳥沢高等部を卒業する姉だったが、なんでも第一志望の国立大の試験に落ちたらしい。うちの両親は国立以外への進学は認めないと前々から言っていて、姉も受かる気満々で挑んだだけに落ちたのがよほどショックだったみたいだ。
 あれほど自分は優秀だと威張っておきながら受験に失敗して挙句の果てにガキみたいに泣き喚く姉と、姉の扱いに困り果ててる両親を見た時、私はちゃんちゃらおかしくてたまらなかった。対する私はその年に市内の大会で優勝して、白鳥沢中等部へスポーツ特待生として進学することがほぼほぼ確実。この時この家で一番強いのは、今までずっと"できない子"だと嗤われてきた私だった。


「だっさ、あれだけ大口叩いてたのに。あんたが今まで勉強に費やしてた時間、これで全部パァだね」
「!!」
「雪乃、余計なこと言うんじゃない! 自分の部屋に行きなさい!」
「私が部屋でトス練してたら、ボールの音がうるさくて気が散るだの何だの言ってやめさせてたくせに。どうせ落ちるんなら練習し続ければよかった。あの時間返してくれない?」
「うっ…うわああああああああああん!!」
「雪乃!!」


 姉は滑り止めに受けていた私大に進学したが、入学してから半年も経たないうちに大学に行かなくなり、やがて自室に引きこもるようになった。姉の引きこもり生活は約3年間も続き、その間に私は白鳥沢の普通科へ進学した。両親は私に特進クラスに入って欲しかったみたいだけど、姉で失敗したからか私の進路についてはめったに口を出さなかった。


「あっ、雪乃! 久しぶり、あたしのこと覚えてる?」
「そんなに忘れっぽくないよ、私。巴でしょ、ちゃんと覚えてる」
「えへへ、よかったー! あのあと雪乃んとこの学校、市内大会で優勝してたよな! やっぱりあんた、すごいセッターなんだな!」


 再会した巴はあの時より更に身長が伸びていて、けれど小さな子供みたいな素直な性格はちっとも変わっていなかった。私はバレー部に入部してすぐに正セッターとしてスタメン入りし、巴もスタメン入りこそしてなかったけど期待の新人スパイカーとしてベンチ入りを果たした。強豪のジュニアクラブ出身で男子並みのパワーを持つスパイカーともなればそれも納得だろうけど、それにしたって監督は特別巴に期待をかけてるように見えたので私は内心不思議だった。そのことに対して、巴は複雑そうな様子で理由を教えてくれた。


「…あたしのじーちゃん、高等部の男バレの監督なんだよ。だから監督はあたしに期待してるんだろうけど…」
「巴のおじいちゃんが? …すごいじゃん、白鳥沢がバレーの強豪になったの、殆ど今の監督のおかげって言われてるんでしょ?」
「そうなんだよ! すげー人なんだ、あたしのじーちゃん! …でもあたしは選手としてまだまだだし、もっとめちゃくちゃに怒ってほしいんだよ。あたしは今よりもっと強くなって、鷲匠の名に恥じない選手になりたいんだ」


 巴はあの通り馬鹿だけど、バレーボールと祖父の鷲匠監督に対して、誰よりも真摯で真面目だった。確かに巴のスパイクはパワーはあったけど、力任せなだけでコントロールできていなかったし、それ以外のプレーだってイマイチなのは否めない。自分の実力が見合ってないにも関わらずのしかかってくる周囲の期待と鷲匠の名を、巴は馬鹿正直に全て受け止めていた。
 私は密かに、そんな巴が羨ましかった。だって私は、鴨井の名なんて今すぐに捨ててしまいたいぐらいなのに。こんなにも真っ直ぐに自分の祖父への尊敬の念を口にできるほど家族に恵まれた巴が羨ましくて、少しだけ妬ましかった。


「…じゃあ私が、巴を鷲匠の名に相応しいスパイカーにしてあげるよ」
「えっ!? ほんと!?」
「うん。私のトス通りに打てば、絶対に試合で勝てるから。そのかわりトスを見逃したり、打つのを諦めたりしたら、絶対に許さないけど」
「当たり前! セッターが上げてくれたトスを打たないスパイカーなんていないって!」


 巴はそう言うけど、私は知っている。スパイカーなんて生き物は無条件で自分にトスが上がってくるって盲信してる、傲慢な生き物だって。その象徴のような存在が、1年生で白鳥沢男子のエースになった同級生の牛島だった。
 牛島はまさに"エース"になるためだけに生まれてきたというのが相応しい奴だった。入学したての時点で身長は170cmを超えていたし、パワーもスタミナも中学レベルを優に超えていて、そんな牛島についたあだ名は"怪童"だった。牛島がエースになってすぐの中総体で白鳥沢男子は全国大会に行き、女子は県予選の準々決勝で敗退した。そのことを知った姉は、やたらと嬉しそうな様子で部屋から出てきて、私を嘲笑った。


「白鳥沢の男子バレー部、全国大会に進んだんだってねぇ。エースの牛島くんだっけ? 怪童なんて呼ばれてるなんて凄いねぇ。カッコいいねぇ」
「……」
「同じ1年生レギュラーなのに、雪乃とは大違いじゃん。仕方ないよね、牛島くんは天才だけど雪乃はそうじゃないんだもの。部活なんて続けたところで無駄だろうから、さっさと辞めて勉強したら?」


 私はこの時、本気でこいつを殺してやろうかと思った。バレーのことなんて少しも興味ないくせに、試合を見たわけでもないくせに、私の努力も才能も何も知らないくせに!
 第一、試合で負けたのは私のせいじゃない。相手ブロックに執拗にマークされて何回もシャットアウトされたからって、勝手に心折れて勝つことを諦めた3年生の腑抜けたエースのせいだ。やっぱりオープン勝負なんて時代遅れの戦法、牛島みたいな規格外のスパイカーがいなきゃ成り立たない。こんな戦い方を続けてたところで全国では絶対に通用しない。
 だから私はこのチームを変えようと思った。このチームそのものが変わらない限り、絶対に全国大会には進めない。全国大会まで進んで牛島たち男子よりも良い成績さえ取れれば、このバレーについて何も知らない最低最悪のクズも黙らざるを得ないだろう。そうすれば誰も私を馬鹿にしたりなんかしないし、こいつは私の足元にも及ばないゴミ同然の人間だと証明できる。
 3年生が引退した後、私はさっそくチームの攻撃面の改革に乗り出した。速攻や時間差、バックアタックも駆使した華やかなコンビネーション攻撃。パワーよりもスピードを優先し、多種多様な攻撃パターンで相手のブロックを翻弄し、守備を機能させない戦法。けれど監督をはじめ、殆どの連中は私の提案に難色を示した。


「雪乃の言うことは間違ってないが、中学バレーにおいて大切なのは基礎の土台をしっかりと作ることだ。こういった戦い方は高校からでも…」
「それは基礎もろくにできない下手くそにレベルを合わせろってことですか?」
「おい、そんな言い方はよせ! このチームの主力の殆どがお前の先輩だろう!」
「先輩だろうが何だろうが、私より下手なことには変わりありませんから。文句があるならもっと練習して、基礎の土台とやらを積み上げてから言ってほしいです」


 図星をつかれたことがよほど悔しかったのか、2年の連中は次第に私のことを無視するようになった。監督の前では良い先輩を気取っていたけど、選手だけの場になると途端に無反応になって、私のトスに対して「ナイストス」の一言もない。
 普通の子だったら傷付くんだろうけど、こんなこと姉に何度もされてきたことだから私はちっとも傷付かなかった。だけどある日、鈍感すぎて私が無視されてることにも最初は全然気付かなかった巴が、流石におかしいと気付いたのか2年の主将に食ってかかった。


「なんで雪乃のトスに何も言わないんですか!? 今のめっちゃ良いトスだったじゃないですか!」
「えっ…いや巴、これはほら、その…」
「確かに雪乃は言い方がキツかったり、態度がデカかったりしますけど! 白鳥沢で一番上手いセッターなことには間違いないんだから、怒るところはビシッと怒って、良いプレーには良いって言ってあげてくださいよ!」
「でも…いくら上手いからってあんな態度…ねぇ…?」
「だからって無視なんかしていいワケがねえべや!! うちのじーちゃんがよく言ってたぞ、『強い奴が一番スゴいんだ』って!! ウチで一番強いのは絶対に雪乃なんだから、それはちゃんと認めてやれや!!」


 巴がそう言ってくれた時、私はなるべく平気なフリをしたけれど、真夜中に自分の部屋で誰にもバレないようこっそり泣いた。あんな風に私の味方をしてくれた人、今までひとりもいなかった。家族はみんな私を馬鹿にしたし、小中の同級生だって私を嫌ってる子の方が多かった。私を天才だと褒め称えた大人たちも、いざ私の性格を知るなりそれ以上称賛の言葉を口にしなくなった。
 でも、巴なら…。巴ならきっと、私を否定したり、馬鹿にしたり、拒んだりしない。どんなトスを上げても、きっと諦めずにスパイクを打ってくれる。だって巴は私のことを強いと認めてくれてるんだから。だからきっと大丈夫…。

 それから私は巴に対しても遠慮しなくなっていった。邪魔な上級生が引退して私たちの代になり巴がエースとなったら、スパイクで点を稼げなければ役立たずだと罵って、まるで牛島みたいにオープントスを要求してきたら鷲匠監督の名前を使ってでも諦めさせた。最初は巴も私にああだこうだと注文をつけてきたので、仕方ないから徹底的に自尊心を傷つけて私に口答えしないように仕向けた。そうすればきっと、私の頭の中にある完璧な攻撃が完成する。私に必要なのは私の理想を体現できる夢のようなスパイカーだった。
 けれどそうすればそうするほど、巴はどんどん調子を落としていって全く役に立たなくなった。レシーブは最初の頃より随分とマシになったし、私のトス通りにスパイクすることはするけど、点を稼げなければエースとなった意味がない。私は次第に巴のことを邪魔に思うようになって、もっと酷い言葉を使ってあの子を徹底的に追い詰めた。

 そして私たちが3年生になった春の日、巴はイップスになった。私はその時、ああようやく邪魔なスパイカーを追い出せると酷く安心した。控えの厚子は私の言うことをちゃんと聞くし、身長も巴より高くて将来有望だった。何よりあの子はよっぽど私に気に入られたいのか、よく気を利かせてあれこれと動いてくれる。巴よりよっぽど御しやすい良い子だった。
 なのに巴はたった1ヶ月で戻ってきた。なんでも瀬見がずっと巴のスパイク練習に付き合っていたと聞いて、私は内心「余計なことをしないでよ」と酷く憤慨した。巴なんて一生イップスでもよかったのに。おまけにあの子は復帰したその日にこんなことを言ってきたから、苛立ちも一入だった。


「雪乃、あたしには高いトスちょうだい! 今までみたいな速くて低いトスじゃなくて!」
「…は?」
「あたしにオープンを上げてくれたら、絶対にスパイクを決めてみせる! だってあたしは白鳥沢のエースなんだから!」


 この期に及んで何を、そんなトス上げるはずがない。オープンなんてたとえ県予選では通用しても、全国では3枚ブロックの餌食になるだけだ。牛島だってブロックに徹底的にマークされるせいで思うようにスパイクを決めきれず、今の今まで全国制覇には至ってないのに。ちょっと私に追い詰められたぐらいでイップスになるようなヤツ、どうせ1年の頃に中総体で負けた時の自称エースみたいに、途中で心折れるに決まってる。
 けれど監督は巴をエースに戻した。あいつが尊敬する鷲匠監督に"お孫さんの面倒はちゃんと見ましたよ"とアピールしたいだけの人選に付き合わされて本当に迷惑だったけど、思ってたよりも厚子が試合では使い物にならなかったので渋々巴を受け入れた。けれど何を考えてるんだか、巴は以前にも増して自分をエースだと言って憚らないようになったので、そんなことしたくなかったけど他のチームメイトも巻き込んで巴を孤立させた。あの子は本当に馬鹿で単純だから、こうでもしないと自分が間違ってるって気付かないだろうから。

 そして迎えた最後の中総体、白鳥沢は5年ぶりに決勝まで駒を進めた。あと一試合勝てば全国に行ける、私が間違っていなかったんだと証明できる。そうすれば急に反抗的になった巴も、私に怯えてるこはくたちチームメイトも、あの能無し監督も、私を馬鹿にする両親や姉も、誰も彼もがきっと私に平伏するだろう。
 私は今までのバレー人生の中で最高のプレーをした。なのに結局、巴がスパイクで点を稼げないせいで白鳥沢は敗退した。その時、私は人生で一番腹が立って、試合が終わるなり巴にこう言った。


「本当に役に立たないエースだよね、牛島とは大違い。どうせみっともない姿を晒して鷲匠監督の名前を汚すだけなんだから、ここでバレー辞めたら?」


 巴は私の言葉に対して「ごめん」としか言わなかった。何を言われたところで私の中には巴への怒りしかなかったし、絶対に許すつもりはなかった。あと少し、あと少しで全国に行けるはずだったのに。あいつを見返してやれるはずだったのに。
 でも結果は覆らない。中学で果たせなかった目標は高校で果たすしかない。私はその時点で白鳥沢高等部への進学ではなく、ここ数年インターハイと春高で全国進出している強豪、新山女子に入ろうと思ってた。私ほど優れたセッターなら新山女子でもすぐに正セッターになれるだろうし、新山女子には巴よりよっぽど優秀なスパイカーが集まっているはずだ。そんなことを考えながら大会会場のロビーを通りかかった時、私は信じられないものを見た。


「あなた、名前は?」


 いつまでもユニフォームから着替えようとせず立ち尽くしていた巴に、1人の女の人が話しかけていた。私は何となく2人に気付かれないように遠巻きにその様子を見ていたが、巴に話しかけている人が誰なのかを悟ると愕然とした。


(新山女子の、紅監督!?)


 巴に話しかけていたのは、紅実枝(クレナイ ミエ)監督。新山女子の監督を長く務め、新山女子を"女王"と称させるまでに鍛え上げたその手腕から、メディアでは"クイーンメーカー"なんてあだ名で呼ばれることもある圧倒的なカリスマとして有名な監督だ。そんな人がどうして巴なんかを相手にしているのか、理解できなかった。


「…鷲匠巴」
「鷲匠? そうか、あなたが鷲匠監督の…。ああごめんなさい、自己紹介がまだだったね。私は新山女子の監督をしている紅です」
「知ってます、新山女子の試合は何度も見てますから…」


 よほど私に図星を突かれて落ち込んでるのか、巴の声には全く覇気がなくて、今にも消え入りそうだった。その態度に私がイライラしてると、紅監督はそれ以上に私を苛立たせる一言を巴に告げた。


「単刀直入に言うね。鷲匠さん、新山女子に来ない?」
「!?」
「え…あたしが?」


 私も、巴本人も驚愕した。あの紅監督が、わざわざ声をかけてまで選手をスカウトするだなんて、とても信じられない。それも試合で全く役に立たなかった巴を。


「このまま白鳥沢高等部に進学しても、あなたはきっと幸せじゃないと思う。私のところに来れば、あなたに思う存分プレーさせてあげられる」
「……」


 紅監督の誘いに、巴は咄嗟に言葉を返せなかった。私は色々な感情が入り混じって心がぐちゃぐちゃになってしまって、巴に頷いてほしいのか、断ってほしいのか、それもわからなかった。まるで永遠にも思える長い沈黙の後、巴はふと顔を上げて、紅監督に向かって笑いかけた。


「ありがとうございます、あの紅監督に声をかけてもらったなんて光栄です」
「……」
「でも…ごめんなさい。あたしは新山女子には行けないです」


 巴はそう言うと、堂々と胸を張った。その光景に、つい目が眩みそうになる。


「白鳥沢のエースになることが、あたしの子供の頃からの夢ですから!」


 巴がそう答えた時、私は少しだけ嬉しかった。それが何故なのかは今でもよくわからない。私が進学を希望する新山女子に巴が来ないことに喜んだのか、それとも全く別の理由なのか。
 巴の返答に、紅監督は少しだけ残念そうな顔をして、羽織っていたジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。そこから1枚の名刺を取り出し、巴に差し出す。


「気が変わったらここに連絡して。新山女子はいつでもあなたを歓迎します」
「ありがとうございます! でも多分連絡しないです!」
「ふふ…そう言われると、ますますあなたという選手が欲しくなっちゃうな。けれどこれだけは言わせてね、他ならないあなたのために」
「?」


 紅監督の意味深な言葉に、巴が首を傾げる。そのあと続けられた言葉に、私は再び心がぐちゃぐちゃになった。


「あのセッターの子が白鳥沢にそのまま上がるかどうかは知らないけれど、彼女と同じチームでバレーをする以上、相当な茨の道になることは覚悟した方がいい。彼女とあなたは壊滅的に相性が悪いし、それに彼女はあなたというスパイカーを殺しかねない」


 思わず耳を疑った。私が、巴というスパイカーを、殺すだって?
 何を馬鹿な、実情はその逆だ。私というセッターが、巴に殺されてるんだ。あの紅監督ともあろう人がそのことに気付けないなんて。私は腹が立つあまり、巴と別れて体育館を出て行った紅監督を追いかけた。


「紅監督!」
「…あなたは白鳥沢の」
「どういう意味ですか、さっきの。私が巴を殺しかねないって…」
「…あなたほど優れたテクニックを持つ選手ならわかるはずです。何故、鷲匠さんが100%の力でスパイクを打つことができないのか」
「まさか紅監督まで、巴に高いトスをあげるべきだと言うんですか!? いつまで経っても私のトスに対応できない巴が悪いんであって、私は悪くない! 私のトスは完璧なんだから、スパイカーがそれに合わせるべきです!」
「身の程を知りなさい。あなたのそれは単なる傲慢です」


 さっき巴に向けていた眼とは真逆の厳しい眼で、紅監督は私をしっかりと見据える。普段ならその眼に怯えすくんでいたかもしれないけれど、この時の私は紅監督への反感と苛立ちの方が勝って、真正面から睨み返した。
 絶対に許さない。紅監督も、巴も、こはくや厚子も、私の家族も。もう誰にも私を馬鹿にさせない。絶対に私だけの力で全国大会まで行って、あいつら全員を見下してやる。最後に嗤うのは私だ!


「この白鳥沢で一番強いのは私です! ならその私に周りが合わせるのは当然じゃないですか!」
「……」
「あなたには心底失望しました。高校は新山女子に行こうと思ってましたけど、やっぱり白鳥沢に留まります。私の方が正しいんだと、全国大会で証明してやる!」


 私は新山女子への進学を捨て、白鳥沢にそのまま残ることにした。後になって私が新山女子の推薦を断ったと噂になってることを知った時は驚いた。なんでも私と紅監督が話してるところを見た厚子が、私が紅監督に声をかけられてると勘違いして言いふらしたらしい。でも実際に声をかけられていたのは私ではなく巴だと知られるのは癪だから、噂の訂正はしなかった。
 高等部の監督は高身長主義で有名だったから、高等部に上がれば少しは攻撃陣がマシになるかと思ったけど、結局背が高いだけの木偶の棒ばかりでロクなスパイカーがいなかった。それどころか空知や戸鷹みたいな私に歯向かう奴が現れて、今までずっと私の言いなりだったこはくが掌を返し始めて、せっかく孤立するように仕向けた巴の味方がどんどん増えていった。
 だから監督や上級生を言いくるめて私の言うことを聞く連中だけでチームの編成を組み直したのに、インハイでも春高でも全国に行くどころか決勝まで上がれず、2年に上がるとトドメとばかりに監督が休職ときたものだ。おまけに代わりに監督になった眞白桃華は、あの巴をエースに指名しただけでなく、私の控えに空知を選んだ。誰も私に逆らわなかった中、ただ1人私の言うことを聞かずに巴の味方をしたあの下手くそを!


「―――雪乃さん!」


 リベロの泉澄の掛け声が聞こえてきて、私はそこでハッとした。ああ、そうだ。こんなことを考えてる暇なんかないんだった。だってここはインターハイの県予選会場で、今は試合の真っ最中だったんだ。
 相手高は県予選決勝常連の強豪校で、この試合に勝てば白鳥沢は決勝に行ける。今は1セット目で、相手校が2点差でマッチポイントに差し掛かってる。絶対にこの一点を失ってはならなかった。


「…巴!」


 私は前衛の巴にトスを上げた。不本意だけど、監督の眞白桃華に指示された通りのオープントス。巴は眼を輝かせながら助走に入り、まるで本物の鳥のように高く高く飛んだ。


 ズガァンッ!!!!!!


 巴のスパイクは相手の3枚ブロックを文字通りぶち壊した。派手に吹っ飛んでいったボールが2階席まで飛んでいくのを見つめながら、私はいつぞやに姉から言われた言葉を思い出していた。


"だから言ったじゃない、無駄だって。"


 違う! 私のこの7年は無駄なんかじゃない! 私は"できない子"なんかじゃない!
 今は巴のスパイクでブロックを吹き飛ばせていても、セット数が重なって疲労が溜まってきたら!? あと一点稼げればデュースまで持っていけるこの局面で、巴のスパイクが昔みたいにシャットアウトされたら!?
 そう考えてしまったらもう無理だった。監督の指示なんて知ったことか。私は私の思うバレーをする。スパイカーは私のトス通りに打てさえすればいいんだ、それ以上もそれ以下もない! だって私はこの白鳥沢で一番強いんだから! このチームの頂点に君臨する、誇り高い孤高の白鷲なんだから!
 次の局面で、ウチの3年生ミドルのサーブをレシーブした相手が、鋭い速攻スパイクを打ってきた。けれどそれを前衛の戸鷹が触って、後衛の美羽が滑り込みながらレシーブして、乱れたけれどもトスを上げられるだけの高さは確保できた。私は迷わずに、レフトの巴に向かってあの時のようなトスを上げた。


「!」


 サードテンポの助走に備えていた巴は、慌てて助走を止めてボールに手を伸ばした。けれどボールは巴の腕をすり抜けて、そのままコート外に落ちた。審判の長い笛の音が響き、白鳥沢がセットを落としたことを告げる。その音で正気に帰った私は、頭の中が真っ白になった。


「鴨井さん」


 眞白桃華がベンチから私を呼ぶ。私は振り向けなかった。いつもヘラヘラと笑っている眞白桃華がどんな顔をしているのか、確かめるのが怖かった。眞白桃華は心底がっかりしたようなそんな声色で、死刑宣告にも等しい言葉を告げてきた。


「次のセットは空知さんと代わりなさい。スパイカーを信頼できないセッターを試合に出すことはできません」


 その言葉を聞いた時、私はとても立っていられなくなって、その場に膝をついた。10歳からバレーボールを始めてから今日までの7年で、生まれて初めて交代を命じられた瞬間だった。





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