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HQ夢主が記憶喪失になった話



目が覚めた時、真っ先に目に入ったのは見知らぬ天井と、それから知らない男の仏頂面だった。


「凛々、俺がわかるか」


「……えっと、どなた様でしょう……?」


私がそう答えると、私を凛々と呼んだその人は僅かに眉を寄せて、その仏頂面を歪めた。














私の名前は小谷凛々で、整体院を営む整体師の父と、元スポーツ選手の母の間に一人娘として生まれた。烏野高校という学校に通っており、部活はバレーボール部に所属している。私自身は小学3年生の頃からバレーを続けており、それはそれはバレーのことが好きでたまらない。
以上が、私の幼馴染だというこの仏頂面の男から聞かされた、『私』という人物の情報だ。


「…えっと、つまり私は、記憶喪失ってこと?」


「そうらしいな」


あまりにもアッサリと、男が頷いた。私は自分のことながら、「はぁ、そうなんだぁ…」と他人事のようなことを呟いてしまった。
男曰く、私はロードワークの最中、足を滑らせて転んでしまい、その際に強く頭を打って気を失ったそうだ。倒れてる私を見つけた通行人が救急車を呼んでくれて、今いる病院へと運ばれたものの、先ほど目を覚ますまで丸一日も眠り続けていたそうだ。


「本当に何も覚えていないのか」


「うーん…。なんか、頭にもやがかかってるみたいで…なんにも…」


「…そうか。医者を呼んでくる。それから、お前の両親にも知らせなければ」


そう言って男は立ち上がり、病室から出ていこうと私に背を向けた。その大きく、高いところにある背中を見て、何故か酷く胸が締め付けられるような感覚がした。私は思わず男を引き留めようとして、制服らしいブレザーの裾を掴んだ。


「あの…!」


「?」


「ごめんなさい…。あなたの名前、思い出せないの。あなたの名前、なんていうの?」


私の言葉に、男は少しだけ眉を寄せ、そして目を伏せた。それまで見せていた仏頂面とほとんど変わらない、だけど微かに悲しそうな表情に、きっとこの人は『小谷凛々』がとても大事だったのだろうと胸が痛くなる。だけど、男がそんな表情を見せたのは一瞬だけで、すぐに元の仏頂面へと戻った。


「牛島若利だ」


その名前に、不思議と聞き覚えがあるような、そんな気がした。
















「ほんっっっっとに、あんたって子は馬鹿ね!」


牛島若利と名乗った男が病室から出て、しばらくしてからやってきた私の母親らしい女性は、私を見るなり半笑いでそう言った。丸一日眠り続けていた娘に対する言葉にしては随分酷いのではないか、自分に投げかけられた言葉だというのに他人事のようにそう思った。


「だから言ったじゃないの、雨上がりにロードワーク行くのはやめときなさいって! 全く、母娘揃って同じ過ちを繰り返すなんて…」


「へ? 母娘揃って…?」


「前にも話したでしょ、私が学生の頃にもあんたと同じ真似を…って、そういえば記憶がすっぽ抜けてるんだっけね。まあ、お医者さんの話だと一時的なものだろうってことだから、今はなんにも気にせずに大人しくしてなさいな」


先ほどまで男が座っていた丸椅子に腰かけながら、私の母らしき人は布団越しに私の太もものあたりをポンと叩いた。そうえいばあの男はいつ戻るのだろうかと、私は彼女越しに開きっぱなしの病室の扉を見やる。扉の向こうには白っぽい廊下と、慌ただしく行きかう看護師たちが見えた。


「なあに、どうしたの? お父さんだったらもうすぐ来るわよ?」


「えっ…あ、いや、さっきの人、牛島さんは?」


「『ウシジマサン』ですってぇ? ぷぷっ、いっつも『若ちゃん』って呼んでたじゃないの! 記憶喪失になったぐらいでそんな他人行儀な!」


「わ、わかちゃん…?」


あの厳めしい容貌とはほとんど結びつかない可愛らしい愛称に、思わず笑みがこぼれる。『小谷凛々』はそんな呼び方であの男を呼んでいたのか、そしてその呼び方をあの男も許容していたというのか。自分が記憶を失うまでの2人の関係は、余程親密だったのだろうと、それだけは今の私にも理解できた。


「若利くんなら、もう帰ったわよ。明日は早朝から練習試合だって言ってたのに、こんな時間まであんたの傍にいてくれたんだから、感謝しなさいよね」


「練習試合? ってことは、あの人もバレーボールをやってるの?」


「そうよ。あんたなんか、若利くんの大ファンだったんだから。 …若利くんがバレーしてるとこ見せたら、あんたの記憶も戻るかしら?」


「凛々っ! 大丈夫かい!?」


そこへいきなり、痩せた中年男性が凄まじい勢いで病室の中へと駆け込んできた。どうやらその人が、私の父親のようだった。私の父親らしい人は、ぜーぜーと息を切らせながら壁伝いに私のもとまでやってきて、私の顔を見ると途端にその場に倒れ込んでしまった。


「え、えぇっ!? あ、あの、大丈夫ですか!?」


「よ…よかった…もう起きないんじゃないかと…」


「ちょっと、あなた! 顔色真っ青よ、ここまで走ってきたの!?」


「だ…だいじょうぶ…だいじょ…」


「あーもう、娘を案じるあまり娘より重体になってどうするの! あなた虚弱体質なんだから!」


「え、ええっと、な、ナースコールした方がいいですよね!? っていうかしますね!」


私よりよほど重体そうに見える父(?)の姿に、私は慌てて枕元のナースコールを押した。
















私が目を覚ましてから3日後、一通りの精密検査を終えた私は、それまで入院していた病院から退院して、私の家だと言う一軒家へと連れてこられた。ごく普通の住宅街の中に建っているそこには、『小谷整体院』という黄緑色の看板が立てられている。その看板の色に、見覚えがあるような気がした。


「凛々−っ!! 大丈夫かーっ!?」


家の中に入ってみると、黒いジャージを着た何人かの少年がいた。彼らは私を見ると一目散に駆け寄ってきて、心配そうな表情でこちらを見つめてくる。その反応を見る限り、彼らは私の友人のようだった。


「記憶が無えって本当か!? バレーは!? できんのか!?」


「凛々、俺のこと忘れちゃったのか!? みんなのことは!?」


「スパイクは打てんのか!? レシーブは!? それからサーブも、前みたいに二種打てるんだろうな!?」


「君らうるさいからちょっと黙ってて、そんなんじゃ戻る記憶も戻らないでしょ」


「…え、えぇっと…ごめんなさい、あなたたちは…?」


私がそう言うと、彼らは揃って悲しそうな表情を見せた。しかし、その中でひと際背の低い少年はすぐに明るい笑顔を私に向けて、握手を求めるように右手を差し出してきた。


「俺、日向翔陽! 凛々は翔陽、って呼んでたんだぜ!」


「しょうよう…翔陽。ごめんね、覚えてなくて…」


「ううん、仕方ないじゃん! それに、『はじめまして』が2回もできるなんて、逆にレアだって!」


「ほんと君って、いつもウザいくらいポジティブ思考だよね」


「一言多いぞ月島ァー!」


「ま、このチビの言うことも一理あるか。そういう訳だから『はじめまして』。僕は月島、こっちの目つきの悪いのは王様」


「誰が王様だ! 影山だ!」


「俺は山口忠。でもほんと、凛々が元気になってくれてよかった。谷地さんなんてここ数日、ずっと心配そうにしてたからね…」


「部活でボールに空気詰めてる最中、君が心配でうわの空で、ボールを3個も破裂させたぐらいだからね」


(そ、それは私のせいなのか…?)


私は翔陽と握手をしながら、彼らと彼らの周りが愉快な人物なのだということだけは深く理解した。そして彼らにとって『小谷凛々』という人物が、紛れもなく仲間として受け入れられていることを感じ、何だか嬉しくなってくる。


「「「「凛々−−−ッ!!!」」」」


「うわっ!?」


そこへ、背後から急に数人に抱き付かれ、私は驚いてそのまま翔陽を巻き込んで倒れ込んでしまう。驚いて振り返ると、翔陽らと同じ黒いジャージを身に纏った4人の少女が、全員が全員泣きながら私に抱き付いていた。


「生きててよかったーっ!! 凛々がいなくなったらウチはおしまいだもんーっ!!」


「ただでさえ6人しかいないのに、あんたがいなくなって5人になったら…! ああもうっ、とにかく無事で何より!」


「うわあああん、凛々−っ!!」


「あ…あの…くるし…」


「先輩がた、凛々と下敷きになってる日向くんが死にかけてるんで、とりま落ち着いてください」


そこへ助け舟を出してくれたのは、一際背の高い少女だった。彼女のその眠たそうな目に、何か引っかかるようなものを感じる。私の上から先輩らしい人たちがどき、私と翔陽が起き上がると、山口と名乗ったそばかす顔の少年が目の前の5人の少女たちの説明をしてくれた。


「凛々、あの人たちは烏野の女子バレー部の5人。みんな凛々の仲間だよ」


「仲間?」


「そうだよ!! 私たちがここにいるのはみんな凛々のおかげなんだから!!」


「結、あたしが言うのもなんだが泣きすぎ。ひとまず鼻かめや」


「望もね。ほら、ハンカチ」


「うっ、うぅっ、ありがとう凛子…ぐずっ…」


「…ま、そういう訳だから、困ったことがあれば言いなよ。主に私以外に」


「コラ翠! またそういう冷たいこと言…」


その時、私の口から勝手に言葉が紡がれ出た。自分の発言に驚いていると、私以外のみんなが私以上に驚いて、私を見つめてくる。


「凛々、記憶が!?」


「え、いや、なんかいま勝手に…みどりって誰?」


「翠ってのは私。なんだ、記憶ないない詐欺かと思ったのに、本当に無いのか」


私が無意識的に口にした翠というのは、この眠たそうな目をした背の高い少女のようだった。翠は残念そうに肩をすくめるも、すぐにけだるそうな顔で私の肩をポンと叩く。


「まあ、急がば回れってことで、ゆっくり思い出せばいいんじゃないの」


「…うん。私、ちゃんと思い出したい。頑張るね、翠」


「さいですか」


そのどうでもよさそうな言葉とは裏腹に柔らかな瞳が、まるで思い出せない記憶をくすぐるように、私の脳裏に刻み込まれた。














それから私は自分の記憶を取り戻そうと、様々なことを試した。私が愛してやまなかったというバレーの映像を見たり、実際に自分でもプレーしたり、普段練習を行っている烏野高校の体育館に行ったり。自分とは小さい頃からの付き合いだというコーチや、烏野の男子バレー部の他の選手たちとも会って言葉を交わした。だが、決定的なことは何も思い出せない。思い出すのは、日々の小さなやり取りばかりだ。


「あーもうっ、モヤモヤするーっ!」


「無理をすることはないと、医者にも言われたんだろう」


「それはそうだけど、でもみんなに悪いし…」


どこか他人の部屋のような気がする私の自室で、私は『牛島若利』と向かい合って、何とか自分の記憶を取り戻そうとしていた。彼は私が目覚めてからは毎晩、私のところに「記憶は戻ったか」と尋ねにやって来る。私が首を振ると、彼は「そうか」とだけ言って、『小谷凛々』がどういった人物であったかを語ってくれた。と言っても、そのほとんどがプレーヤーとしての『小谷凛々』の話であったが。


「どうしてもあなたのいう『私』が、私だったって気がしないんだよなぁ…。この間、実際にバレーをやってみたけど、顔面でボールを受け止めちゃったし…」


「記憶が戻れば、以前のようにプレーできるだろう」


「でも、もし私があなたの言うような凄いプレーヤーだったら、きっとボールに反応して身体が勝手に動いたりするんじゃないのかなぁ?」


「俺は記憶喪失になったことがないから、そうなった場合どういうプレーをするかは知らんが、お前が類稀なプレーヤーであることは間違いない」


真っ直ぐな眼でこちらを見てそう断言する彼に、私は実感が持てないながらも照れてしまう。もし、私が彼の言うような高い技術を持つプレーヤーなのだとしたら、やはり今すぐにでも記憶を取り戻さなければ、そう強く思う。彼の評価にそぐわない自分というのは、何となく嫌な気がするのだ。


「記憶喪失になってからもうすぐ一週間…。一刻も早く思い出さないと…!」


「……もし、の話だが」


私が決意を抱いていると、彼はぽつりとそう呟いた。凡そ彼らしくない声色に、私は思わず目を丸くして驚く。彼は相変わらずの真っ直ぐな眼で、私の眼を見つめてきた。


「もし忘れたいことがあるのだとしたら、それも致し方ない」


「え?」


「お前が記憶を失ったのが、もしも忘れたい記憶があるからだとしたら…。無理に思い出そうとする必要はないと、そういうことだ」


まるで、私には忘れたい記憶があるのだと、そう言うかのようだった。実のところ、その可能性を考えなかったわけではない。思い出したい記憶もあれば、きっと忘れてしまいたいような辛い記憶もあるのかもしれないと、そう考えた夜もあった。もしそんな記憶があるのだとしたら、それを思い出すのは、正直怖い。


「…でも、私は思い出したい。みんなのこと、それからあなたのこと」


「?」


「…『若ちゃん』って呼ぶの、今のままだとやっぱり照れくさいから…。私があなたのことをどんな風に思ってたのか、私にとってあなたがどんな人だったのか、ちゃんと思い出してからそう呼びたいな、なんて…」


そこまで言って照れくさくなった私は、口ごもりながら彼から視線を逸らした。全く覚えていない相手ながらも、この数日間の間に、彼が私のことを大切な存在だと思ってくれているのは、何となく理解できた。今の私には実感が無くても、きっと『小谷凛々』も同じように、彼のことを思っていたはずなのだ。だから、早く思い出さなければ。彼のことを。


「……凛々」


すると、彼が不満そうに私の名前を呼び、目を逸らしたままの私の顔を両手で掴んで、無理やり目を合わせてきた。驚いた私が目を見開くと、その目をじっと見つめてくる。私はその手から逃れようと抵抗を示してみたものの、がっちりと顔を掴まれてしまっては逃れられるはずもなかった。


「あ、あ、あの…!?」


「……」


彼は何も言わない、ただ見つめてくるだけだ。私は彼の真意が伺えず、変な汗が額から伝うのを感じた。それ以前に、やけに距離が近いような気がするのは、気のせいか。


(ま、まさか『私』と『この人』って、そういう関係だったの…!?)


そう考えてしまうと、彼に掴まれた顔が一気に熱くなった。きっと真っ赤な顔をしているのだろう、そしてそれが彼にも丸見えなのだろう。私はそれ以上、彼の目を見ることができなくなって、ぎゅっと目を瞑った。





ぐにっ





「…い、いったぁーーーい!!」


痛い痛い痛い!!! ほっぺ、ほっぺつねられてる!!! それもとんでもない力で!!! ほっぺ取れる!!!


「痛い痛い、放してーっ!!」


「言いたいことがあるならはっきりと言え、それと目を逸らすな」


「わかったから放して、若ちゃん力加減知らないから痛いんだってばーっ!!」


そこでようやく手を放してもらえて、私は涙目で若ちゃんを睨んだ。だが、若ちゃんはビックリしたような目で私を見ていた。若ちゃんにしては珍しい表情に、私の怒りも思わず削がれてしまう。


「わ、若ちゃん? どうしたの、そんな顔して?」


「…凛々、記憶が戻ったのか」


「記憶? ……あっ、ほんとだ!! 全部思い出した!!」


そこで思い出した、そういえば私、記憶喪失だった。けれど、若ちゃんに頬をつねられた拍子に、全部思い出した。


「って、よくよく考えてみてよ!? 若ちゃんにほっぺつねられて全部思い出したってことは、頭打って記憶失くした時と同じくらいの衝撃だったってことだからね!?」


「?」


「『?』じゃないよ! そのうち本当にほっぺ取れたらどうすんのさ!」


「取れるわけがないだろう」


「取れないけど! もし取れたらって話! もーっ!」


相変わらずの若ちゃんに、記憶が戻ったばかりだっていうのに私は頭を抱えたくなってきた。…そう言えば、さっき何か考えてた気がしたんだけど、あまりにも痛すぎて忘れちゃった…。やっぱり若ちゃんのほっぺつねる衝撃、記憶喪失レベルってことじゃん…!


「あぁっ! それよりもバレー! かれこれ一週間もろくにできてない! 若ちゃん、ちょっと練習するから付き合って!」


「構わんが、もういいのか」


「いいの! 健康体なんだから! お母さーんっ、私のシューズって洗濯中だっけ!?」


我ながらバタバタと慌ただしく準備を始める私を、若ちゃんは呆れるような目で見ていた。その視線に「くそう…!」と思いつつも、でも何だかその視線が懐かしくて、ちょっと嬉しくなった。


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