凛々は困っていた。馴染みのないショップが並ぶ街の中、携帯電話の画面とにらめっこをしながら、非常に困っていた。
(ま、迷った…あれほど前準備してきたのに…)
これまで使っていたシューズがついに穴が開いて使えなくなってしまった為、凛々の行きつけのスポーツショップに買いに行こうとしたのだが、その店舗が移転になったことを両親から知らされた。そこで新店舗のある街へやってきたのだが、ただでさえ方向音痴なのに加え、同じような建物が並ぶ中で目当てのショップを見つけることができず、迷ってしまったのだ。先ほどからスポーツショップのホームページに乗っていた地図と周りの道を見比べ、ショップを捜してはいるものの、全くそこへ辿り着く気配がない。
「やっぱり若ちゃんと一緒に来ればよかった…」
凛々だけで辿り着けるはずがないと心配した父親が「若利くんと一緒に行ったら?」と提案してきたのを「大丈夫大丈夫!」と軽く流した自分を呪う。今日の練習は予備のシューズで行ったものの、いつものものと同じシューズでないと、何となく心地が悪い。明日も練習があるのだから、早くシューズを購入してしまいたいのだが、肝心のショップが見つからない。すり減っていく携帯電話の充電に焦りながら、凛々はまだ見ぬショップを目指してとにかく進み始めた。その時だった。
「ごめんごめん、待たせちゃって!」
「へ?」
後ろから急に肩を叩かれ、凛々が振り向いた。それと同時に顔面が硬直したのが自分でわかる。
振り向いた先には、整ったルックスに甘い笑顔を浮かべる、凛々にとってはトラウマ級の恐怖を感じさせる男、青葉城西高校の正セッター、及川徹がいた。及川はそんな凛々の様子など全く気にせず、無許可に肩をぐっと抱き寄せた。
「さ、行こっか凛々ちゃん」
「ひえっ!?」
「そういうワケだから、じゃあね〜」
そう言って及川は、及川の更に背後に立っていた女子高生の2人組に手を振る。「えぇーっ」と落胆する2人組を置いて、及川は半ば無理やり凛々を連れて歩き始めた。
「えっ、いやあのちょっと及川サン離してくださいませんか」
「ごめんね、ちょっとだけ一緒にいて! あの子ら、いくら先約がいるって言っても全然聞いてくれなくてさ〜」
「いや知りませんし私と先約なんてないですし近いですし私用事あるんで」
「なになに、どこ行くの?」
及川が凛々の手の中の携帯電話の画面を覗き見る。咄嗟に隠すも既に遅く、及川に凛々の目的地を知られてしまった。
「あぁ、あそこ! あの新しくできたトコね! 奇遇だね〜俺もあそこ行くとこだったんだよ」
「えっ」
「朝練の時にシューズの紐切れちゃってさ。岩ちゃんの持ってた予備の紐もらったんだけど元々の紐の色と違くて、いま左右で紐の色違うんだよ。マッキーは逆にオシャレじゃんみたいなこと言ってたけど、及川さんのセンス的にはちょっと無いわって感じなんだよね」
「いや知りませんし聞いてませんし、っていうか離してください近いです」
「いやぁ〜本当に悪いと思ってるんだけどさ、ちょっとこうしててくんない? あの子ら、多分まだ付いてきてると思うんだよね…」
及川の心底困っているかのような笑みに、何とか逃げようとしていた凛々の動きが止まる。後ろを振り返ると、確かに先ほどの女子高生2人組が数メートル離れた場所から付いてきていた。
「余計イヤです巻き込まれたくないです!」
「しーっ! お願い、後でお礼するから! あの子らちょっと及川さんファン拗らせ過ぎてて、さすがの及川さんもちょっとムリなの!」
「いやーっ! 助けて岩泉さーんっ!」
ここにいない岩泉に助けを求めつつ、凛々は目当てのスポーツショップへ無理やり連行された。
「うーん、せっかくだから元々の紐から一新しちゃおっかな。凛々ちゃん、こっちの色とこっちの色、どっちがいいと思う?」
「どっちでもよろしいんじゃないでしょうか」
「まあイケメンってどんな色でも似合っちゃうからね! せっかくだから青城カラーにしよっと」
やけに機嫌のいい及川に肩を抱かれたまま、凛々はスポーツショップでガタガタと震えていた。既に自分のシューズは買ったのでこのまま帰ってしまいたいのだが、「こっちの買い物にも付き合って」と及川に捕まったまま30分が過ぎようとしている。靴紐の買い物にどれだけ時間をかけるつもりだと食ってかかりたかったが、残念ながらその勇気は凛々にはなかった。
「…あちゃー、あの子らまだいるよ。ホントしつこいなぁ…」
「あの人たちに買い物付き合って貰えばよかったじゃないですか、及川さんのファンですし」
「いやね、俺もファンの女の子達はちゃんと大事にしたいよ? だけどさ、頼んでもいないのにマネージャー業してきたり、試合の度に相手校の選手に噛み付いて迷惑かけたり、挙げ句の果てに注意した岩ちゃんにまで逆ギレするような子は、ちょっとさすがにムリっていうか」
「それ、及川さんがきちんと怒らないからじゃないんですか…」
「俺だってちゃんと怒ったよ!? でも悲しいかな、怒ってもイケメンだからあんまり怖くないんだよね」
「私は死ぬほど怖いですけど…」
「もう凛々ちゃんったらホントにツンツンなんだから〜」
「い、岩泉さーん!」
更に密着してきた及川に叫びつつ、凛々は脳裏に救世主の顔を思い浮かべた。凛々の肩を抱いたまま会計を済ませた及川は、一瞬後ろを気にしてスポーツショップを出る。辺りは既に暗くなっていた。
「あらら、もうこんな時間か! じゃあ凛々ちゃん、お礼にゴハン奢ってあげるね」
「えっ、いやいやいや結構です私はここで失礼させてください」
「遠慮しないの! 何食べたい〜? 凛々ちゃんの好きなとこでいいよ〜」
「な、なんでそんな妙に優しいんですか、余計怖いですーっ!」
「本心から優しくしてるんだけどな〜」
何度目かのやり取りを繰り返して、凛々は及川に再度連行された。
「…凛々ちゃん、ホントにソレでいいの?」
「ふぁい、ふひへふはら!(はい、好きですから!)」
「いや、いいんだけどね。及川さんの財布に優しいし。でもさすがに牛丼一杯だと奢ってる気がしないっていうか…」
駅前の某牛丼チェーン店で、凛々と及川はカウンター席に並んで牛丼を食べていた。一杯300円弱の牛丼をかっ込む凛々に、及川は力ない笑いを漏らす。それまで蛇を目の前にして蛙のようにビクビク震えていた凛々だったが、好物を目の前に無邪気な笑顔を浮かべざるを得なかった。
「ホント、美味しそうにもの食べるよね。トビオを思い出すなぁ」
「むぐ、影山ですか?」
「そうそう。あいつもゴハン食べる時、子供みたいに目をキラキラさせて食べててさ。それが面白くて、岩ちゃんなんかことあるごとにお菓子あげてたからね」
「…及川さん、本当はちゃんと良い先輩なのに、なんで影山には意地悪な態度を取るんですか?」
「それはね、あいつがクソ可愛いから! 凛々ちゃんと一緒で意地悪したくなんの、あと天才ムカつくから」
「私に意地悪してるのは認めるんですね…」
おっと、とわざとらしく口を押さえる及川に、凛々は非難げな視線を向ける。
「だって凛々ちゃんも天才だから、俺的には意地悪したくもなんの」
「えっ?」
「ホント、凛々ちゃんが女の子で良かったよ。男だったら、トビオやウシワカちゃんみたいに、ブチのめす対象になってたから」
まるで捕食者のような瞳で凛々を見る及川に、同じ視線を向けられた数年前を思い出す。ゾクッと身震いする凛々を、及川は打って変わってどこかの芸能人のような整った笑顔で見つめた。
「それに凛々ちゃんは可愛いし、ホント女の子でよかった! ね、そろそろラインのアカウント教えてよ〜」
「ヤです!!!」
「えっ、そんなガン拒否されんの? さすがの及川さんも傷つくんですけど…」
今度は打って変わってガックリと項垂れる及川に、凛々はますます恐怖心を抱いてしまった。
「結構です!!」
「なんでそんな拒否られてんの!? もう遅いし危ないから家まで送るってだけじゃん!」
「及川さんに家を知られるのがイヤです!!」
「別に押しかけたりしないよ!? さすがに及川さんそこまでストーカー気質じゃないよ!?」
牛丼屋を後にし、駅のホームで電車を待っている中、主に凛々を家まで送るか送らないかという点で凛々と及川は押し問答を繰り広げていた。及川は純粋に親切心と、巻き込んでしまったことへの礼も兼ねて、凛々を送ろうとしてくれているのだが、凛々には及川を家まで来させてはいけない確固たる理由があった。
(今日、若ちゃん整体予約してるのに! 及川さんと鉢合わせたりしたら、絶対及川さんまた怖くなる!)
今日は父が営む整体院に、若利が訪れる予定なのだ。天才、主に若利を敵対視している及川にバッタリと対面させてしまったら、また凛々にとってトラウマとなっているあの恐ろしい貌を目の当たりにしてしまうことになる。普通にしていたら少し残念さがあるものの、気が遣える優しい男であるだけに、凛々は若利と及川の鉢合わせなど見るのは御免だった。
「いや、あのさ〜…。本当に悪いと思ってんだけど、あの子らまだ付いてきててさ」
「え、まだいるんですか!? 及川さんだけでなく及川さんファンも怖い…!」
「待って待って、あの子らは特殊! それに及川さんはもう怖くないよ! だからさ、1人になっちゃうと危ないかもしれないから。俺を安心させるためにも送らせて、お願い」
「…でも、それだったら及川さんの方が危なくないですか?」
そもそも、後ろから付いてきているあの2人の女子高生は及川のファンなのだから、凛々が無事に家まで辿り着いたところで、もともとの標的である及川に興味の対象が移るのではないだろうか。凛々の率直な疑問に、及川は胸を張って笑った。
「まぁ、及川さんほどのイケメンはこういう修羅場は慣れっこだからね! 凛々ちゃんが心配するようなことじゃないよ!」
「ご自分の行動を顧みたらどうですか」
「凛々ちゃん、たまに発言だけが頭良くなるよね」
「『顧みる』の意味を潔子さんに教わりましたから! …でも、そういうことなら大丈夫です。私、これでも不良撃退率は高いですし!」
「え、なにそれ逆にどうなの」
何故かステレオタイプの不良に対しては強いことを自慢する凛々に、及川は色々な意味で心配になった。そんなやり取りを繰り広げていると、やがてホームに電車がやってくる。停車した電車に乗り込もうとしたその瞬間、凛々と及川は思わぬ人物に出くわした。
「あれ、岩ちゃん?」
「岩泉さん!」
「及川? …と、凛々? なにやってんだ2人で」
及川の幼馴染にして凛々にとっては救世主にあたる人物、岩泉一が電車内の座席に座っていた。驚きつつも電車に乗り込み、岩泉の隣に及川が座り、凛々はその前に立つ。
「岩ちゃんこそ、普段電車とか乗らないじゃん! 何してたの?」
「和久谷に住んでる祖父ちゃんがぎっくり腰になっちまってよ、そのお見舞い。…それよりクソ川、また凛々に絡んでやがったのかコラ」
「やめてそんな眼で見ないで! 確かに今回はちょっと不本意に絡んじゃったけど!」
「は?」
「えーと、実はですね…」
凛々が岩泉に事の次第を簡単に説明する。すると、岩泉がはぁぁぁ、と大きく溜息を吐き、わざわざ立ち上がって凛々に頭を下げた。
「すまん、この馬鹿に付き合わせちまって」
「いや、岩泉さんが謝ることじゃないです! それに、本当のところを言うと、及川さんがいなかったら間違いなくショップまで辿り着けなかったんで…」
「なんだ、やっぱり及川さんと一緒でよかったじゃない!」
「殺すぞ」
「やめて! 率直な脅迫やめて!」
「まあ、そういうことなら俺が送る。クソ川はさっさと家帰ってクソして寝てろ」
「え! そんな、悪いですよ! 及川さんはともかく、岩泉さんにまで迷惑かけちゃ…!」
「気にすんな、このアホの尻拭いすんのが仕事みたいなもんだからな」
「さすが副主将!」
「調子乗んなクズ川」
「待って、クソはともかくとしてクズはさすがに傷つくから…」
ショックを受けてうなだれる及川を放っておいて、岩泉は凛々に席を譲って吊革に掴まる。相変わらず男前かつ救世主な岩泉に、凛々は思わず拝みたくなった。
「じゃあ、申し訳ないですけどお願いします…」
「え、なんで岩ちゃんにはそんな素直なの? 及川さんは全力で拒否られたのに」
「自分の行動を顧みろクズ」
「だから傷つくってば! あとそれさっきも聞いた気がする!」
「まあ、及川さんには来られたくない理由がありまして…」
「…あ、ウシワカの野郎が来てんのか?」
「は?」
急にワントーン声が低くなる及川に、凛々がビクッと肩を跳ねさせる。それを察した岩泉が及川の足を踏みつけた。
「いっだ!」
「いちいち反応してんじゃねえよ、ボゲ! だから凛々が気を使ったんだろうが!」
「うっ、そう言われると怒るに怒れない…」
「な、なんで怒られなきゃいけないんですか、お父さんの大事なお客さんなんですからぁ…!」
「ああああ、ごめんごめん泣かないで! ほらほら、及川さん怖くないよ!」
トラウマを刺激され、泣きそうになっている凛々に、及川が赤ん坊をあやすが如くおどけてみせる。岩泉は深く深く溜息を吐いた。
「ったく、中学生じゃねえんだからよ。むしろアレか、逆にウシワカが好きなのか、名前を聞いたら反応せざるを得ねえのか」
「ちょっと冗談でもやめてよそういうの! うわ、サブイボたってきた、ほら!」
「見せなくてもいいです! そもそも、なんでそんなに天才が嫌いなんですか? 及川さんだって凄いセッターなのに…」
「理由はたった1つ、ムカつくから! …ま、凛々ちゃんには俺の気持ちはわかんないかもね。でも俺は、凛々ちゃんの気持ちよくわかるよ」
「私の気持ち?」
「ウシワカちゃんにどうしても追いつきたくて、でも追いつけなくて、って気持ち。だからムキになっちゃって、どんどん周りが見えなくなっちゃって、って気持ち。ムカつくし及川さん的には黒歴史だけど、俺もそうだったから」
「…やっぱり及川さん怖いです…!」
「ほんと最低だなお前」
「なんで!? 今のはむしろ、似た者同士で仲が深まるとこじゃないの!?」
自分の底を見抜かれたような感覚に、凛々の全身がゾクッと震えた。そしてこれまで以上に、及川徹という男の底知れなさを知る。これまで以上の畏怖の念を覚える中、凛々は岩泉に足をぐりぐりと踏みにじられる及川を見つめた。
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