暗黙の了解、当然のことながら、椿と達海は普段はただの選手と監督として接している。
今日だって、クラブハウスの廊下ですれ違うときもお互いにただ一言交わしただけだった。
「お疲れ」
「……っす」
歩いているときも少し速い椿の足は、忙しいのか性格なのか、それとも多少達海を意識しているのか。
いつも通りの椿を微笑ましく思いながらすれ違った瞬間、達海は目を見開いた。
ふわりと香ったそれ。全然知らない香りは、誰かの残り香にしてはとてもハッキリと主張している。
「ちょ、ちょーっと待った椿」
「はい?」
「お前……香水つけてたっけ」
達海は訝しげに首を傾げる。一応疑問形ではあるけどわかっている、昨日までは間違いなく椿は香水なんて使っていなかった。なんとなく複雑な思いがぴょこりと達海の中で頭を出した。
椿はきっとそうと知らず自分の手首をくん、とかいで達海を見る。「あ、くさい……すか?」
そういうわけじゃないと首を振ると、椿は妙にさわやかなその香りに似合う、そんな笑顔を達海に向ける。
「よかった」
「よ……くない、よくないよ椿」
「え?」
こてんと首を傾げる椿。その丸い瞳に見つめられ、たつみはひらひらと手を振った。視線と一緒に、寄ってくる香りを避けるように。
「……あの、それお前にはまだ早いと思うんだけど」
絞りだすように呟いた言葉はそんなものだった。いまいちしまらない言葉に椿は何を思ったのかへらりと笑ってみせる。
「そうすか?」
「……うん」
小さな子供ならともかく、椿が香水をつけることは年齢的にも少しもおかしくない。そんなことは達海だってわかってはいる。
わかってはいるけれど、ついてはいけないのだ。こうして椿が急に大人っぽくなってしまうと、途端に達海は大人ぶれなくなってしまう。
少しずつ成長してくれないと。
「とにかく、困る」
うまく理由も説明できないまま達海は口を閉じた。不完全燃焼。これじゃあただの我が儘だと内心自分に舌打ちをすると、ふっと達海の耳に視線をやった椿が笑った。
「……でも、監督の今日つけてる香水と俺のこの香水、喧嘩しなくていい感じだと思ぶっ」
「ああもう、調子狂う」
乱暴に椿の口を塞ぐが、椿はまるでこたえた様子がない。それどころか少し嬉しそうにしている顔に達海の心がざわめく。
この、ざわりと揺れる感じは、残念ながら嫌ではない。
「達海さんの手、熱い。耳も」
達海の手を握った椿が、くすぐったい声で達海を呼ぶ。ぐっと近くなった距離に抵抗するように目をそらした。
「……次に名前で呼んだら怒るかんな」
掴まれた手を引き戻し、照れくささにがしがしと頭を掻く。それから達海は唸って自分の頬を擦った。
頬に触れた自分の手。そこからぱちん、と慣れない香りがはじける。
どうやら少し、くっついてきてしまったらしい。
「あーもうほらはやく行け、椿」
「っす。じゃあ、また」
強めに椿の背中を押すと、ぱたぱたとまた椿が歩き出す。
だから達海も監督として歩き出さなければならない。
でも、
「……くそ、落ち着かない」
ぱちん、ぱちん。
そこらじゅうから椿の香りがする気がして、なかなか胸のざわめきがおさまらない。
「ふ」
深呼吸をひとつして、なんとか監督の顔を取り戻す。
ぺたりと歩きだした達海の周りにはふわふわと、二人のものが混ざり合った照れ臭い香りが漂っていた。