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No.03


 名前はしばらく泣いて過ごした。そんな妹の側にはずっと兄がいて手を握っていた。

 名前と祖父母が出かけている時に、母は自分が作ったあんこう鍋に殺鼠剤を入れてそれを食べたことにより死んだ、と祖母は言った。おそらく自殺だろう、と祖父は言った。百之助はそのあんこう鍋はまだ口にしていなかったから無事だった、と祖父母は言った。

『…どうして…お母様……』
「……もうすぐジイちゃんたちが母上の葬式を執り行う。少しでも母上に対する愛情が残っていれば、父上はきっと葬式に来てくれる。母上は最後に愛した人に会えるだろう」

 名前は涙に濡れた瞳で兄を見上げた。百之助はこちらを見ておらず、まっすぐどこか一点を見つめていた。

 兄は一切泣いていなかった。

 母の葬式は身内のみの物だった。しかしそこに父が来ることはなかった。祖父母は連絡はしたと苦々しい顔で言っていたので、知っていてあえて来なかったのだろう。それを知った名前はまた泣いた。そんな父に腹が立ち、そんな父を愛して待ち続けた母にも腹が立ち、両親も兄も自分も哀れで仕方がなかった。










 それから数年、百之助は大日本帝国陸軍に属していた。名前は茨城を離れ、北海道のとある茶屋で住み込みで働いていた。ここは祖母の親戚がやっているお店で、名前にもよくしてくれた。

 母が亡くなってから、兄妹はより一層お互いを大切にした。射撃の才能があった兄は銃を使い鳥を撃ち、妹はその鳥を調理して兄達に振る舞った。冬になってもあんこう鍋が出ることは極端に減っていた。誰も何も言わなかったが、みんな母のことを思い出すから無意識に避けていたんだと名前は思っていた。

 兄が士官学校に入り、家に帰って来ることが滅多になくなってしまった頃、名前は働きに出るようになっていた。家からそんなに遠くない茶屋や蕎麦屋など色々な店を経験していた。祖母からは何度かお見合いを勧められたが、どうもそんな気になれなくて断り続けていた。そんな時、士官学校での課程を終えた兄が北海道を本拠とし旭川に本部を置く陸軍師団、大日本帝国陸軍第七師団の所属になると言った。

『…兄様、北海道に行かれるのですか?』
「ああ、もうここには滅多なことがない限り帰ることはだろう」
『……そうなの、ですか……』

 名前は自分の着物をぎゅっと強く握った。その手を兄の大きくて硬い手がそっと解いた。

「着物にシワがつくだろう」
『…もう兄様にはお会いできないのですか?』
「……一生会えないわけじゃない」
『ですが戦争が始まれば……もう、二度と兄様に会えなくなってしまうかも……っ』
「全く、お前は幾つになってもよく泣くな」

 兄は自分の服の袖で妹の目を擦った。兄様痛いです!という妹の抗議は聞こえていたが無視をした。兄は兄で妹と離れるのが寂しかったのかもしれない。だからこのような提案をしたのも、兄の方が妹と離れ難かったからかもしれない。

「………なら、お前も北海道に来るか?」
『え…?』
「前にバアちゃんの親戚が北海道で店をやっていると聞いたことがある。頼めばそこで働かせてくれるかもしれない」

 百之助の提案に名前は今までの涙をすっかり引っ込め、嬉しそうに笑った。調子のいいやつだ、百之助も笑った。

 そうして兄妹は揃って茨城を離れ、北海道にやって来たのだ。かといって従軍している兄にそうそう会うことはできず、たまに顔を合わしたり手紙のやり取りをする程度だった。それでも名前は幸せだった。最も慕っている兄と離れ離れになることなく、こうして会うことができているのだから。