No.02
『…兄様、おかえりなさい』
「ただいま、母さんは?」
『……まだ買い物から帰ってきていません。………きっとまたあんこうを買って来るわ』
冬に入ってしばらく、徐々に食卓にあんこう鍋が出ることが増えていった。以前より冬の間に食べることは多かったが、ここまで頻繁ではなかった。数日置きに出ていたあんこう鍋は徐々に頻度を詰め、最近では毎日のように食べていたのだ。
『昨日も、一昨日も食べたわ……。嫌いじゃないし好きなんだけど……』
「…こう毎日だとな」
兄の言葉に、妹は声もなく頷いた。二人共ここ最近の母の様子がおかしいことには気づいていた。
『…きっとお父様のせいだわ』
「え?」
『お母様が言っていたの。お父様があんこう鍋がお好きだったって…。だからお母様は今でもあんこう鍋を…』
「……そうすればまた父上が来てくれると思って、か」
名前には母が哀れで仕方がなかった。子供でもわかる、世間体を考えれば妾の子は疎ましく、本妻の間に男児が生まれてしまった今、妾とその子供はもう不要であると。
しかしそんな父を今でも愛し、美味しいと言って食べてくれたあんこう鍋を作ればまた食べに来てくれると信じている母。名前は母になんと話しかければ良いか分からず、最近は会話することもめっきり少なくなっていた。
『…どうすればお母様はもうあんこう鍋を作らなくなるのかしら……』
「……名前は母上にあんこう鍋を作って欲しくないか?」
『はい…。きっともうそんなことしてもお父様はお母様に愛には来てくれません…それよりもお母様に…前のお母様に戻って欲しい…っ』
たまらず名前は百之助の懐に飛び込んだ。兄はそんな妹を受け止め、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。百之助の着物の胸元が名前の涙でじんわり濡れていった。百之助は妹の頭をそっと撫でた。
「…俺がなんとかする」
『ど、どうやって……?』
「ジイちゃんが古い銃を持っているのは知っているか?」
『ええ…もうあまり使っていないと言っていた…』
「あれを使って鳥を仕留める。鶏肉を持っていけばきっと母上はあんこう鍋を作らない」
百之助は精一杯の笑みを浮かべ、すっかり赤くなった名前の目尻を指で撫でた。
『でも兄様、鳥を撃ったことなんて…』
「…ジイちゃんが猟には目の良さが大事だと言っていた。俺は目がいい、きっと仕留められる」
そして兄は有言実行、見事鳥を仕留めたのだ。名前は大層喜んだ。百之助もそんな名前を見て喜んだ。きっとこれでもう母があんこう鍋を作ることはないだろう。
「今日はあんこう鍋よ」
しかし、その日の食卓にもあんこう鍋は出された。どうして、せっかく兄様が鳥を取って来てくださったのに。名前は愕然とした。百之助はそんな名前の肩を抱いて体を支えた。
「……きっともうすでにあんこうを買って来ていたんだ。明日もまた鳥を仕留める、そうすれば母上も鳥を使うだろう」
兄の慰めに妹はゆっくりと頷いた。二人は座り、あんこう鍋食べ始めた。その日のあんこう鍋の味は名前にはよくわからなかった。
それからも百之助は鳥を仕留めては母の元へ持って行った。しかし母がその鳥を使うことはなかった。
『…兄様、もういいわ』
「名前…」
『きっとお母様はどんなことをしてもあんこう鍋を作り続けるわ。私たちを捨てたお父様を今もそれだけ愛していたのよ……。せっかく毎日兄様が鳥を持って来てくださったのに、最近はもう耳も貸してくれない…』
最近の母は百之助が鳥を差し出しても背を向けたままで、百之助のことを見ようともしなかった。
『お母様、あんなにお優しかったのに…もう私たちのことなんて目にも入らないのね』
「………名前、明日ジイちゃんとバアちゃんが街まで買い物に行くと言っていた。それにお前もついていけ」
突然の百之助の言葉に名前は伏せていた目を丸くした。
『急にどうしたの、兄様……』
「最近母上のことばかりで少し疲れているだろう」
『え……だったら兄様もご一緒に……』
「俺はいい。行ってこい」
翌日、名前は祖父母と一緒に街へ出かけた。玄関先で名前たちを見守る百之助のことを、名前は見えなくなるまで振り返って見ていた。百之助もまた、三人が見えなくなるまで玄関から離れることはなかった。
名前たちが帰ってくると、母が亡くなっていた。