もやもやした気持ちを隠しきれないまま店を出た。 何故もやもやしているのか、どうしたら良いのかが分からない。まさか、自分で自分のことが分からなくなるなんて驚きだった。 俺が払うから、と言って私の言うことに耳を貸さない黒尾君に流されたまま帰路につく。……帰路につくといっても、帰る方向は同じな訳だけれど。 隣を歩く黒尾君は心なしか楽しそうだ。意味が分からない。 ひたすら無言を貫きながら歩いていると、ふと黒尾君は口を開いた。 「あのよ、棗」 つい、返事をしそうになる。駄目、と自分に言い聞かせて、顔だけ黒尾君の方に向けた。 黒尾君は頭の向きが変わったことで聞こえていると判断したらしく、勝手に続きを話し始める。返事が返って来なかったことなど気にしてはないらしい。 「別に無理やりじゃなくても良いんだけどよ、“黒尾君”ってのやめて欲しい。鉄朗で良いだろ?」 昔はそう呼ばれてたから違和感あるんだよ、と言って黒尾君は口を閉じた。 言いたいことは言ったから、あとはのんびり私の返事を待つ気なんだなと感じとる──昔から黒尾君はそうだった。 鉄朗、と心の中で彼の名前を反復してみる。懐かしい響き。 “黒尾君”という呼び方に彼が違和感を抱いたのは仕方のないことだと思う。だって、自分でもしっくりきていないのだから。 「…………、鉄朗」 自分で思ったよりもすんなりと声になる。久々に呼んだ彼の名前。 過去に縋りたくなってしまう。好きだと告げたくなってしまう。鉄朗、ともう一度名前を呼びたい気もするが、呼ぶのが怖い。自分の隠している気持ちが全て露呈してしまいそうで。 そんな気持ちを払拭するために、彼の顔を見た。コレで満足?と聞こうと考えていた台詞は、私の口から出ることはなく消えてしまった。 (なによ、その顔) 黒尾君が、先程とは比べ物にならないほどに優しい表情を浮かべていたから。昔はよくその表情を見たものだ。 「変な顔ね、黒尾君」 そう虚勢を張るのが精一杯だった。そうやって顔を逸らさなければ、いくら周りが暗いといっても顔が赤くなるのを誤魔化せないだろうから。 「……ま、気が向いたらで良いから。でも」 やっぱり名前の方が棗らしい思うがな。と言い残して黒尾君は立ち止まる。どうしたのだと思えば、ここは私の家の前だった。 驚く。あの店と私の家はこんなに近かっただろうかと。 もっともっと、時間があると思っていた。 ──もう少し、隣を歩けると思っていた。 私は、家の中に入ることが出来なかった。この場から、動きたくなかったのだ。 黒尾君に不思議に思われるのは分かっている。それでも。 後少しだけ、時間を共有していたいと思ってしまったのだ。 ← → |