短編 | ナノ
昨日たまたまお気に入りのセレクトショップで見つけたのは、僅かな赤みを帯びた柔らかなピンクのグロスタイプのルージュ。
そのとろりとしたルージュの質感、主張しすぎない可愛らしいピンク色。底に向かうにつれ太さを増すコロンとしたその入れ物も、持ち手部分の色がピンクゴールドなことも、唇に色をのせるときに保湿成分に入れられた蜂蜜の香りがほんのりと漂うところも、すべてが気に入ってしまった私は気付けばそれをお買い上げしていた。

明日。明日これを塗って学校に行く、それだけでも私のテンションはぐぐっと上を向く。しかし、それよりも楽しみなのは、堅治の反応、だ。
堅治は、何か、言ってくれるだろうか。
恋人である堅治はそういう変化に目敏い。細かいことはよく分からなくても、「なんか今日色違う」とか、「髪巻いてる」とか。そういうことに気付いてくれるのは、単純に嬉しい。
じゃあ明日、これをつけていったら。私はひとりわくわくしながら、家路へとついた。


「堅治」
「……あーもー、なに」
「可愛いって言ってよ」
「いっつも言ってんじゃん」

そうじゃなくて、と分かりやすく眉を顰めてみても、堅治は全く態度を変える気はないらしい。

朝一番、朝練から戻ってきた堅治の席まで出向いて「今日リップの色違うの!」と主張してみたが、彼の口から出たのは「あ、ホントだ」と言った簡素なものだった。どうやら、一目惚れして買ったこのルージュは彼のお気に召さなかったらしい。その証拠に、さっきから彼はこの色に染まった私の唇を見ようともしない。

「堅治この色嫌い?私似合わない?」
「……なあ、あっち行くから一緒に来て」

堅治はガタンと音を立てながら椅子から立ち上がり、私の手をとった。当然ながら私の力が堅治の力に適うはずもないので、突然のことに驚き固まってしまった私の足は、それでも堅治に手を引かれるがままにきちんと歩き出した。

そのまま無言で歩くのもほんの僅かな時間で、堅治は多目的教室へと私を引っ張り込んだ。普段ならわりと人の出入りの多いこの教室も、HR前のこの時間の利用者はいないらしい。
がらんとした教室の扉を閉め、堅治は大きくため息をついた。

「堅治?」
「……なまえそれ、ちゃんと可愛い」
「えっ?ほんとに?」
「こんなことでウソついたって仕方ねえじゃん。信じろって」

堅治に可愛いと言われたことが嬉しくて、良かった、と笑えば、堅治はそれに呼応したようにくしゃりと顔を歪めて笑う。
堅治は「な、なまえそこ座って」と机を指さした。そういえば早く戻らないと遅刻扱いになるんじゃ、なんて考えが頭を過ぎったが、気づかない振りをした。
大人しく机の上にお尻をのせる。ぎしりと机の軋む音とともに、ガコ、と机の足が傾いた。どうやら僅かに脚の長さにずれのある机らしい。授業中にも体重をかけるだけでガタガタ鳴ってうるさいこの所謂ハズレの机に、私は幸いにもまだ当たったことがない。

言われるがままに机の上に腰をかけると、堅治は私の前まで来て、私の座る机の縁に手をついた。もう片方の手は私の頬へとのびている。
あ、キス、するのかな。そう思ったが、堅治がキスを仕掛ける距離ではないので違うのだろう。

「なまえ」
「なあに」
「キスしたくても出来ねえじゃん、これ塗ってると」

あ、と堅治の言っていることが分かった。同時に少しだけ罪悪感がわく。堅治は気を遣ってくれていたのか、と。

堅治は女の子の努力を笑ったり踏みにじったりするような奴ではない。つまり、好きな子ほどいじめたいとか、そういうタイプとは真逆だし、女の子が可愛くなるためにする努力を素直に評価してくれるのだ。
化粧は素顔じゃないとか、猫被りは嫌だとか、そういうことは言わない。自分のために可愛くしてくれるなら嬉しいし、可愛くしようとしてる姿が可愛いんじゃねえの?というのが彼の持論だ。

「せっかく可愛くしてんのに、なんかキスしたら勿体ねえ気がする」
「……堅治がキスしてくれなきゃ、せっかく可愛くしても誰もキスしてくれないんですけど」
「それも虚しいな」
「でしょ?」

堅治は私の頬から後頭部へとその手を移動させた。机に着かれた手に体重がかかって、机が鳴く。ぎい、と乾いた音が教室に響いた。
ゆっくりと重ねられた唇は温かい。重なった唇は熱を持って私のルージュを融かした。とろりと私と堅治の唇の間で融けたそれは、一瞬離された唇から素早く堅治の指で拭われてしまう。

ルージュがいくら可愛らしくてお気に入りでも、キスするときばっかりはお邪魔虫だ。特に堅治は私よりもそう思っているらしい。
それは別にべたつくとかそういう理由じゃなくて、唇と唇の間の、その存在自体が嫌いらしい。堅治曰わく、ルージュにキスを阻まれているように思うらしくて、結構彼も乙女のようなことを考えるんだなあと思った。それを本人に言ったら、恥ずかしがることもなく「悪いけど俺、嫉妬とかするタイプ」と言ってのけられたことを、私はきっと忘れないと思う。

そっと唇が離されて堅治が後頭部から腕を外した。机に着かれた手も引っ込められる。重みを失った机がまたぎいと音を立てた。

「遅刻扱いされんのヤだし、戻ろうぜ」
「ん、そうだね」

机からおりて二人で多目的教室を出る。堅治の指はルージュのべたつきで汚れていたままだし私の唇はすっぴんだ。それでも幸せなのは愛されていることが分かるからだと思う。

お昼休みにまたルージュを塗り直して堅治の元へ行ったら、またキスしてくれるのだろうか。そんな悪戯じみたことを考えて、私は自分の席へと滑り込んだ。ぎりぎり遅刻扱いにはならなくて、ほっと一息つく。鞄の中のポーチに潜ませたお気に入りのルージュをどうしようかと考えながら担任の今日の連絡事項を読み上げる声を聞いた。
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