行かないで、ねえ、私をおいて行かないで。 そんな風に自分が叫んだ、気がする。自分が誰を引き留めていたのかも、誰が去ってしまうのかも分からないけれど。 去りゆく誰かの背に手を伸ばす。後少しで掴めるのに、というところでその後ろ姿は背景に溶けるように消えていった。誰かを掴み損ねた手だけが、ぽつんとその場に取り残されたまま。 私は疲れたように瞼を降ろした。暗闇。 ゆるゆると瞼を持ち上げると、目の前は真っ暗だった。頭の下に敷かれた腕の感覚と、腰の上に乗せられた重み、そして、いつも私を抱きしめる人の匂い。ぼんやりとした頭で、今の状況を考える。身動きが制限された体制の中、僅かに視線を持ち上げれば、深く眠っているように見える京治の顔があった。 ああ、そうか、今のは夢か。いやな夢だなあ。相手が分からなかった夢だったけれど、現実で考えたら私が行かないでと縋る相手なんて、今私の隣で眠っている恋人以外思い浮かばない。 私は京治を起こしてしまわぬよう、密かにため息をついた。 自分の手のひらを見る。なにも握っていなかった。普段ならそれで良いのだが、変な夢を見た直後、私はそれが何だかものひどく無防備なことのように思えて、そっと京治のスウェットの裾をつかんだ。 もう一回寝よ、そう思って再び京治の胸に顔を埋める。起こしてしまうかもしれないと危惧したが、そうでもしないと落ち着いて眠れない気がしたのだ。 「──、なまえ……?」 危惧したとおりに彼は起きてしまったらしい。頭上に響く掠れた声は間違いなく寝起きの京治のものだ。 「ごめんね、起こしちゃった」 「……ん、別にいいよ」 私の腰に添えられていた腕に力が入り、私はぐっと京治の胸板へと引き寄せられた。そのしなやかに筋肉のついた胸板の、真ん中に手を添える。じっとしていると、とくん、とくん、と一定のリズムを刻む京治の心音を感じた。 「なまえ」 「うん」 「怖い夢でも見たの」 「うん」 「そう」と言った京治の声は大変に甘さが滲んでいて、私は夢の中で感じた不安がすっかり溶けていくように思った。大丈夫、とか、俺はここにいるよ、なんて言わない。たった一言、「そう」と。それだけで私は満足できる。正しく言うと、その一言の、隠そうともしない甘い響きで。 「誰かが私から離れていくの。京治かどうかは分からなかったけど、きっと京治だと思う」 「なんで」 「だって、京治以外に追いかける人なんていないし」 ふ、と京治が笑った。追いかけるものは沢山あってもいいと思うけど、と。 私は面倒くさがりだから、そんなことは出来ない。ひとつ、せいぜいふたつ追うだけで十分だ。だとしたら京治と部活に熱を傾けておしまいだ。 「私は此処が居心地いいからいいや」 「……そう」 京治はまだ眠いらしく目を閉じた。それでも会話は続けてくれるらしい。 それもその筈だ、正確な時間はわからないものの、まだ部屋は暗い。 お正月の部活のお休みももうおしまいで、次に目を覚ますと私達は登校の支度をしなければならない。京治は京治の部活のために。私は私の部活のために。 「年はじめに一緒に過ごせて良かったね」 お互いに家族は帰省しており、部活があるという名目で自宅に残った私たちは密かに、こうして寝食を共にしていた。あまり外にも出ていない、所謂寝正月とでも言うのだろうか?──初詣は行ったのだけれど。 本当はきっといけないことだ。親のいない家でふたりきりなことも、寝正月も。 「……明日からは家に帰るから、寂しかったのかも」 「また来ればいいよ、母さんなまえのこと好きみたいだし」 「ん」 その会話を最後に私も目を閉じた。お互いの明日のために。新年一発目の部活が寝不足だなんて、部活人間の私達がするようなことではない。 目を覚ますと、部屋は仄かに明るくなっていた。カーテン越しに差し込む朝日が、柔らかく私達を照らしている。私は腕を伸ばして鳴る前のアラームを止め、京治、と彼の胸を叩いた。 「おはよう、京治」 「……、なまえ」 「今日から部活だよ」 ごそ、と京治の腕から抜け出してカーテンをあけた。いっきに明るくなった室内で、京治は上半身を起こしている。少しぼんやりしているようだ。こんな時間に起きたのは久々だから仕方ないのかもしれない。 「なまえ」 「ん?」 「おはよう」 「おはよ」 あのさ、と京治は続けた。ちゃんと大人になれたら、結婚しようか、と。 突然の言葉に私は目をぱちくりとさせてしまった。 「家に帰るのが寂しいなら、帰るところを変えればいいかなって」 「……唐突だねえ」 「自分でもそう思った」 「じゃあ、幸せにしてね」 「はいはい」 とりあえずご飯にしよっか、なんて言って二人でリビングへと向かう。ああほんと、新年早々こんな幸せでいいのかな。 懶惰様へ提出させていただきました。 |