Visibile ferita

 幸福



『――! 我が―――、―く、目――……!』


「アリア、」
高めのテノールが誰かの名前を呼んだ。その声を聴くや否や意識が浮上していく。
目を開けるとそこには綺麗な紫水晶が輝いていた。

その宝石の持ち主。彼の名前は知っている。


「…? リオン……?」
問いかけるように彼の名前を呼べば、彼は目を丸くした。何を言っているんだろうか、まだ寝ぼけているのだろうか、そう思っているのだろう。

「どうした、寝ぼけているのか? 君は夕食には一番にやってくるというのに。」
心配そうに肩を叩いた彼は言う。彼の言葉を聞いて、一気に頭が覚醒した。
窓の外を見れば、街が茜色に染まっている。黄昏時と呼ばれる時間――つまり、夕飯の時間。

「わっ!? 夕ご飯!?」
「そうだ。いつまで経っても降りてこないから姉さんが心配していたぞ。」
目の前の少年――リオンが半眼で呆れたように溜息をついた。
腕を組んで壁に凭れた彼は肩をすくめる。彼の姉は相当お怒りなのかもしれない。

「やば…!」
そこで思い出す。夕食の前に少しだけ仮眠しようと机に突っ伏したのだ。
どうやらそのまま本格的な眠りに誘われて、見事夕食の時間に遅刻したらしい。そして気の強い姉に命じられた彼が、こうして自分を起こしに来てくれたというわけだ。

「行こうか。」
「うん!」
差し出されたリオンの手を握る。暖かい手はなんだか不思議だ。

「……?」
奇妙な感覚が胸を埋める。握られた手を見た。

リオンの手は、こんなに暖かっただろうか。
確かに自分よりは暖かった気がするが、こんなに優しい――例えるなら太陽のようなぬくもりを彼は持っていただろうか。
もっと、違う……ような。違わない…ような。
どういうことかわからず内心首を傾げていると、前を歩くリオンが振り返った。

「……どうした、アリア?」
「…え?」
「? どうした?」
呼ばれた名前に急に違和感を感じて、思わず変な顔をしてしまったようだ。リオンの端麗な顔が訝しげに歪み、続けて心配そうな色を強くした。

「…具合でも悪いのか?」
「ううん、なんでもないんだけど。」
「なんでもない? …嘘をつくな。話せるようなら話せばいい。僕で良ければ、だが。」
「ありがと、でも本当になんでもなくて。なんかね、違和感があるだけだから。」
「違和感?」
「そう、寝てる時に見てた夢が現実で、起きた時から夢の中にいるような感じがしてて……」
「………」
「あははは、そんなわけないのにね! ほんとに寝ぼけてるだけかも。」
「……そうか…」
最後に締めくくって笑うと、リオンの表情が優しく緩んだ。
彼に話をしたら、胸のつかえが溶けたかのようにすっきりしている。一体あの異常な違和感はなんだったのだろうか。


「なら急ごう。あの能天気が両手にフォークを持ってテーブルを叩いていたぞ。」
「スタンらしいなー、片方ナイフじゃないんだ?」
「…あいつはまずテーブルマナーを学ぶべきだと思うのだが」
「言えてるー」
「……君も少しは覚えた方がいいと思う」
「む、いいのパーティとか出ないから!」
「その理屈が通るなら、スタンも一生覚えないな…。」
違和感は溶けて行った。
そして残ったのは、心地よい空気と暖かい手のひら。階段を降りた先に待っていたのは、大切な人たち。


「アリア! なにやってんのよ冷めちゃうでしょ!」
「ごめんごめんルーティ!」
「早く食べよう! 俺腹減ったー」
「ちょっとスタン、やめなさいよみっともない!」
「……いただきます。」

「いただきます!」
騒がしいが優しい夫婦。そしてその弟であるリオン。
アリアは旅の仲間だった彼らの家に居候させてもらっている。
ダリルシェイドの中でも中央部からはかなり離れた場所だったが、大して不便もなくリオンやルーティは実家にもよく帰っている様子だ。



幸福。そんな単語が頭をよぎる。
その瞬間、脳裏に桃色の少女とスタンによく似た少年がちらついた。
はっとして目を擦ると次に黒衣の少年が浮かぶ。

「アリア?」
頭を振ったアリアの肩に誰かがそっと手を置いた。
その手を辿っていくと、綺麗な紫色が心配そうに光る。
彼の憂いを帯びた顔を見るのは好きではなかった。意味もなく悲しくなるからだ。

「だいじょーぶ! ちょっとぼけっとしちゃっただけ!」
だからアリアは笑みを張り付けた。いつか見た誰かが、そうしていたように。

彼は端正な顔をほっとしたように綻ばせた。
それを見たアリアは、胸が温かくなるのを感じながらシチューを口に運んだのだった。
いつかどこかで食べたシチューを思い出す。あれはどこで食べたのだったか。
思い出そうとしたが、途中でやめた。今が幸せなら、過去はなんだっていいじゃないか。


わがあるじ、はやく、めざめよ。
覚醒する前に聞こえたその声も、アリアは封じてしまっていたのだった。


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