Visibile ferita
確かに覚えていたぬくもり
こんこん。
『どうぞ』
ドアをノックする音の後、すぐに向こうから返事が返ってきた。体が勝手に動き、取っ手のような場所に手をかける。
すらっと音がした。扉は開いたらしく、質素な部屋が見える。
『、お待ちくださいませ…!』
『 様…? どうしてここに……ぐ』
誰かからかかった制止の声も空しく、体は部屋の主へと突進していった。鳩尾の辺りだろうか、クリーンヒットしたらしいその部屋の主は小さくうめく。
『失礼いたします、 様。』
部屋の主ではない声が聞こえた。先程待ってほしいと言っていた声と同じ人物のようだ。
頭上の部屋の主が視線を扉へと向けるのが分かった。こちらに対して言葉こそ発していないが、柔らかな手で頭を優しく撫でられて心地よさを感じる。
『有事の際にお一人でこちらまで来れるよう、訓練をなさっているんだそうですよ。』
女性の声はそう言った。どこかほのぼのとしていて、平和な声だった。
『ああ……それで…』
“彼”は“彼女”から水を張った洗面器を受け取っている。中の澄んだ水を掬うと顔を清めた。
“彼女”はそれを見てすぐにタオルのような柔らかい布を渡す。
『ありがとう。』
『とんでもない、わたくしの仕事ですもの。』
仲睦まじくしている二人を見やりつつ、体は椅子をベッド近くまで引っ張ってきた。
二人の様子を見てなんとなく嬉しさがこみ上げてくるのを不思議に思いつつも、頬は勝手に緩む。
『 様の髪は本当にお綺麗ですわ。』
『そう…かな?』
“彼女”は“彼”の座っている隣に腰かけると、褒めていた髪を手に取った。
櫛を通しながら“彼女”は続ける。
『まるで絹みたいにしなやかで、指通りがよくって。羨ましいですわ。』
『はは…褒めすぎじゃないかな…?』
梳かれる度にさらさらと繊細な音を立てる髪は、本当にシルクのように見える。“彼女”に同意するように頷くのが見えたのか、“彼”がこちらを向いた。
『 様まで。本当に…あまり褒めないでほしいな…照れちゃうから。』
言った通り照れくさそうにはにかんだ“彼”に、したり顔をしてしまう。
『ご謙遜を! 里の者は皆あなた様が歴代一の美しさだと褒めておりますわ。』
『困ったなあ……』
“彼女”が言うと“彼”は褒められ慣れていないのか、不自然に視線を彷徨わせる。しかしそっとこちらを窺うと、喜びを噛み締めるかのように口を引き結んだ。
小さく口が開く。美しい深海の色がこちらを向いた。
『えと、ありがとうね、 様。』
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