triste

 戸惑う兎が目にしたものは



「えと……いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」

男性は呆然としていた私に大丈夫か、と書いたメモ帳を見せて首を傾げた。

それに頷いて心配をかけないように笑う。
ほ、と息をついた男性は心根の優しい性格なのかもしれない。安心したように口元を綻ばせる彼は本当に私を心配しているようだった。


「あ…!」

そこまで考えた所で、私はまだ彼の名前を知らない事に気付く。
普通は最初に名乗り合うべきなのに、私はそれを見事に失念していたのだ。


「私は雪宮和泉と申します。貴方は?」
「……!」

尋ねると、彼はぴくりと反応して停止する。名前を聞いた事はそんなにまずい事だったのかと私は後悔したけど、彼は何かに迷っているようだった。


「あの、言いたくないのでしたら言わなくても……」
「…!……!」
ぶんぶん、ぶんぶん。……違うらしい。

必死に首を振って、彼は私の言った事を否定する。言いたくないというよりは言えないでいるのを迷っているようだ。
彼は何かをメモ帳に書き始めた。くるりと返したそれには、現代文の授業で見た事のある四字熟語が記されている。



「『他言無用』……?あなたの名前を他の人に言ってはいけないのですか?」
「……!」

こくりと頷いた彼。
自分の名前を名乗る事が出来ないなんて、まるで道具同然の扱いを受けていた過去の私同然。
そこで彼はまた何かを書いて私に見せてくれた。

「……かぜ…ま?」
「……!…!」
ぶんぶん。
訓読みじゃないみたいだ。


「…ふうま?」
こくり。
今度は合っているらしい。

「ふうま、こたろう……?」
こくこく。また彼は頷いた。
けれど、これは人名ではないだろうか。彼の言いたい事がよく分からなくて眉を寄せると、彼はその名前を指差した。


「あの…この人がどうしたんですか?」

私が尋ねると、その指で次に自分を指し示す。ということは、もしかして。


「貴方が、風魔小太郎さん?」
こくん。
小さく頷いて、彼はメモ帳の前のページを捲って私に見せる。そして私を手で示した。

「つまり、私があなたの名前や情報を他の人に話してはいけない、ということですか?」
「……!」

こくり。
彼――風魔さんは何か理由のある人のようだ。
他言無用とは今名前を教えても他人には言わないでくれ、という彼の頼みだったのだろう。そういう意味でも使えるのに、それを見落としていたみたいだ。
ちょっとした思い違いだったらしい。


「それはお約束します。でも…」

でも、私が他言してはいけないということは、彼は本来名乗ってはいけない立場にあるのでは……?
それによって風魔さんが処罰を受けたりするのだったら、私はとんでもない事をしたことになる。

「私に名乗ってはいけなかったのでは……!風魔さんの立場が危うくなったりはしませんか?」
「…!………!」

ぶんぶん。
風魔さんはメモ帳を見せてくれた。

そこには一言、良とだけ書かれている。

よかった。
溜め息をついて呟けば、風魔さんの唯一見える口元がにこりと弧を描いて綻んだ。
そっと頭を撫でられる。その手がとても暖かくて、思わず目を閉じていた。


その時、首筋に走った幽かな殺気。私が目を開くよりも早く、風魔さんは私を抱えて跳躍していた。
元いた所を見れば、大型の手裏剣が深々と突き刺さっている。

私を木に下ろした風魔さんは背中の刀を抜いてその手裏剣の持ち主に斬りかかった。それをもう一つの手裏剣で弾いた相手は、私に向かってそれを飛ばしてくる。
確かにその速度は速いけれど、避けられないほどではない。私は横にあった木の枝に移動してそれをやり過ごした。


「ふーん、只者じゃないってことねー。」
「!」
…はずなのに相手は背後にいた。振り上げられた手裏剣を針で受け止める。
でも相手は男、私は女。腕力の差で私は確実に押し負けるだろう。

けど、そんな訳にはいかない。ここで死んでしまったら、私はともかく風魔さんにも迷惑がかかってしまう。



「女の子ってこんなに力あったっけ?君、ますます怪しいねぇ?」
「っ……!!」
「それに、」

ぎりぎりと針と手裏剣の刃が音を立てる。
やはり、相手は忍者みたいな人だった。

でも彼は風魔さんと違う。氷みたいな…見ただけで私まで凍りついてしまいそうなほど、冷たい目。
そんな瞳を持つ彼は、嘲笑にも似た笑みを浮かべて私を見た。


「どうやってあいつを手懐けたのさ?」
「!?それってどういう……っ!」
思いきり私は地面に叩きつけられる。言いかけた言葉が喉に戻ってしまった。立ち上がろうとすると、脇腹の内部が鋭い痛みを訴える。

「……っ!!」
「肋骨、折れちゃったかな?ごめんねー。でも、ひと思いにやってあげるからさ。」

にこりと笑った彼は、私に向かって手裏剣を放った。避けようにも私の腹部はずきずきと疼いていて、動くことが出来ない。

動かなきゃ、いけないのに……!


「く……、」

万事休す、とはこのこと。来る痛みに耐えようと目を閉じて、唇を噛んだ。

 

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