何の変哲もなかった | ナノ




「岩ちゃん!」
 呼ばれた途端、ぐわ、と。
 ある事実が岩泉一の心の奥底を揺るがした。
「ただいま!!」
「お、おいかわ……」
 動揺が声の震えにあらわれる。当然ながら、及川は異変に気がついた。勝手に部屋に上がりながら、岩泉の顔をのぞき込む。
「どしたの? 岩ちゃん? 俺がいない間になんかあった? あ! さては寂しかったんでしょ? こんなに離れるの久々だったもんね? どう? 生の及川さんは? 感激して声も出ない?」
「うるせぇ!」
「ふぎゃ!!!!」
 思いっきり引っぱたかれた頭を抱えてちょっと! 手加減しろよ! とわめく及川、それを尻目に、岩泉は自分の動揺に驚いていた。



 今から3週間前。及川の作った麻婆豆腐を食べながら、岩泉はその話を聞いた。
「あ、岩ちゃん。俺、ちょっといなくなるかもしんない」
「は? どこへでも失せろ」
「ひどすぎない!? あと話聞いて!」
 ようは、友人と旅行に行くらしい。それに続いてゼミ合宿があり、約一週間近く家を空けることになるそうだ。ちなみに、家というのは岩泉の隣部屋であり、何を隠そう今食事をしているのは及川の部屋である。大学入学を期に引っ越してきた東京のこのアパートでも、及川徹と当たり前のようにご近所さんを続けている。夕食を毎日1人分作るのが面倒なので、食事当番を決めて2人分作る、という取り決めは入学当初から続いている。大学2年の今でも、この腐れ縁は切れてくれない。
 なるほど、と岩泉は頷いた。
「とりあえず、一週間お前の顔を見なくていいってこったな」
「なんでそういう言い方するわけ? まったく……寂しくて泣いても知らないんだからね!」
「誰がだ。あとこれうめぇな」
「麻婆豆腐のもと使ったやつだよ? 岩ちゃんでも出来るよ」
 そう言いながらも機嫌良さそうに、まだ残ってるからおかわりしてね、と及川は笑った。



 そうして、及川がいない一週間が始まった。前の晩の及川が言った「寂しくなったら電話してね!」とかいう戯言は笑い飛ばしておいた。確かに、これまで長く及川と離れることはなかったから、かなり希少な出来事だ。けれど、そんなことは大学の友人と出くわし、会話をするにつれてどこかへ追いやられてしまった。一週間、何気ない日々を送った。その週は飲み会に誘われていた日も多く、夕飯をひとりで食べる機会があまりなかった。そのせいかもしれない。実際、及川のことを思い出すことは数えるほどしかなかった。しかも、ああ、そんなやついたな、程度の認識だった。部活も、たまたま今週は大学の行事に体育館が使われるということでなかった。及川はそれを見越して予定を入れたのだろう。家に帰ると、終わらせなければならない課題のことで頭がいっぱいになり、隣の住人のことなど思い出している暇がなかった。そもそも学科が離れているため普段から授業日はあまり会わないのだ。及川が「岩ちゃーん」とか言いながら隣から突撃してこない限り。



 だから、動揺せずにはいられなかった。いつまでも玄関口で立ったままぼけっとしている岩泉を引っ張って、及川は背の低いテーブルの脇に座り込む。岩泉もそれにならった。
「ちょっと岩ちゃん、ほんとに大丈夫? 具合悪いんじゃないの」
「いや、悪い、大丈夫だ」
 及川徹という存在が目の前に現れて。
 こいつが、自分にとって唯一無二の友人で、気の置けない仲で。
 バレーボールでは、自分にとって1番いいトスをくれるセッターで。
 何よりも、こいつが幼い頃から自分の隣にいたという事実を。
「とりあえず寝なよ」
「ん。いや、ほんとうに平気だって」
 今思い出したのだ。この男の顔を見た瞬間に。いや、思い出したという言い方はもちろん適切ではない。当然知っていた。
「ほんとに大丈夫なの?」
「いや……お前がいてよかったなと思って」
 及川はきっかり10秒固まった。
「急にどうしたのさ……そんなに寂しかったの?」
「むしろお前の存在忘れてたわ」
「ひっどいな!!!?」
 なんて言えばいいかな、と岩泉は腕組みをする。昔から、複雑な感情を言葉にするのは得意ではない。
「だから、良かったと思ってさ」
「何がいいもんか! 薄情者!」
「いや……なんかたんねぇと思ってたんだよ。俺には友だちもいるしチームメイトもいるけど」
「超絶信頼関係が足りないって?」
 拗ねたように及川は顔をそむけて言った。
「あー、うーんまあそんな感じ」
「雑だな! 結局なんなの! 人のこと忘れてたとか言ってさ!」
「悪かったよ。でも忘れてたもんはしゃーないだろ」
「正直か!!」
「そんな怒んなよ。帰ってきて嬉しいって言ってんだよ」
「デレがわっかりにくいんだよ!!」
「夕飯あるけど。食う?」
「食べるに決まってんだろ!!」
 勢いで返事をする及川に笑って、鍋の中身を温め直すために席を立った。
 それにしても、と岩泉は考える。そういえば他の友人と接しているときとは何かが違うのだ、と及川を見る。彼はテレビをつけて面白い番組がない! とぶつくさ言いながらチャンネルを回していた。



(お前ほど気を許せる相手なんかいねーってことだよな、結局)













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