独り占め | ナノ




「……」
「…………」
「なんかあったのか?」
 及川の様子がおかしい。どうおかしいかといえば、昨日までは普通だったのに、今日に限って練習中、何かしらに苛立っているように見えた。人当たりはいい。この男はいつもそうだ。人には当たらない。自分の中で消化しようとしているが、外からは殺気立っているように見えるのだ。だから、部員の大半はあまり気づいていないだろう。
 ただ、明日もこのままだと少し困るから、黒尾は仕方なく、自主練に入ったあたりで及川に声をかけたのだ。
「……クロちゃんには、関係ないよ」
 声音は穏やかですらあった。しかしその中に含まれるピリピリした感情を、黒尾は敏感に察知する。
「おいおい。そりゃ出来事自体は関係ないけど? お前の状態は関係あんだよ。俺アタッカー、お前セッター」
 及川はぐっと詰まって、またサーブの練習を始めた。そんなに力んだ状態で練習して意味があるのだろうか。結局その日の自主練は結局いつもより早い時間に声をかけた。及川も、何も言わずに切り上げたから、自覚はあるのかもしれない。
 及川徹という男と数ヶ月過ごしてわかったことは、かなり情緒溢れる男だということだ。話していてテンションの上下が激しいし、見ていてなかなか面白い。逆に言えば、少し情緒不安定な部分がある。しかし、試合となると話は別だ。特にサーブの前などは、いつもの笑顔が嘘のようにすべてが削ぎ落とされたような表情になる。そこに浮かんでいるのは怜悧な闘志のみで、同じチームながら、いつも背筋がぞくりとする。本人曰く「焦るときは焦るし、元の性格はなかなか変えられないよ。どれだけ表面上取り繕っても、やっぱりね」その時には、黒尾はなんと言ったんだったか。確か、そんなふうには見えないな、とかそういうことを言ったような気がする。勝ち誇ったように及川は笑った。「だって、そのままじゃ勝てる試合も勝てないでしょ。心技体って言うじゃん。精神面を鍛えることが大切なのだよ、黒尾くん」
 で、それは誰の受け売りなんだ?
 なんでまた、バレーに支障が出るほど悩んでんだよ。
「及川ー、俺ハンバーグ食べたい気分〜」
 なんなら、当ててやろうか。お前が今悩んでるのも、そいつと関係がある。そうだろ?



 岩泉一という男は、幼い頃から男気ある少年だった。及川が泣いてうずくまるような高さから飛び降りたり、授業のサッカーで大活躍したり、かと思えばクラスで植えた植物の様子を毎日見に行くような、見ていて気持ちがいい子だった。カブトムシやクワガタを取った時の笑顔なんてとても無邪気で可愛らしかったのに、何が間違ってこんな仏頂面の暴力男になってしまったのか。
「おいお前、なんか失礼なこと考えてねーか」
「えっいや、そんなことないよ」
 共にテーブルで夕食をとりながら、及川はぎくりと箸を止めた。今日は及川が食事当番だったため、冷蔵庫の野菜を適当に炒めたものと根菜類の炊き込みご飯、それから鶏肉の照り焼きを作った。すでに2人の皿はほぼ空いていた。
「じゃあ動揺すんなよ」
 してない! してないよ! と慌てて否定しながら、なんでわかっちゃうんだろう、とこそばゆい気持ちになる。たまに、岩泉と一緒にいると自分がひどくわかりやすい人間なのではないかと思ってしまう。すべて顔に出ていて、他人から見ると本音が漏れているのではないかと。だが、黒尾に聞いてみたところ「それは岩ちゃんさんが特別なの。っていうかな、オレはのろけは聞かないっつっただろ」とこともなげに流されてしまった。
「お前な、俺に隠し事するなんて100年早いんだよ」
「隠し事って……」
「お前の考えてることなんざだいたいお見通しなんだよ。わかったらさっさと風呂入れ」
 及川が平らげた野菜炒めの皿を優しくひったくった岩泉は、皿洗いをし始める。及川は首を傾げた。二人の間で、食事当番は片付けまで一貫して担当することに決まっている。及川が作ったのであれば、当然皿洗いも及川の担当のはずだ。
「ねぇ、お皿置いといていいよ? 岩ちゃんこそ風呂行きなよ」
「あー……」
 きゅ、と蛇口をしめて、岩泉は気まずそうに及川を振り返った。
「悪い、明日俺食事当番パス」
「えっ? なんで?」
「合コン誘われた」
「は……」
「先輩からでさ。予定もないし断れなかった」
「あ、そう……」
 すうっと目の前が暗くなった気がした。喉元に様々な言葉がぽこぽこ浮かんできては、吐き出す空気にすべて溶けていってしまって、わかった、と言うのが精一杯だった。
「だからせめて今日はできるだけ家事やっとくから。明日、俺がいないからってサボるなよ。ちゃんと食っとけ」
 その言葉に返事をしたかどうかは覚えていない。
 そうか、と思った。俺たちは、そうやって離れていくのか、と他人事のように岩泉の背中を見つめていた。



「行くなって言えば良くない?」
 黒尾が食後のアイスコーヒーをブラックのままがぶ飲みするのを顔をしかめて見つめながら、及川は頭を抱えた。
 結局、練習のあとのファミレスで、昨日の岩泉とのやり取りを黒尾に全部喋ってしまった。言えるとしたら黒尾しかいなかったとはいえ、軽率だったかもしれない、と後悔した。何しろ、黒尾と岩泉はひょんなことから知り合っていて(及川が仲介したのだが)、結構仲がいい。黒尾から岩泉に伝わってしまうかもしれないのだ。
「行くなって……どんな立場で? 俺が言えることじゃないじゃん」
「おー、わかってんじゃん」
「ちょっとクロちゃん! 俺は真面目に悩んでるんだよ!!」
「わーってるよ。でもさー、お前この先どうすんの。岩泉離れしなさいよ」
「……無理かも」
 及川は固く目をつぶった。瞼の裏に、及川の知らない友人や先輩、女子と楽しげに喋る岩泉が浮かんだ。岩泉が社交的なのは知っている、だから容易に思い浮かぶのだ。
 そしてそれは不思議なことに、及川の胸を軋ませる。
「お前さ、わかってんの?」
 黒尾がストローを噛み潰しながらちらりと及川を見た。
「岩泉はお前を見捨てたりしねーよ。だからお前が離れなきゃあいつも離れられねーんだぞ。それちゃんと考えろ」
「岩ちゃんは……俺を見捨てない」
「お前はそれに漬け込んでんだ。ほんと、タチわりーやつだよ」
 ま、お前性格わりーもんな。そう言ってわざとらしくため息をつくと、そろそろ帰ろーぜ、と黒尾は立ち上がった。なんだかんだと話し込んでいたらしく、もうかなり遅い時刻だった。及川は黒尾を見やる。ん? とすっとぼけたような顔をしたこの男は、もしかしたら及川が岩泉のいない家で過ごす時間を減らそうとして誘ってくれたのかもしれない。自然と口許がゆるむ。
「クロちゃん、ありがとう」
「おう、及川の奢りな」
「ちょっ! いや、うん! いつか奢るから今日は勘弁して!」
「ばーか別にいいよ。俺が誘ったんだし」
「クロちゃんかっこいい!」
「お前に言われるの気色悪いからやめろ」
 この東京でできた友人に感謝して、及川は笑った。


 合コンはかなり盛り上がった。先輩が盛り上げてくれたというのもあるし、相手の女子もいい人ばかりだった。どちらかと言うと普通の飲み会に近く、こういう場には慣れない岩泉の居心地も悪くなかった。
「岩泉も、2次会来るだろ?」
 だから、この流れは当然だろう。できることなら参加したかったけれど、それよりも気がかりなことがあった。
 昨日の、及川の表情を思い出した。
「あ……すみません、俺、今日は帰らなくちゃいけなくて」
 あれは、わかったと言いながらも納得していない顔だった。いや、納得するとか、そういう問題ではないだろう。これまで、岩泉が飲み会に行こうが、別に及川には関係なかったのに。この違いはなんだ。
「門限か?」
「えーっ! 岩泉くん来ないの?」
「残念だねぇ」
「すみません、でも楽しかったです。また誘ってください」
 そうして先輩たちと別れた頃、ちょうど携帯にメールが入った。及川かと思ったが、彼はどちらかというとこういう時は意地を張って連絡などしないタイプだ。思った通り、差出人は黒尾だった。

『子どもじゃないんだし、もう世話すんのやめてあげた方がいいんでないの?』

「…………」
 返信をして、携帯を握りしめた。少し肌寒い秋の夜、羽織ったジャケットを整えて、鞄が揺れないように押さえながら、岩泉は走り出す。



 東京の中でも灯りが少ないとはいえ、宮城に比べれば幾分明るく感じられる夜道を急ぎ、アパートに辿りついた。少し年季の入った壁の塗装がいい味を出しているため、岩泉は気に入っている。階段を上がり、自分の部屋に入らずに直接及川の部屋のドアを開けた。鍵がかかっていないことに驚きながら、何かあったのではないかと不安が過ぎる。その気持ちをよそに、ちゃんと及川は部屋にいた。寝室で横になっていた及川はぽかんと口を開けていた。
「え、ちょ、あの、びっくりするじゃん。いくら俺と岩ちゃんの仲でもインターホンくらい鳴らしてもらわないと、ほら、えーと、お取り込み中だったりするかもしれないし? ……って、岩ちゃん? どうしたの? 帰ってくんの早くない? なんかあった? てか上着くらい脱げば?」
「うるせーよ。お前こそ、何が不安なんだよ」
及川の表情が硬くなった。
「……何の話?」
「とぼけんなよ。俺に嘘つこうとするなよ。お前がなんかよくわかんないけど不満があるのはわかってんだよ。俺にどうしてほしいんだ」
「……なにそれ。岩ちゃんは俺の言うことを全部聞くわけ?」
「聞くわけねーだろアホか。ただ、俺が聞いてやりてぇと思うなら聞いてやるからまず言えって言ってんだ。なんも言わずそんな不安そうな顔されると気になるだろが」
「岩ちゃん」
「黒尾にもなんか喋ったんだろ! てめぇ、俺に言えなくて黒尾には言えんのかよ、くそ」
 岩泉はそこまで一息に言って、ん? と首を傾げる。
「いや、今のナシ。そりゃあるわな。俺に言えないことも。忘れろ」
「岩ちゃん」
 及川は立ち上がって岩泉の前まで進み出る。目は合わなかった。及川がうつむいているからだ。
「違うよ。岩ちゃんだからだよ」
「何言ってんだお前」
「俺がダメな時とか凹んでる時とか、全部、岩ちゃんがなんとかしてくれたから、俺、岩ちゃんのことをすごく頼りにしてて、だからいつの間にか俺、岩ちゃんのことに独り占めできてると思ってたんだ」
「はぁ?」
「けど、岩ちゃんには今は別の友だちがいて、先輩もいて、合コンなんか行って、彼女できちゃったりなんかしたら」
 ふと、及川が顔を上げた。整った顔が泣きそうに歪む。
「俺、岩ちゃんと今みたいにいられなくなるのかなぁ」
「…………」
 岩泉は初めて人の、涙の粒が零れていくのを見た。
 少しだけ笑ってしまう。びっくりしたように及川は岩泉を見つめていた。
「言ってることわけわかんねーけどさ」
「あ、わかんないんだ……」
「俺、そこまで人に言われたことねーわ」
「岩ちゃんにもてないもんねぇ、ちょ、いたた!」
「うるせーな。だからお前にモテてやってんだよ。感謝しろ」
「逆でしょ!!!??」
「モテていーのかよ」
 岩泉が笑うと、及川は音が鳴りそうなくらいに首を振った。
「…………岩ちゃん、せっかく来たし、お茶でも飲んでく?」
「おう。……及川」
「ん? 何? あ、ほうじ茶飲めるっけ?」
「うん。あのな、独り占めさせてやるよ、しょーがねーから」
「よかった〜…………ん? え??」
 岩ちゃん!!!!? と及川が声にならない叫びを上げて岩泉に突撃するのを、抱きしめるようにして諌めながら、岩泉はああ、やっと及川が笑ったな、と思っていた。


 風呂から上がり、水を飲んでから寝室に入る。幼なじみからのメールを見て知らずのうちに微笑み、次のメールを開いた。友人からの返信だった。
『俺がやめたくないだけ』
 ぶっきらぼうに言う彼の姿が容易に想像できて、黒尾はまた微笑んだ。
「お熱いことですねぇ」












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