指先に絶望 | ナノ




「あーあ」
 ごろりと寝転がって、体勢を変える。視界に入る窓の向こうはどんよりと暗く、雨の弾幕が降り注いでいた。先ほど日向が家から出ていく時、「お前今日家にいるだろ、一番でかい傘持っていくからな」などとこちらに呼びかけていた気がする。狛枝はなんと答えたのだったか。半分寝ていたからか思い出せない。
 それから起き出して、テーブルに置かれていた朝食に手をつけた。日向が朝の忙しい時に狛枝の分の食事も用意してくれるのは、もちろん狛枝の食事を欠かさないためだろう。狛枝を、人間にしようとしている。人間として留めておこうとしているのだ。無駄な足掻きだな、と箸で茶碗に残った米粒をつまむのに苦戦しながら思って。それから、それから。
 しばらくはニュース番組と、料理番組を観ていたけれど次第に飽きて、それでリビングにこうして寝っ転がっているのだった。
「はぁ……」
 ため息を吐きながらごろごろと転がる。その度に、左の義手が床とぶつかる音がする。人体と床では発生しえない重い音だ。
「爪、伸びたなぁ」
 切らなきゃ。
 そう思いながら右手を広げて、電気にすかし、指の先よりもはみ出た爪を見やる。薄くて如何にも頼りなさそうで、色も悪い狛枝の爪。そう言えば、改まって爪を切ろうなどと思ったのは久しぶりだった。今まで一体どうしていたのだろう。目覚めた時、甲斐甲斐しく世話をしていた誰かが切ってくれていたのだろうか。わからない。今さら、どうでもいいか。
 ふと、赤色が爪の先にきらめく光景が浮かんだ。あぁ、と思う。彼女だ。かつて我が身と共にあった、江ノ島盾子の左手。爪が長くて、しかもマニキュアが塗られていて。最初は血がこびりついていても綺麗だったけれど、狛枝とともに過ごすうちにどんどん汚れて、ところどころ剥がれ、醜くなっていった。それはそうだ。狛枝は手入れの方法など知らないし、するつもりもなかった。だらりと自分の腕から先についた異物に、不快感と快感を同時に感じながら、体の奥底が求める絶望の残滓を、彼女の腕から受け取っていたのだ。
 気持ち悪い話だなぁ、と過去の自分との乖離に薄ら寒いものを感じる。そこでまた思い立って、パーカーを羽織った。日向が呼びかけてきた声に反せず、玄関には比較的小さい方の傘しか残っていない。狛枝は特に不満もなくそれを手に取って、家を出た。


 家を出て駅前まで歩く。女性向けの雑貨屋が駅ビルの中に入っているはずだ。化粧品や服飾品を主とする店に狛枝はすたすたと入り込んでいく。周りの女性や店員から視線を浴びていることには気がついていたが、それも当然だろうと思いすべて意識から追い出して店を物色した。そうしてきょろきょろしていると、目当てのものを見つけることができた。
「う〜ん……」
 ひとしきり眺めた後、商品を指でつまんだ。会計を済ませて駅を出た後は、コンビニで簡単な昼食を手に入れて、家へ帰る。雨は一向に止まなかったが、コンビニを出ようとした時、狛枝の傘が傘立てに見当たらなかったので、濡れて帰るしかなかった。雨の日はだいたいこうだ。雨の日と、傘には、ろくな思い出がない。傘を盗まれたりなくしたりというのは日常茶飯事で、日向からは「お前カッパにしたらどうだ?」と真顔で言われるほどだ。どうせ狛枝がなくしてくるからと、家にはしっかりとした傘を1本しか置いていない。日向はそれでも今朝のようにわざわざ断りを入れてから丈夫な方の傘を持っていく。おそらく、雨の中を狛枝が外に出ていくことはほとんどないだろうと見越してのことで、それはたいていの場合正しい。今日が例外だった。
 帰宅した狛枝は風邪をひかないうちにと着替えを済ませる。そして、るんるんと、どこか鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌で、買ってきたものを取り出した。リビングのソファに体育座りをして、その膝の上で、右手の甲を上にして広げると、その爪に色を乗せていった。
 鮮やかな、血のような、赤だ。
 わざわざ買ってくるなんてアホらしい。だけれど、なんとなくそんな気分だった。それで、江ノ島盾子とのあれこれについて思いを馳せたいわけではない。希望や絶望なども関係ない。これは、自分勝手で、どうしようもない、わがままだ。


「ただいまー」
 玄関から声がして、日向が疲れきった顔を覗かせる。狛枝はその時リビングのテーブルに買ってきた惣菜やら作った簡単なおかずを並べているところだったため、顔を上げて、おかえり、と微笑む。いつもの日向なら「お腹空いたな」とか「今日は何か変わったことはなかったか?」と尋ねるところだ。それなのに、そこで不自然に間が空いた。見ると、日向の唇がぴたりと動きを止めている。視線は、狛枝の右手に釘付けで、その視線だけで、狛枝は恍惚とした吐息を漏らしてしまいそうになった。
「何やってんだ、お前……」
 ビジネスバッグをその場にドサリと落とし、日向はネクタイも緩めずに狛枝の腕を取る。痛いよと口にすれば、青ざめた顔で日向は狛枝の表情をうかがって、何のつもりだ? と問う。
「なんのって……見ればわかるでしょ?」
 懐かしいよね、なんて零せば、日向は一層険しい顔で狛枝を睨みつけてきた。
「これ、どうすれば落ちるんだ」
「えっ落としちゃうの?」
 今にも殴りつけてきそうな気配に、狛枝は慌ててソファの上に放ってあった除光液シートを指し示す。マニキュアと一緒に買ってきたものだった。日向はその包装を破り捨てて、その小さなシートを取り出し、荒い手つきで狛枝の手指をぐいと拭う。痛い、と声を上げても、日向はちらとこちらを見ただけですぐに視線を落とした。あまりにも容赦のない瞳に、ぞくりと震えてしまう。日向クンってそんな表情もできるんだ。
 爪はあまり血色の良くない元の状態に戻った。つんとした臭いが鼻をついて、思わず爪を鼻に近づける。うわ、これはひどい。至近距離で嗅いだ匂いにくらりとして頭を振ると、日向も顔をしかめてやめとけとだけ、言った。
 そうして、大きな大きなため息を、日向は漏らすのだ。
「お前、こういうことして俺の気を引くのやめろ」
「あれ? バレてるんだ」
 ただただこの日向の反応を楽しみたいがためにやっているのだと、気づかれていたとは思わなかった。こうして江ノ島盾子への、絶望への関心を見せることで、狛枝が未来への道から脱落していくことを日向は危惧しているのだ。
「狛枝」
 名前を呼んで、日向がこちらをまっすぐに見た。
「こんなことしなくても……俺はお前のことを気にしてるし、離れることもない。だから、こんなことやめろ。正直、心臓に悪い」
「…………馬鹿だね、日向クンは」
 言葉を聞いても安心できないからこんなことしてるんじゃないか。
 そう言って目を閉じれば、しばしの躊躇いのあと、やわらかい感触が唇にゆっくり触れた。まるで幼い子どもがテレビで見て知ったキスを実践してみたかのように、その動きはぎこちなくて、なんだか苦しい。そんな純情な彼のキスを受けているのが自分であることが、ひどくうれしいのに、同じくらい切ない。ただただそのやわらかな感触がやさしくやさしく何度も狛枝の唇を食んで、離れていく。もっとしてほしいような、息苦しくてやめてほしいような、変な気持ちにさせられて、どこにもやり場のない感情のまま、日向を睨んだ。
「へたくそ……」
「えっおい、なんで泣くんだよ?!」
「キミが、下手すぎて、呆れて、涙が出てくるほど絶望したんだ」
「はいはい…………そんなに嫌なら、次から抵抗しろよな」
 拗ねたようにつぶやいたその言葉を否定したくて、自らの頭を日向の肩に押しつけて、ぐりぐりと擦りつける。日向はため息を吐きながら狛枝の背に手を回し、身体を引き寄せた。生温い体温を感じる。安心する。もうここ以外じゃ安心できない。
 責任を取ってよ。狛枝の言葉に日向は引きつった顔をして、赤くなった。何か勘違いしてるな、そう思いながら頬をすり寄せて、密着した身体から聞こえる速い鼓動に目を細める。
「そうしたら、責任を取ってくれたキミに、今度こそ縛られてあげるからさ」
 そう言って日向の顔を見ると、こくりと頷く顎と、瞳の向こうに狛枝を手に入れようと蠢く獣が顔を覗かせた気がした。透明がかった涙の膜が、次第に日向の目を潤ませる。
 ちょっと、もう。そんなにボクのことが好きなの。絶望的だね。そんなことしなくたって、日向クンならボクのことをどうだって扱えるのに。まだそんなに言葉が欲しいんだ。
 日向は言葉を欲しがる。狛枝は行動を欲しがる。両者はずっと平行線だ。でも、どちらもそれを満たす方法が唯一残っている。日向もそれを望んでいるだろう。
 だけど、まだだめだ。
 狛枝はするりと日向の手から自分の身を離した。
「狛枝?」
「ボクまだごはん食べてないんだ」
「え、うん。……待っててくれたのか?」
「……今日はたまたまね」
 日向は狛枝が食事をしているのを見ると安心するらしい。もし日向が狛枝の右手に気づけば、このような展開になることはなんとなくわかっていた。その後で食事をすることで、雰囲気を多少和らげることはできるだろう。それを見越して、日向が帰ってきてから食事をしようと思っていた。そこまで読めているのに、何故かいつも、日向の行動は読めない。
「狛枝」
「えっ」
 後ろから抱きすくめられた。急に感じる他人の体温にただただ驚いて、身体が硬直した。
「ちょっ……なに……?」
「いや、なんとなく。待っててくれてありがとな。久しぶりじゃないか? 夕飯一緒に食べるの」
「そうだっけ?」
「あと、マニキュア寄越せ。捨てる」
 日向は低い声で言い捨てて、狛枝から先程買ったばかりのそれを受け取った。今にも日向の手の中で握りつぶされそうな小ぶりな瓶を見送って、
「あーあ」
 昼間と同じように狛枝はため息を吐く。昼間とは違い、困ったように、でもどこか満たされたように、笑っていた。








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