器の哀情 | ナノ

「あっ……」
 低く短い声が聞こえて、狛枝は立ち上がった。声の主は台所に立ちすくんでいた。朝作った味噌汁を温め直していたらしい日向は、左右で色の違う瞳をぱちくりとまたたかせてこちらを見た。何故か右手を所在なさげに胸の前にぶら下げている。
「……どうしたの?」
「えっと…………やけどした」
「はぁ?」
 狛枝は不自然な手の位置はそういうことかと思いながら、素早くシンクの蛇口を捻り、日向の手を引っ張って流水に晒した。どこ、と短く問うと指先、とこれまた短い答え。ざあああぁ、と水がシンクを叩くけたたましい音が響く。日向は痛そうな様子も見せず、狛枝に引っ張られるまま、水に手を晒している。何が起こっているかもわからない幼子のようにぼんやりとした顔をして。
「まだ熱い?」
「ん? うーん……」
 要領を得ない答えを返す日向に、狛枝は呆れて言葉も出ない。
 目覚めてから、ずっとこうだ。
 日向の瞳は左右違う色になって、何か重大な変化があったことを察するのは簡単だった。しかし、狛枝は自分がリタイアした後のコロシアイの行方を知らないし、話を聞くことしかできなかった。それによると、なんと日向はカムクライズルという創始者の名を冠された実験体として希望ヶ峰学園に弄ばれ、人格がすっかり変わってしまったらしい。新世界プログラムから目覚めた後は、奇跡的に日向創としての人格を取り戻したらしいが、カムクライズルの名残がところどころに見受けられるのだ。
 これもその一端なのかもしれない。
「あのさぁ、熱いものに触ったら、火傷するんだよ」
「そんなことわかってる」
「わかってないでしょ。なんでこうなってるの」
「…………」
 自分の指を水から話して観察する彼の表情は、とても静かだ。日向はよくこの表情をするようになった。波紋ひとつない水面のような、何かをじっくりと見定めるような目。指先は皮がぷくりと膨れ上がって、水膨れを作っていた。
 そのへんのビニール袋を拾って氷を準備し、世界一雑に氷嚢を作りながら、
「気をつけなよ。最近のキミはぼうっとしすぎなんだからさ。気づいたら身体がバラバラだったとか、そんな冗談笑えないでしょ」
「……それもそうだな」
 素直に頷いた日向は少し笑って、でも、と言った。
「狛枝が優しいとなんだか拍子抜けするんだよな」
「失礼なこと言わないでよ。キミが危なっかしいからだよ。この間だって屋上から躊躇いなく飛び降りて人を助けに言ったでしょ。一歩間違えば死ぬんだよ。なのにキミはなんにも感じてないような振りして……」
 はっとした。
「……これ、氷。当てておきなよ」
「……ありがとう」
 日向が指先に氷を当てるのを見ながら、狛枝は胸の前で腕を組んだ。
「ねぇ、聞いていい?」
「なんだ?」
「もしかして、痛みを感じないの?」
「…………」
「いくら絶望の残党として世界の復興に全力を捧げる身とはいえ、ちょっと捨て身すぎるなとは思ってたんだよ。でも、君があまりにも平気な顔をしているからさ……屋上から飛び降りた時も、そういう身体的な才能があるんだろうなくらいにしか思わなかったし。今だって」
「……バレたなら、しょうがないな」
 日向は不自然な笑顔で頷いた。
「なんだか、なんにも感じなくなってきてるんだよ。はは、笑っちゃうだろ。まあそうだよな。俺はもう消えた存在で、本来ならカムクライズルなんだから」
「日向クンそれって」
「痛覚だけじゃない。五感は全部薄くなってきてるし、それに感情も……なんだか、自分じゃないみたいに、なんにも、感じなく、なって」
「日向クン!」
 日向が足から崩れ落ちた。その場に座り込んだ日向について、狛枝はしゃがみこむ。
「どうして! どうして黙ってたの?」
「俺のことなんかで、心配かけるわけにはいかないだろ?」
「それで取り返しのつかないことになったら、どうするの!? キミはね、元絶望のみんなの希望なんだよ。キミがみんなを江ノ島盾子から取り返した。絶望から救い出した。頼んでもないのにね!」
「……みんなが絶望に堕ちたのは、俺のせいみたいなもんだぞ」
「そんなの、もういまさらでしょ。みんな、キミのことを大事に思ってるのに……」
 狛枝は日向の背中に手を回した。抱きしめるなんて、やったことがないからわからないけれど、多分これでいいはずだ。無性に、抱きしめたかった。日向を繋ぎ止めるために、気持ちを伝えたかった。
「ボクだって、キミが、そんなふうに苦しいのは、嫌だ……」
「苦しくないんだ。苦しさを感じることすら、できなくなってて……」
 日向はゆっくりと狛枝の背中を抱いて、子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「狛枝。お前にこんなふうに心配されて、俺は多分、うれしいんだ。でも、どのくらいうれしいのか、お前になんて言ったらいいのか、わからないんだ。ごめんな」
「それ……ひどいね……」
 滲む視界がひときわ潤んで、いつの間にか流れていた涙が目から床へと滑り落ちた。泣いたのなんていつぶりだろう。本当は泣くよりも怒りたいし、もっと言いたいことがたくさんあるはずなのに、どうしてそれが叶えられないのだろう。離れていく体温に待って、と声をかけることもできず、彼は何事もなかったかのように立ち上がって、味噌汁を器によそってテーブルへと運ぶ。その指先にある水膨れは先ほどよりも膨れ上がって、醜くなっていた。
 潰してしまえばいい、と思う。立ち上がることもままならないまま膝立ちのままで日向に縋り付く。その手を乱暴に掴むと、爪を立てて水膨れを破った。中から得体の知れない液が漏れる。日向は何も言わない。その顔には痛みも何もなく、狛枝を不思議そうに見やるだけだ。
 どうか痛がって。
 以前のキミなら、こんな直接的な痛みでなくとも、痛がっていたじゃないか。ボクから向けられる得体の知れない感情に怯え、傷つけられ、それでも乗り越えていたじゃないか。
 狛枝は祈りを捧げるように日向の手を押し頂いた。一体誰に何を祈ればいいのかも、わからなかった。

 そんな狛枝をどこか冷たい表情で見下ろしていた日向創は、やがて目を伏せて、それからゆっくりと開いた。片目から、ひとしずくだけ涙がこぼれて宙に落ちると、何事もなかったかのように、狛枝の手をやさしく振りほどいた。








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -