竹谷八左ヱ門という男は、人から好かれる。
遍く人から、好かれるのである。



『竹谷せんぱーい!』



今もジリジリと焼け付くような太陽のもとで1人生き物の世話をして居たかと思えば、少し目を離したスキに彼の周りには可愛らしい後輩たちが群れて居た。



困ったような顔をしたかと思えば、太陽のように眩しい笑顔を浮かべたり、コロコロと表情が変わるし、なんとも感情が読み取りやすい男である。
忍者としてどうなんだと思うが、でもまあそれが彼の魅力だ。


誰にでも優しくて、面倒見が良くて、頼りになる。
そんな彼の周りはいつも笑顔でいっぱいなのだ。
先程わたしは、彼は遍く人に好かれると言ったが、あれは嘘だ。人だけではない。彼は、遍く生物に好かれる。
先日裏裏裏山から彼が連れてきた手負いの狼は、ほかの人には懐かないのに竹谷八左ヱ門だけには心を許しているように見えた。あくまで、見えただけだ。わたしは動物の気持ちなんてわからない。



「竹谷先輩のばか」



彼の周りはいつも賑やかで楽しそうだ。となりにはいつも誰かがいる。それは人だったり、生物だったり様々だけど、右も左も、いつも何かでふさがっている。
だから、小さく呟いたわたしの声なんて、届かない。



「竹谷先輩のばーか」




こっち見ろ。わたしはここに居て、さっきからずっとお前の事を見てるんだぞ。
忍者のくせに、こんなあからさまに向けられた視線に気づかないなんて、そのうちコロっと死んでしまうぞ。



一頻りじゃれついた一年生たちが去って行くと次は三年生の伊賀崎が泣きながら走って来て、なにやら話し込む。話が終われば竹谷八左ヱ門は慌てて虫取り網を引っ掴んで泣いている伊賀崎に二、三言葉をかけた。


そうしてすぐに伊賀崎の涙が引っ込んだのは、竹谷八左ヱ門の不思議な力なのか、それともあれは伊賀崎の嘘泣きだったのか。たぶん、前者であろうが、それでも伊賀崎が気をひくために嘘泣きをしたのではと疑いたくなるわたしの気持ち、わかっていただきたい。


だってせっかく、こうしてわたしが逢いに来たのに。竹谷八左ヱ門がわたしのために割いてくれた時間は、あの一年生たちがじゃれて居た時間よりも、伊賀崎孫兵が独り占めして居た時間よりも、拾われて来た狼が独占した時間よりも断然短い。圧倒的に短い。わたしが彼と交わした言葉といえば、



せんぱい、おはようございます!
お!はるこ、おはよう、いい天気だな!


だけである。時間にして約10秒。厳密に言えば9秒58くらい。ちょうど、あのウサイ○ボルトが100mを駆け抜ける程の時間だ。誰だウサイ○ボルトって。ふざけんな。

ただその10秒でわたしがどれだけ幸せな気持ちになったか、彼は知らない。
おはよう、だけに留まらず、いい天気だな!なんてとびきりの笑顔で言われて仕舞えばわたしの思考は先輩かっこいいでいっぱいになる。
でも残念なことにキラキラと眩しい、穢れを知らない、いや、世界の穢れを浄化する笑顔はわたしだけのものではない。
目の前で弾けた笑顔にジーンと感動している間に、センパーイ!という生物委員会の後輩たちの声に呼ばれて彼は走って行ってしまった。



あーあ、早く戻ってこないかな。
縁側に腰かけてぷらぷらと足を揺らしていると通りかかった尾浜先輩が、あ、はるこまたハチのこと待ってるの?と言ってぱふぱふとわたしの頭を叩いて笑った。



「待ってません。座ってるだけです。」
「追いかければいいのに。」
「待ってませんってば」
「ハチは鈍感だから、ちゃんと言わなきゃ伝わらないよ」
「何をですか?もう尾浜先輩邪魔するならあっち行ってください。」



べーっと舌を突き出して尾浜先輩を追い払ったら、可愛いなぁはるこはなんてトンチンカンな事を言いながらよしよしと私の頭を撫でてどこかへ歩いて行ってしまった。
可愛くない。本当に可愛いのは竹谷八左ヱ門だ。



きっと今日はもう夕方まで竹谷先輩は戻ってこないだろう。青い空に浮かんだ雲がゆっくりと流れていく様を見上げながらため息が漏れる。
わたしのものになればいいのに。
わたしだけのものになればいいのに。
竹谷先輩の笑顔を独り占めしたい。
ふわふわの白い雲が竹谷八左ヱ門の形に見え始めたあたりで思考を停止して、何気なく目の前の草むらに視線を落とす。
そよそよと吹いた風に揺らされた草の中で何かが動いたのが見えて、じっと目を凝らせばそこには伊賀崎孫兵がいつも散歩の途中で流してしまう毒虫が一匹、チョロチョロと動き回って居た。



「竹谷先輩、」


刺されないように慎重につまみあげて、今まさに、必至でこいつを探しているであろう先輩の名前をボソッと呟けば「はるこ!!」と焦ったような声がわたしの名前を呼ぶのが聞こえた。



「あ、先輩…」



聴き間違えるはずがない。大好きな声のした方を振り返れば、泥で汚れた竹谷先輩が、神妙な顔でわたしを見ていた。
となりに立って居た伊賀崎も、同じように泥で汚れているが、竹谷先輩の方がとっても汚れている。
それは、彼が優しい印なのだ。



きゅん、と胸の奥が切なくなるのを感じる。
かっこいいなぁ、竹谷先輩。



伊賀崎がさっと近づいてきて差し出した虫かごに、拾った毒虫をポイと投げて入れれば竹谷先輩は安心したように息を深く吐き出した。



「危ないだろ、素手で触ったら」



ぽん、と大きな手が頭の上に乗って、ちょっと怒ったような声が降ってくる。わたしはただ、先輩に会いたかっただけだ。別に虫なんて捕まえるつもりなかった。この虫が逃げたら、竹谷先輩がここに戻ってくるのが、どんどん遅くなると思ったから、慎重に摘んだのだ。


ぷくっと、不満を表すように頬が自然と膨らむが、人間に興味がないのか、相手がわたしだからどうでもいいのか知らないが伊賀崎はありがとうございました、と言って虫かごを持ってどこかへ走っていった。




「でも、ありがとう、助かったよ」



ぷくーっと膨れたわたしの頬に気づいたのか、竹谷先輩はぐりぐりとわたしの頭を少し乱暴に撫でた。
尾浜先輩のよしよしとは大違いだ。でもこの竹谷先輩の手が私は好きだ。
だから本当はあの狼が先輩だけに懐くのもよくわかる。きっとあいつもこうやってワシワシと撫でられるのが好きなのだ。
ああ、気持ちいい。一生こうして居たい。むしろこれで死にたい。このまま頭がとれて死んでしまっても全然問題ない。


「そう言えば、勘右衛門からはるこが俺のこと探してたって聞いたけど、何かあったのか?」



きゅううん、と甘酸っぱいときめきに酔いしれているとふいに、竹谷先輩の手が離れてそんなことを聞かれた。
尾浜先輩は、いつも余計なことばかりする。



「なんでもないです!」
「そうか?でもそういえば今朝もなんか話したそうにしてたから」



なんか悩みがあるなら相談してくれよ、
と私の視線に合わせて屈んだ竹谷先輩の綺麗な目に、ほっぺが真っ赤なわたしの顔がうつった。
瞳にうつった自分がどんな顔しているか鮮明に見えるくらいの至近距離に息もできないくらい喉の奥がぎゅうっと縮こまった。


「せ、ん、ぱ…ち、ちかい…」
「え?なに?」


やっとの思いで絞り出したわたしの小さな声は、ザザッと風に吹かれた植物たちがかき消したのか竹谷先輩の耳には届かない。こんな至近距離でしゃべっても聞こえないなんて。



「はるこ?大丈夫?体調でも悪いか?」



もう死ぬ。
大きな手がわたしのおでこにピタッとあたって、吸い込む空気が全部竹谷先輩の匂いに染まる。
もう、死ぬ。
もう一度言おう。死ぬ。


「うーん、ちょっと熱いかもなあ、医務室いくか?」



あったかい手はおでこに当てたまま。大きな手に半分遮られた視界の下から覗き込むように、大好きな竹谷先輩の顔が現れた。



「〜〜〜っ」



息の仕方が、わからない。
竹谷先輩ってば、本当は私を殺す気なんじゃないか。とうまく働かない頭でそんなことを考えていたら「みろ、雷蔵。八左ヱ門が可愛い後輩を襲っているぞ」という鉢屋先輩の声が遠くから聞こえてきた。



「ハチ…見損なったよ」



次に聞こえたのは誰の声か、多分不破先輩の声ではなかった。きっと悪ノリしたのは尾浜先輩だろう。でもそれを確認するより先に、ハア?!と叫んだ竹谷先輩は友人達の方に走って行ってしまった。



パッと離れた暖かくて大きな手、吸い込んだ空気はもう竹谷先輩の匂いじゃなくてちょっと残念な気持ちもしながら、バクバクと鋼のように脈打つ心臓に手を当てた。




また行っちゃったな。



忍たまの上級生らしく足音もなく5年生たちが走って行った廊下の先を見つめながらちぇっと足元に転がって居た石を蹴飛ばす。




ほら、竹谷八左ヱ門の周りはいつもああやって人がいるのだ。人がいないときは生き物がいる。
わたしが独り占めできる時間なんて、



「竹谷先輩のばか」
「はるこ、」



本日何度目かになる暴言を呟きながら見上げた木が、ガサガサと不自然に揺れて、先程走って行ってしまったはずの竹谷先輩がにゅっと顔を出す。


「せんぱい、」



葉っぱがいっぱいついた竹谷先輩はやっぱりどんな格好をしていても、どんな表情をしていてもかっこいい。戻ってきてくれた。優しい。



「ほら、医務室いくだろ?」




差し出された右手。目の前で弾けた爽やかさがとどまるところを知らない笑顔。
独り占めできる時間は少ないけれど、竹谷八左ヱ門はこうやってわたし含め、遍く生き物の心を掻っ攫っていくのだ。




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