「もう無理かもしれない」
「何がだ?」


これは最早、くせというかなんというか、今更とめられるようなものではないのだ。


やめようやめようと、ずっと努力はしてきた。


でもやはり、無理なのだろう。


そう思ったら無意識に口に出していたようで、
窓辺で片膝を立てて本を読んでいた立花先輩が私に視線を向けて首をかしげた。

昼下がりの暖かい日差しを浴びて先輩の綺麗な髪の毛がキラキラと輝いて、

ああ、

眩しい。

何て綺麗な人なんだ。


「はるこ?」


透き通る白い肌を艶やかな髪の色が引き立てる。
眩しいなあともう一度心の中で唱えて目を細めれば先輩はまた怪訝な顔をして私をよんだ。
傾げられた首の動きに合わせて一つに結んだ髪がさらりと溢れて、太陽のひかりを浴びてつやつやと輝いた。



やめて、
名前を呼ばないで。

お願いだから。



怪訝な顔で私を見つめる瞳をじっと見つめ返すと胸の奥がきゅんとして苦しい。


先程まで食べていた美味しい羊羹が乗っていたお皿に楊枝が落ちて、ポテ、と情けない音が鳴った。


「おい、まさか」


焦ったような声。
いつも余裕綽々で黒曜石のように綺麗な瞳が困惑して揺れた。


…あ、


「先輩…やっぱり無理です。私、」


我慢しようと思った。


私がそうすることで大好きな立花先輩に迷惑をかけてしまうから。
なんとかしてやめようと思った。
でもやっぱりこれは、やめようと思ってやめられるようなものでも、なおそうと思ってなおせるものでも無いようだ。


焦った顔をした立花先輩は窓から差し込むひかりを一身に浴びて、その輪郭がぼやける。
後光が指しているようでまるで神さまみたいだな、と布切れを片手に立ち上がる様子をぼんやりと見ているとついに、顔の上を暖かい筋が滑った。





「チィッ、はるこ上を向け!!!」
「うっ、やめて先輩近寄らないで!」


私の異変を察知して瞬時にその距離を詰めた先輩から逃げるように体を捻って視界から彼を除く。
やばいこれ以上接近するとやばい。まじやばい。


「何を言ってるんだ、いいから鼻をつまめ!!」


こっちは一生懸命落ち着こうとしてるのに。
先輩がそんな事を言いながら私の鼻をつまんで上を向かせて、布切れを私の鼻の下に押し当てる。


手早い。
何をしていてもカッコイイ。先輩はとてもカッコいい。綺麗なだけじゃなくて、成績も優秀でしかもかっこいいのだ。
普段は冷静沈着な先輩が時々こんな風に焦った顔をすると心臓がばくばくと跳ねる。
立花先輩の冷静沈着を崩せるのは福富しんべヱ・山村喜三太を除けばきっと私しかいない。

ああ、かっこいい。
焦った顔も、動きに合わせてサラサラと揺れる艶やかな髪も。全部全部私の血を湧き立たせる。
もうこんなの、こんなの。
鼻血が止まらない。


「ちがくて…ふぐ、立花先輩が近くに来ると止まらないんです!!!!なにそれ!!!なんでそんなかっこいいんですか馬鹿!!!いや馬鹿じゃないですけど先輩は実技も座学も完璧な天才ですけど…え?なんでそんな完璧なの鼻血とまらないあっスパダリ?これが噂のスパダリなの?」

「訳の分からん事を言うな」

「だって…だって!あっ…遠くに、あの窓の向こうに行ってください姿を隠して気配も消してくださいそうすれば勝手に収まるので!」

「わかってはいるが、はるこは放っておくと血だらけにな「ちょっとその無駄にいい声で私の名前を呼ばないでください毒ですから」


もはや戦場だ。
だらだらとながれる私の鼻血をなんとかしようと立花先輩が世話をやくとそんな姿がかっこよすぎて余計に鼻血がでる。
かといってなにもしないとそんなクールな姿がかっこよすぎて鼻血がとまらない。


私は前からこうなのだ。

先輩を見てるとなんかこう胸の奥がきゅんきゅんしすぎて頭に血がのぼって
鼻血がとまらないのだ。


多分、これはもうどうしようもない。
意識して鼻血を止めるなんて芸当、できるはずもない。無理なのである。


「わかったわかったあれこれ、いったん離れてください先輩いったん落ち着こう、いったん落ち着こう!!!!大丈夫大丈夫大丈夫問題ないです先輩まじでいい匂いするからちょっと離れてあっちで落ち着いてきてくれます?私もこれあれあれするんであれ」
「お前が一番落ち着け」
「え!!!やだ…お前とかいって…なにそれ夫婦みたい…お前とか言わないでください興奮するから。えーん鼻血とまらない死ぬ…あっちいっててください先輩馬鹿でも一人にしないでほしい」
「お前は私にどうして欲しいんだ」
「…なにそれ響きがやらしい」
「落ち着け、はるこ。一度落ち着いて深呼吸するんだ。私はちょっと伊作を呼んでくるから。」
「無理です…一人にしないでください先輩側にいてくださいあ、でも必要以上に近寄らないで!!」
「わかったどこにも行かんからとりあえず落ち着け。」


ぽんぽんと、鼻をつまんでいない方の手が私の背中を優しく叩いて落ち着かせようとしてくる。

く、だからそれ逆効果…

もう何がなんだかわからないかっこいい立花仙蔵バリかっこいいどうしよう凄いかっこいい。


「う、」


なんだかもうどきどきしすぎて全然思考がついていかない私が身動ぎする事もできないでいるとおそらく落ち着いてきたと判断したのだろう、

離すからな

とかいう声とともに私の鼻から先輩の白くて綺麗な手が離れていく。なんだあの白さは。白米より白い。白米より美味しそう。私の主食。


「ほら、おさえろ」


声に従って素早く自分の手でさっきまで先輩が押さえてたところをつまんだ。鉄の味が喉の奥に流れていく。


「ん、」



鼻をつまんでコクコクとうなづいて見せると、確とつまんだのを確認した先輩はゆっくりと私と距離をはかる。
背中でポンポンと跳ねていた体温が名残惜しいが、こうして少しだけ距離があいたためか落ち着いてきたようだ。


「大丈夫か」


少し離れたところから先輩の声が聞こえる。




「う、先輩ごめんなさい…」

「気にするな。もう慣れた。」


顔を見ないように反対側に体を捻ってひたすらに壁の木目を眺める。
でもダメだ。そもそも立花先輩と同じ空間にいるというだけで私は幸せマックスで死にそうなのだ。
忍びの三禁?そんなもの知った事か。
私は先輩が好きなのだ。卒業したら先輩専属のくのいちになるのだ。先輩がどこかの城に雇われるなら私はその城に行って先輩に雇ってもらう。永久就職だ。前にそうやって言ったら凄く顔を引きつらせて私の意見を聞く気はないのだなと言われた。思い切りないと答えてやったら先輩は困ったような顔をしていた。


なんと言われようと私は先輩が好きで、私には先輩しかいないのだ。
わかっている。そんな阿呆な事を言っていられるのは、まだわたしが学生だからだ。だって先輩が卒業してどこかのお城に就職してしまえば、私が先輩の行く先を知る方法なんて一つもない。


先輩は優秀な忍たまだから、それはそれは優秀な忍者になって、自分の消息を私につかませるようなそんなヘマはしない。


このままではいけないのだ。
こんな風に無意味に恋心を抱いたまま、漫然と学生生活を過ごしてしまってはいけないのだ。


「このままじゃダメだってわかってるんですけど、」
「ああ、わかっているならそれで良い。いつか治るさ。」


私のこのままじゃいけないという言葉をどう受け取ったのか、すぐ鼻血が出る事についての言葉だと思ったのだろう、立花先輩はいつか治るさと言って、笑ったような気配がした。


ああ、歯がゆい。
大好きなのに。顔を見て話ができない。歯がゆい。
先輩が卒業して消息をたつ前に私のこの気持ちをどうにかしてもらわなければ。


必要以上に近寄らず、かといって離れても行かないちょうどいい距離感。私が鼻血を出すと先輩は必ずその位置で落ち着くまで黙って私を見ている。
いつもと同じその位置に先輩の気配を感じて目頭が熱くなった。


叶わないのであれば諦めさせてくれたらいいのに。
なぜ優しくするんだ。
非情な心で私をバッサリと切り捨ててくれたらいいのに。


「うっ」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣いているじゃないか」


ゴシゴシと袖で乱暴に目を擦れば、こら、ちゃんとつまんでいろと冷静な立花先輩の声が聞こえた。
もう焦ってない。先輩の心をかき乱せたのはあの鼻血が出た一瞬だけだった。


「先輩、どうして私に優しくするんですか」
「可愛い後輩だからな。放ってはおけん。」
「…でも私の気持ち知ってますよね。優しくすればどうなるかなんて先輩がわからないはずないもん。先輩頭いいんだから。」



思わず恨みがましい声を出せば先輩がくつくつと笑った。
ああ、笑い声までかっこいい。
早くこの魔法を解いてくれ。
全部全部かっこよく見える。私を受け入れる気なんてないくせに、切り捨てる事もしない非道い男なのに。全部かっこいい。



「さぁな。お前に優しくするとどうなるんだ?」



さも楽しいと言ったような声である。
そんな先輩の声に再び胸が高鳴って、慌てて鼻を抑える。せっかく治りかけているのにまた溢れ出したら今度こそ本当に死ぬかもしれない。
死因は立花先輩、それはそれで良い最期かもしれないがまだ死にたくはない。



「…地獄の果てまで付いて行きます」



鼻を押さえたままシャレにならない声のトーンでそう言うと立花先輩がフッと息を漏らした。
あ、笑ってる。
どうしてもその顔が見たくて両の手でしっかりと鼻を固定して後ろを振り返った。


床に正座した私をその斜め後ろで立ったまま見下ろしていた立花先輩はそれは楽しそうに笑っていらっしゃった。え?天使?あっぶねー。天使かと思ったわ。ちゃんと立花先輩だった。


「なるほどな。地獄の果て、いいじゃないか。付いてくれば。」
「えっ」
「お前なら本当についてきそうだな、はるこ」


一頻り笑った立花先輩はそう言って私の横にあぐらをかいて座った。
あっ近いいい匂いする。


「先輩近いです鼻血が私の血が」
「地獄の果てまでついてくるのだろう、だったらその変な癖、さっさと治せ」
「それは一体どういう、」
「うんと甘やかしてやるから、しっかり付いてこいよはるこ」
「ひぇ…」


そんな立花先輩のかっこよすぎる声と表情を見ていたら私の血管が再び限界を迎えた。



【ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです:宮沢賢治『銀河鉄道の夜』】