ルージュに秘めた覚悟



産まれてから今まで、友人や家族からたくさんプレゼントをもらってきた。欲しかった物や綺麗な物や可愛い物など、中にはこんなのいつ使うのって溜息が出る程下らない物もあった。そんな物でも私の事を考えて選んでくれた物だと思えば嬉しいかどうかは別として、不思議と多少なりともありがたいと思えるのだ。
けど、今私の手の中にあるかわいらしい細いリボンで飾られた長方形の小さな箱は、私をどうしようもなく虚しくさせた。こんなに泣きたくなるような贈り物をされたのは人生で初めてだ。


「…何考えてるの」


掌の中の箱を見つめながらぽつりと出た声は本当に自分の物思うほど低く冷たい声だった。

……口紅を贈られた。

もしもこれを贈ってくれたのが女友達や母親なら手放しで喜んで嬉しい、ありがとうと声を弾ませて感謝の言葉を何度も伝えていただろう。その場で唇に塗って似合うかな?なんて訊いていたに違いない。…贈られた相手によって、こんなに異なった感情を抱く物もあるのかと暗く重たくなった頭でぼんやりと思った。

これを私に贈ったのは、高校の時に付き合っていた東堂尽八だ。

モテるとはいえこういう事には細かい彼の事だ、女性に口紅を贈る事の意味くらいわかっているだろう。なのにどうして今更こんな物を。
考えれば考える程掌の中の小さな箱がどんどん重たくなっていくようだった。目の前にいる贈ってきた張本人にふざけないでと叫んで突っ返してしまいたい。




『もう無理だよ』


そう切り出したのは私からだった。
青春真っ盛りの高校生だった頃、私と尽八は恋人同士だった。高校生カップルといえば甘酸っぱくて初々しい響きだけど、私達にはそんな甘酸っぱくなるような出来事も何もなかった。

考えてみれば当たり前のことだった。

当時の彼は全国一位といわれる自転車競技部のレギュラー。当然練習ばかりで私と過ごす時間なんて無いし、周りに交際がバレると厄介だからと付き合っている事も周囲には隠していた。そんなんでデートらしいデートなんてした事がなかった。
更に尽八は当時校内どころか他校にもファンクラブができるほど女の子から人気だった。レースに出れば彼女達のキャーキャーと割れんばかりの黄色い声援を浴びて、得意げに笑ってキザなポーズをしてその子達を喜ばせていた。その光景にもやもやしない訳がない。自分の彼氏が他の女の子から言い寄られる光景を見たいと思う女がどこにいるのか。だけどそれも覚悟の上で私は尽八と一緒になる事を選んだのだから、私に文句を言う権利なんて無かった。それにこうやって自信たっぷりに自分の存在をアピールする尽八の姿はとても輝いていて、素敵だった。
私なんかが側にいてはいけないのかもしれない……何度そう悩んだ事か。
けどそんな女の子たちや尽八の走る姿を観にきた人達に囲まれていても、私の姿を見ると誰も知らないような笑顔を私に見せてくれた。そのうっとりするような笑顔を見るたびに私は彼の側にいていいのだと思わせてくれて、じわじわと湧き上がる不安を消し去ってくれた。

時期に夏が終わって、尽八は自転車部を引退した。けど私達高校3年生に待ち受けているのは進路という大きな壁。受験勉強やらなんやらで、相変わらず尽八と過ごせる時間はあまりなかった。図書室で一緒に勉強なんていかにも青春らしい事に憧れていたけれど、校内で一緒にいるのを見られてしまえばたちまち噂になってしまう。
けど同じ大学へ進学できればきっとそんな我慢もいらなくなる。大学へ行っても自転車を続けるつもりだと言った彼を追いかけたくて、私は彼と同じく東京の明早大学への入学を目指した。尽八も私と同じ大学へ通える事をとても楽しみにしてくれていたし、辛い受験勉強も彼との未来を思えば頑張れた。

…けど、ある日突然尽八は志望校を変えたと言ってきた。

どうしても一緒に走りたいヤツがいるのだと…そう言って。
その瞬間、ガラガラと足元が崩れていくようだった。その時に悟った…私は彼の側にはいてはいけないのだ…と。
そうして気がつけば私はもう無理だと尽八に告げていた。


こうして私たちは恋人同士から、元恋人同士になった。


その切ない経験から数年の月日が流れて、二十歳になって、地元の成人式の会場で私達は数年ぶりに顔を合わせた。
尽八と目が合った瞬間逃げ出そうとした。けど彼は逃げるために走り出そうとした私の腕を掴んで引き止めてきたのだ。そして、久しぶりに話がしたいと…食事に誘われた。今日はこの後忙しいからダメだと断れば、ならば明日はと引き下がる様子を見せない彼に負けて結局OKしてしまった。
そしてその食事の席で、遅めの誕生日プレゼントだと贈られたのがこの口紅だった。


「ねえ、女性に口紅を贈る意味…知ってる?」


たった数十グラム程しかないはずなのに、何倍も重たく感じる口紅の箱を掌の上で転がしながら薄笑い気味に訊ねてみる。


「…このオレが知らないはずないだろう」


目の前にいる元恋人は腕を組みながら得意げに口角を浅く上げた。
ねえ、やめてよ。知っているならどうしてこんな物を。だって私達は高校3年のあの時に終わったじゃないか。こんなの…期待しちゃうじゃないか。
虚しさで胸が抉られるようだった。だって私は……あれからずっと尽八への恋心を消せずにいたのだから。
高校を卒業してから私のことを好きだと言ってくれる男性はほんの数人だったけど存在した。少し気になっていた人からそう言ってくれたこともあった。だけどいつも脳裏に浮かぶのは優しく笑う尽八の姿で……他の誰かと付き合うなんて、出来なかった。


「じゃあ何で。おちょくってんの?」


ああもう、何言ってるんだ私。尽八がそんなことをするような男じゃないってわかってるのに。このどうしようもない感情を紛らわせたくてつい噛みつくように睨み付けてそう言ってしまった。対する尽八は元カノに睨まれているというのにまるで動じていなかった。それどころかーー「そんな訳ないだろう」と真剣な眼差しを私に向けていた。


「すまない…回りくどい事はするべきではなかったな。名前、単刀直入に言うぞ」


切長の菖蒲色の綺麗な目は、相変わらず真剣な眼差しで私を捉えていた。その目に見入ってまるで金縛りにでもあったかのように動けなかった。


「名前…もう一度、オレと付き合ってはくれないか」


尽八の事がまだ好きだ。今日まで未練がましく彼を好きでいて良かったと初めて思えた。だけどその言葉に素直にはい、と返せる程私は純粋な女ではなかった。おかしいな…高校生の頃の私はもっと素直で奥ゆかしくて可愛い女子高生だったはずなのに。


「……マキちゃん、だっけ?尽八が志望校変えるくらいお熱だったライバルくん」
「は?…あ、ああ。そうだが…」
「私より彼の方が大事だったんじゃないの?そういえば高校の時しょっちゅう電話してたよね」


尽八は多分彼女の私よりも、そのマキちゃんっていうライバルと電話をしている方が多かったと思う。男だからと説明はされたけど、私よりもずっと尽八と距離の近い会ったこともないその彼に嫉妬していた。


「…私、ずっと尽八と同じ大学に行けるの、楽しみにしてたの」
「……それはすまなかったと思っているよ」
「偏差値足りなかったから、勉強すごい頑張った」
「ああ…一緒に過ごせなくても、名前が頑張っているのは見ていた」
「…私だけが尽八の事好きみたいで、苦しかった…」
「っ、それは違うぞ!オレも名前の事が好きだった!」


尽八が急に大きな声をあげたから、周りの視線が私たちに集まってくる。尽八は周りの人達に頭を軽く下げて深呼吸をしてからもう一度私を捉えた。


「いや……今でも名前が好きだ」


私を好きだと言ってくれるその声は、高校生の時と変わっていなくて…彼にそう言われる度に胸が温かくなって嬉しくて泣きたくなるこの感じも久しぶりだ。あの頃はあんなに嬉しかったのに、今はそれと同時に苦しくもある。


「……私も、今でも尽八が好き」


溢れそうな涙を見せない為に俯きながら言ったせいで今尽八がどんな顔をしているかはわからない。だけど嬉しそうに息を吐く声は聞こえる。


「だからね、怖いんだよ……また尽八が私以外の物を…私以外の誰かを取るんじゃないかって」
「…名前……」


まだまだ言いたい事はあるのに、涙がぽろぽろと溢れてしまって声が上手く出せそうにない。最悪だ、こんな人の多いレストランで泣いてしまうなんて。絶対あのテーブル修羅場だよ、なんて周りからヒソヒソされているに違いない。


「あの時…お前の気持ちよりも自分の気持ちを優先して傷付けてしまったのは事実だ」
「…うん…」
「…本当に、すまなかったと思っている」
「……今更言われても…」
「だから、オレは全てを投げ出す覚悟だ」
「……え?」
「オレもずっと後悔していた。名前と恋仲だという事を隠して過ごしていた事も、練習を理由にお前と過ごす時間を削っていた事も……大学でも一緒にいたいと思ってくれた気持ちを無下にしてしまった事……」


思わず涙が流れていることも忘れて顔を上げてしまった。私の泣き顔を見たせいか、尽八は一瞬驚いた顔をしていた。
それよりも全部投げ出すって何…?尽八があんなに好きだった自転車も、ライバルと競いたいっていう気持ちも…何もかも、って事…?


「お前にもう一度側にいてもらえるなら……全てを投げ出しても構わないと思っている」
「なに、言ってるの…?」
「もう一度言うぞ、名前。…オレと、もう一度付き合ってはくれないか」


当然あの時のような事はしない、と。ひどく優しい目をして言うからあんなに悲しかったり怒りだったり、いろんな感情がぐるぐると頭を駆け巡っていたのに…今は罪悪感のような物を感じている。


「全部って……自転車もやめるの?」
「ああ。その覚悟だ」
「…マキちゃん、は?まだ連絡とっているんでしょ…?」
「やつは元々連絡不精だからな。オレからの連絡が途絶えてもきっと気にしまい」
「本気なの…?」
「ああ。もちろんだとも。今度こそ名前の事だけを見ていると約束しよう」


尽八の目は真っ直ぐな目だった。
本当に…本気なんだ…。そこまでするくらいに私のことをまだ好きでいてくれているんだ…。
胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。私なんかの為にここまでしてくれる人はきっと生涯かけて探しても他に見つからないだろう。
けど…本当にそれでいいのか…。私が好きな尽八はいつも自信たっぷりでキラキラしたオーラを放っていて、楽しそうに自転車の事を話してくれる、そんな彼だったんじゃないのか。私1人のためだけにその全てを投げ出させてしまっていいのか……、


「…わかった。そこまでしてくれるなら、また尽八の側にいる」
「本当か…!?ああ、ありがとう、名前…全てを捨てて今度こそお前の事だけを考えると約束しよう」
「待って、それは無し」


いや、全て投げ出すなんて、そんなのダメだ。
キラキラした笑顔で自信たっぷりに自転車で山を登って、ライバルとの勝負の事も含めて自転車の楽しさを語ってくれる…そんな自転車が大好きな彼を好きになったんじゃないか。そんな彼から自転車もライバルも取り上げてしまったら、そんなのは私が好きだった東堂尽八ではなくなってしまうもの。彼の輝きを奪うなんて事、私にはできない。していいはずがない。


「…その覚悟だけで、充分だよ。そのままの尽八でいて」
「…いいのか?名前…」
「うん。私が好きになった尽八のままで…いて欲しい」
「…ああ、本当にありがとう、名前…」
「けど今度は尽八と恋人だって事隠したくないし…私のことも、勝手に置いていかないでね?」
「ああ、それはもちろんだ!これからはオレの恋人はこんなにも美しく優しいのだと自慢しよう!それに、もう決してお前から離れないと約束しよう」

自慢されるのはちょっと恥ずかしいけど…でも不思議と嫌な気持ちではなかった。
ありがとう、そう涙を流しながらも笑えば尽八も高校生の時と変わらない…いや、あの頃よりも大人びてより優しくて綺麗な笑顔を見せてくれた。


「好きだ、名前」
「私も…好きだよ、尽八」


こうして私達は今から元恋人同士から恋人同士に関係が変わった。もう甘酸っぱいカップル…とはいかない年齢になってしまったかもしれないけど、高校生の時にはできなかった事、彼とたくさん経験していきたい。


「名前」
「…なに?」
「その口紅は返して欲しい。長い時間をかけて、ゆっくりと少しずつ…な」


尽八の言葉の意味を理解した私の顔は、きっとこの口紅のように真っ赤になっていただろう。






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