赤木しげるがまどろみから覚醒すると、まず目に付いたのは突き抜けるように澄み渡る青空だった。遠くの方には出来損ないの入道雲が浮かんでおり、頬を撫でる風はとても涼しい。まさしく夏の終わりを感じさせる天候だ。

 それはいい。天気が良好なのはとてもよいことだ。が、問題はそこが家屋でなく白昼の下であることだった。

「……どう言うこった」

 最近は物覚えの悪化と共に徘徊癖がついた。さらには無意識に出歩いているから対処のしようがない。だからこそ金光が見張りを用意していたはずなのだが、どうやらその目を掻い潜って外へ出てきてしまったようだった。

 自業自得とは言え、まさか足もとの覚束ない中年一人も捕まえられないとは。赤木は警戒の薄さに呆れを通り越して感嘆した。今頃金光が真っ蒼な顔で寺中探しまわっていることだろう。

 さあどうしようか。特に危機感もなくぼんやりと周囲を見渡し、ふと目に付いた建物の外観に赤木は眦を裂いた。軽石のようにスカスカになった頭のなかに、眼前に広がる風景はひどく鮮明にこびりついている。いや、深い水底から一気に引き上げられたと言った方が正しいかも知れない。日に何度も物事を忘れる赤木にとって、遥か昔の記憶の発掘はかなりの衝撃だった。

「まさか」

 とっさにこぼれた独り言がアスファルトへ落ちる。滅多なことでは動揺しない赤木も、さすがにこの状況には「まさか」としか言いようがなかった。

 少し前まで赤木は寺の一室にいた。が、今赤木が立っているのは東京の地だ。飛行機に乗っても1時間はかかるこの距離を、不自由な体で何の気なしに越えられるわけがない。だとしたらこれは夢裡の出来事か、あるいは――

(道端でトラックにでも撥ねられて死んじまったってか……?)

 もしそうなら最期にと用意した一大イベントが台なしだ。呆気ないにもほどがある。しかしその無常さが自分の人生らしいかとも思えてきて、自然と乾いた笑い声が洩れた。しかし、その笑みはすぐに失せて外気へ溶けた。

 ふと違和を感じて喉へ手をかける。すると、てのひらに触れた皮膚は水を得たように張りを得ていた。馴染んでいた深い皺はひとつもなく、再度発した声は高く澄んでいる。とても五十を過ぎた男の声だとは思えなかった。そうして思い出すように視線を落とせば、いつも身に纏っている虎柄のシャツが紺色のそれへと変化している。見覚えはないように思うのだが、それにしては妙に懐かしくなる色合いだった。

 赤木はしばし呆然とし、喉に触れたまま斜め向かいのアパートをもう一度みた。間違いない。昔みたものと何ら変わりない。人家の石垣の様子すら一切変化がなくて、まるで奪い取られた過去へ今更放り込まれた気分だった。

「何てこった……」

 この状況を作りあげたのが第三者の意志によるものならいい。科学的には不可能だとしても、ときにはそんな運命もあるのだろうと諦めもつく。と言うより、抗いようがないのだから諦めざるを得ない。――けれど、これがもし深層意識の願望によるものなら一大事だった。何十年経っても忘れられず、死期が迫ったとたんにのこのこ現れるなど女々しいにもほどがある。

 平成の時代に追いついてから数年、己の変貌振りを理由に此処を訪れることを放棄していた。ふとした拍子に思いだすことはあっても、もう一度会いたいなどとは露も思わなかった。あの男の性格上、今の赤木しげるを受け入れるのにかなりの時間を要すると分かっていたからだ。視覚的な戸惑いから妙な蟠りを作り、また一から解すだけの気概は老いた赤木にはない。

 だと言うのに、こうも簡単にあの日の名残を与えられてしまうとは。

 当時の赤木なら「余計な真似を」と思ったことだろう。ひょっとすれば腹も立てたかも知れない。しかし五十数年生きた今となっては「人の性だな」と許容することができた。できるほどには嫌でも人の道を垣間見てきた。

「しかし、何も変わってねえな」

 老いた臓腑から酸味を含んだ蜜が滲み出てくる。その懐かしさに赤木は目を細めた。今の今まですっかり忘れていたが、ひとたび振りかえれば記憶の堰を切るのは容易い。そのくらい体に染み付いていたようだった。

「……変わってねえなあ」

 繰りかえし感嘆しながらも、赤木は目先の景色がどこか遠くにあるように錯覚した。最早赤木には縁のない場所になってしまったと、そんな現実を誰かに優しく諭されている気になる。

 悲しくはない。むしろ、距離を感じるがゆえに赤木は前進を決意した。

 此処が夢なのか現実なのかはともかく、この期に乗じて男の顔をみて来よう。二度と会うまいと決めて別れたわけではないし、せっかくされたお膳立てを尻目に引き返すのは野暮と言うものだ。そして何より、一度会わねば然るべき場所へ帰れない確信があった。

 この容姿ならまどろっこしい説明を省くことが出来るから、懸念すべき点は記憶があやふやになっていることだけだ。暫時語らう分にはまったく問題ない。そう考えた直後、現金なことにフッと体が軽くなった気がした。

 そもそも言葉を交わさなくともよいのだ。過去の変事を説いて納得してもらおうとは思わないし、伝え損ねたことを今になって伝える気もまったくない。この歳だからこそ言語化出来る当時の思いは沢山あるが、そのすべてを切り捨てた上で男の顔がみたかった。近くに桜並木があるから散る前にみておくか、と、その程度の気持ちだ。



「おい、あんた」

 さて行こう、と一歩踏みだしたとたん、唐突に背後から声がかかった。何処となく冷めた敵意が背中へ突き刺さる。はてと首を傾けて振りかえると、そこには三十年前の赤木しげるの姿があった。先程己が発した声と異なって聞こえたため、それが自分のものだと振りかえるまで気づかなかったのだ。

 15、6を過ぎた頃から見目のよさは自覚していた。だからと言ってどうするわけでもなかったが、色眼鏡をかけずとも男前だよなあとしみじみ思う。赤木が今日まで生き長らえて来れたのは容姿のよさも理由にあるはずだ。

「聞いているのか」

「……あー、聞いてる聞いてる。悪い、まさかおまえさんが此処にいるとは思わなかったもんでな」

 ま、これでさらに手間が省けるってこった。そう継いで赤木は眼前の青年へ笑いかけた。動揺することなど滅多にないと自負していたが、客観的にみれば微細な変化は端々に現れる。それでも赤の他人には悟られない程度だが、赤木には青年が警戒心を剥きだしにしているのがありありと分かった。

「ともかくちょうどいいところに来てくれた。ひとつ頼みがあるんだ」

「……あんた、一体何者なんだ」

「あ? 馬鹿言うな、んなもんみりゃあ分かるだろうが」

 眼前に立つ男、アカギは訝しむような目で赤木を睨んだ。顔はぴくりとも動かないが感情の起伏は一目で分かる。赤木は堪え切れずにくつくつと喉を鳴らした。瞬く間に鋭利になった気配に肩を竦め、形だけ「悪い」と謝る。

「信じろってえのも無理な話だが、俺ぁ別に怪しいもんじゃねえ」

「…………」

「そうだ。名前はちっとも思いだせねえが、昔サツと組んで俺たちの名前を騙っていたチンピラがいたろ」

「……、平山?」

「そんな名前だったか? まあいい、そいつと比べるまでもねえ。俺は正真正銘赤木しげるだ。同じ赤木しげるのおまえなら見抜けるはずだぜ」

 正面から見据えて言葉を継ぐ。するとアカギは黙ったまま赤木を注視した。探るような無粋さはなく、皮膚の内側を見透かすような視線だ。我ながらいい目だなと自画自賛していると、アカギはややあってふっと息を吐いた。

「……少なくとも、あんたが何か企んでいるようにはみえねえな」

「おお。物分かりがよくて助かるぜ」

「オレも似たようなものだからな」

 締念を滲ませて言うと、アカギは取りだした煙草へライターを翳した。深く吸い込んで紫煙を吐きだし、張っていた気を解いて赤木を眺める。

「……一応あんたの言い分を信用する。が、随分オレと雰囲気が違うな」

「そりゃあもうジジイだからなあ」

「……ジジイ?」

 期待通りの反応に赤木は相好を崩した。この形でジジイならただの吸血鬼か妖怪だ。すぐに種明かしをしてしまうのも惜しい気がして、赤木は訝しむアカギをちょいちょいと手招いた。

「その前に、ちょっと人目につかねえとこへ移動しねえか。こんな道路の真ん中にいたんじゃ目立って仕方ねえ」

「……、ああ」

 一瞬眉をひそめたが、アカギは素直にうなずいた。そうしてアパートのとあるドアをちらと一瞥する。何となくアカギの考えていることが読めてしまい、赤木はやれやれと頭を掻いた。



「……で、あんたは一体どっから此処へ来たんだ」

 人が通れる程度の細道へ入ると、青年は間髪置かずに切りだした。どこ、と言うのは無論場所の話ではない。

「詳しくは覚えてねえんだが、平成なのは間違いねえ」

「……平成?」

「俺はこうみえても五十過ぎのジジイでよ。目を覚ましたら此処に突っ立ってて、おまけに若返っていたのさ」

「……へえ。妙なことがあるもんだ」

「まったくだ。おまえに声を掛けられるまでうっかりおっちんだんじゃねえかと冷や冷やしてたぜ」

「…………」

「ん? どうした?」

「いや。……ともかく、此処に来たってことはあの人に会いに来たんだろ」

「……はあ、やっぱりそう言うことになるのかねえ」

 赤木は他人事のように相槌を打った。いまだに否定的な気持ちもあったが、自分自身に言われたのでは頭を振りにくい。それでも今ひとつ肯定する気にはなれず、「何をムキになっているんだか」とほろ苦い気持ちになった。

「なあ。10分……いや、5分でもいい。俺と変わっちゃくれねえか」

「会ってどうするんだ」

「どうもこうも、顔をみて二言三言話すだけだ。それともこの状況について逐一話せってか?」

「……そんな突拍子もない話信じねえだろうな、カイジさんは」

 カイジさん。

 アカギが何とはなしに発した一言に心臓が引き攣る。懐かしさより若干の痛みが勝っていた。この青年と同じ立場であった頃は、その名前を意識することなどほとんどなかったのに。

 一体いつからこうなってしまったのか。そう自問すると、頭の片隅が「ついさっきだろうよ」と自答した。

「俺はもう歳だ。まどろっこしい話はしたくねえ。そもそもおまえ、身の上について喋ったことねえだろ?」

「まあな」

「妙なことは言わねえよ。精々今夜の晩飯について話すくらいだ」

 これは本音だった。同じ人間相手にどうかと思うが、此処にいる伊藤カイジは過去赤木が親しんできたカイジではない。そんな男を相手に今更話すことは世間話くらいしかなかった。

「……あんたの好きにしたらいい。オレはしばらく此処にいる」

「すまねえな」

「他でもないオレの頼みだからな」

「馬鹿馬鹿しい。思ってもねえことは言うもんじゃねえよ」

「……正直に言うなら、しおらしいオレの顔なんかみたくねえんだよ」

「はっ、生意気な口利きやがって」

「事実だろ」

 オレは将来あんたみたいになるなんて真っ平ごめんだ。淡々と、しかし突き放すようにアカギは言った。

 この短時間で赤木の精神状態を多少はつかんだらしい。予期せぬところで未来の可能性を知る羽目になり、アカギはあからさまに辟易していた。

 しかし、と赤木は思惟した。たとえ未来の様子を垣間見たとしても、アカギは構わずそのときの意思に準じて生きてゆく。現に三十年前の赤木ならそうしたはずだ。だから、この先青年がどう生きようが結局は赤木と似たような結果に行きつくことになる。この道は言わば必然なのだ。無意識にそんな考えが浮かんできて、つくづく年を取ったなと赤木は自嘲した。これではアカギが嫌悪するのも無理はない。

「……フフ。そうだな。そうだろうとも。俺だってびっくりだ」

 しかしなってしまったものは仕方ない。そう続けると、アカギの顔に不快感が浮かんだようにみえた。怖いもの知らずの青年らしい反応だった。

「ともかくちょっくら借りてくるぜ。お礼に今夜の晩飯教えてやっからよ」

 ひらひらと手を振って背を向けると、また突き刺すような視線を感じた。随分と嫌われてしまったものである。

 上手く繕ってはいるものの、先程からどうも調子が狂って仕方ない。鼓動も心なしか速まってきている気がする。最近はすべてを悟ったかのように心が凪いでいたから、このような子供じみた感覚はかなり久しぶりだった。

「……ハハ、ガキみてえだな」

 仮にこの夢から目覚めたとして、傍にいる金光へ話せば「冗談はよせ」と顔を顰められるだろう。あるいは感慨深げな目でみられるかも知れない。裏社会に君臨する神域の男にも、二十を過ぎれば只の人となる一面はあったのだと。いっそ集まる知人たち皆へ語ろうかと思ったが、それはそれで少しもったいない気もした。義理立てするつもりはないものの、あの男にだけみせるべき感情ではないかと思ったのだ。





 高く乾いた音を立てる階段を上り、赤木は目当てのドアの前に立った。外観は安っぽい寂れたアパートだが、存外部屋は広くそれなりに快適だった。

 この向こうにあの男がいる。そう思うと年甲斐もなく体が熱くなった。腹のなかで熱がとぐろを巻き、それが全身へ巡ってゆくような上昇。赤木の血は奇異な現状に酔いしれていた。

 かつてどのように接していたか、その記憶はほとんど頭から抜け落ちている。悪くはなかった居心地だとか、いつもヤニ臭かった部屋の匂いだとか、在るのはそう言う漠然としたものばかりだ。カイジが多弁でなくてよかったと一人ごちつつ、赤木はゆっくりとドアノブへ手をかけた。冷たい金属は身震いするほどてのひらに馴染んだ。

 部屋へ入ると、開け放された戸の奥にカイジの背中がみえた。ガチャリとドアが閉まっても振りかえる素振りはみせない。そうだ、そう言う男だったなと赤木は声をあげずに笑った。カイジは来訪者が赤木であると分かっているときはいつも振りかえらないのだ。

「ん……?」

 壁に肘をついて靴を脱ぐと、視線の先に小さな焦げ跡がみえた。真新しいそれを指先でなぞり、またひとつ記憶を手繰り寄せる。深夜に外から帰ってきたとき、帰宅そうそうカイジにキスをされ、その拍子に足元がふらつき煙草を押し付けてしまった跡だった。

 澄ました顔をしているが、ああみえてやることはきっちりやっているのだ。思い出に浸るより若人たちに惚気られている気分になって、赤木は突如脱力感に襲われた。そして、会話の種がひとつ出来たことをひそかに喜んだ。

「……カイジさん」

 部屋へ入ると、やはり記憶通りの家具の配置に赤木は目を細めた。そして徐に男の名前を呼ぶ。するとカイジは煙草の灰を落としながらゆっくりと赤木を振りかえった。鋭い三白眼に太い眉。ごわついた長髪に筋の通った鼻。視線を滑らせてひとつひとつ確認すると、ふいに気管を締め上げられるような息苦しさに襲われた。体温が溶けだしそうなほど目頭が熱くなる。それでも平静を装える己がなぜか笑えた。

「……よお、来たのか」

「来ちゃいけなかったのか?」

「そんなこと言ってねえだろ」

「フフ」

 懐かしいような応酬に身を浸して斜め向かいへ座る。ふと見下ろした灰皿にはかなりの量の吸殻が溜まっていた。そこでカイジの吸っていた銘柄を思いだし、また少し視界が明るくなる。

「またどっかで毟って来たのか」

「まあな」

「……今日は泊まってくのか?」

「ああ……多分」

「何だよ、多分って」

「泊まって欲しいなら泊まってやる」

「……おまえな。泊まって欲しいならとか何様のつもりだよ」

「他者評価では神域らしい」

「神域の男がこんなボロアパートに寄りつくはずねえだろうが」

「馬鹿だな。何を考えているのか分からねえから神域って言うんだぜ」

「…………」

 会話を弾ませるつもりが逆効果だったのか、カイジは俄に口を噤んでしまった。一言「泊まってけよ」と言えば済むことなのに、あくまで赤木に決定権を握らせるつもりらしい。当時は焦れったさに苛立ちもしたが、さすがに許容できるだけの余裕は育んでいた。

 アカギには悪いが、結果的にあの男の為になるなら構わないだろう。今頃空を見上げているはずの己に詫びて、赤木はうっすらと笑みを浮かべた。

「泊めてもらうつもりではいる。でも泊まってけって言われたいんだ」

 なあカイジさん。そう言って赤木はテーブルへ肘をついた。少し前屈みになって顔を覗く。するとカイジはぎょっとした表情で赤木をみかえした。

「おまえ、途中で何か変なもんでも食ったのか……?」

「クク、ひでえ言い草だな」

「いや……だって、そんなこと言うような奴じゃねえだろ、おまえ」

「そうだったかな」

 記憶を辿ったが思いだせず、赤木は誤魔化すように口端をあげた。確かにアカギの様子では滅多に言わなさそうではある。しかし、機嫌さえよければ言ってしまうのではないかとも思えた。何せ、カイジの前では如何に気を緩めているかが駄々漏れだったからだ。

「……まあ、たまにはこう言うのも悪くねえだろ?」

「っ、……」

 強情だが照れているのが丸分かりなところが微笑ましい。カイジは言葉に詰まると頭を掻き毟って俯いた。そして、搾りとるような声で「……泊まってけよ」と洩らす。赤木は込み上げる笑いを堪えながら首を縦に振った。

「ああ、そうだ。ところで今日の晩飯は何にするんだ?」

「……晩飯? まだ決めてねえけど……何か食いたいもんでもあるのか?」

「ふ、……いや、特にはねえな」

 危うくカイジの経済状況では到底無理な代物を頼むところだった。これではまた臍をまげられてしまう。

「ねえのかよ。じゃあ夕方になってから決めればいいだろ」

「それじゃあこまるんだ」

「はあ? 意味分かんねえ……」

「分からなくとも今の俺には重要なことなんだよ」

「……へえ」

 返事をするのが億劫になってきたのか、カイジは面倒くさそうに相槌を打った。時期に姿を消す男相手に薄情なものである。しかしその鈍感さを責める気持ちは一切なく、むしろ見守るように赤木はカイジの所作を追った。柄ではないと承知の上で、カイジの癖や仕種を目に焼き付けておきたかった。

「……何だよ」

「ん?」

「さっきからじろじろみて」

「ああ……嫌だったか?」

「……。……なあ、何かあったのか? 今日のおまえ本当おかしいぞ」

 怪訝を越えて案じ顔になったカイジに赤木は苦笑した。口調は気をつけているつもりだが、それでも昔通りとまではいかないようだ。そろそろ去らねばアカギに迷惑をかけることになる。

「別に何もねえさ」

「……そうはみえねえけどな」

「どこらへんが変にみえるんだ?」

「え? いや、なんつーか……」

 カイジは低く唸って赤木をじっとみつめた。探るような視線に肩を竦め、床に投げだされたカイジの左手をみる。刹那、生々しい縫合の痕にぞくりと背筋が粟立った。この場での出来事は比較的覚えている方だが、何より記憶の根底に居座っていたのはこの傷だ。

 無意識に伸ばした手をすんでのところで引っ込め、ちらとカイジの左耳を盗み見る。すると、カイジは奪いとるように赤木の手をつかんで舌打ちした。突然のことに声をなくした赤木を睨み、「何しおらしいことしてんだよ」と吐き捨てる。別れ間際にアカギが発した言葉とまったく同じであった。

「……何がどう変か上手く言えねえけど、どっか違うんだよ」

「……、そうか」

 一瞬ひどく動揺したが、触れる皮膚の体温に少しずつ冷静さを取りもどしていった。たかだか五本の指にあらゆる感情を呼び起こされる。胸がささやかに歓喜し、同時にカイジへ触れてしまったことをとても悔やんでいた。

「……なあ、カイジさん」

「あ?」

「仮に今日の俺が変だとして、あんたはそれをどう思う」

「……どう言うことだ?」

「嫌か?」

 次はカイジが動揺する番だった。赤木の言っている意味は分かるが、なぜそんなことを訊くのか分からない。そんな表情を浮かべている。赤木自身なぜ訊いてしまったか分からなかった。

「……別に、多少変になったってアカギはアカギだろ。おまえの、その……根本が変わるはずねえし、そりゃあ違和感はあるけど嫌じゃねえよ」

「そうか……」

「でも、そんなこと訊くなんてますますおかしいぞ」

「フフフ」

 赤木はゆったり微笑んでカイジの手を握りかえした。「もういい」と、耳の奥で誰かが穏やかに囁く。名残惜しくないと言えば嘘になるが、これ以上は居られない。ここらが潮時だった。

「……そうだ。あんたにひとつ訊きたいことがあったんだ」

「ん? 何だよ」

「前に玄関でいきなりキスしてきただろ。帰る直前までそんなそぶりはみせなかったのに、一体どうしたんだ」

 結局訊かずじまいで昭和の世にもどされてしまったから、冥土の土産に訊いておこう。そんな軽い気持ちで切りだすと、カイジはぽかんと口を開けたあとに耳まで真っ赤になった。繋いだ手もじわじわと汗ばんでゆき、つくづく分かりやすい野郎だと感心する。

「べ、別に理由なんてねえよっ」

「嘘を吐くなよ」

「…………」

「いいだろ。教えてよ、カイジさん」

 ねだるようにカイジの手を慰撫すると、男は口をへの字にまげて「笑うなよ」と念を押した。それが逆に笑いを誘うのだとは無論言えるはずもない。

「……、……オレの後ろで鍵を開けるのをじっと待ってるおまえをみたら、何かムラムラした」

「は、」

「っ、何だよ! ムラついちまったもんは仕方ねえだろうが!」

 噛み付くように声を荒げると、カイジは空いた手で顔を覆い隠してしまった。湯気でも噴きだしそうな男を呆然とみつめ、気の抜けた声をあげる。

「……そうか。そうだったのか」

 我にかえった拍子に体が温い液体で満たされてゆく。自分から話を振ったくせに、赤木は内心「勘弁してくれ」とぼやいた。戦慄きそうな唇をわずかに噛み、ゆっくりと腰をあげる。よろめきそうになるのを何とか堪えた。

「……ちょっと、煙草を買ってくる」

「え、……あ、おう」

 このタイミングで行くのかと顔に書いてあるカイジの手を解き、赤木は「すぐもどる」と言葉を継いだ。実際は嘘だと言う事実がひたひたと胸を濡らし、最奥が切なそうに収縮する。その合間にある記憶が呼び起こされた。

「……俺もひとつ言っておく」

「ん?」

「カイジさんにもらった合鍵を使わなかったのは、俺もあんたに鍵を開けて欲しかったからだよ」

「え、」

「じゃあな」

 短く別れを告げたあと、赤木は玄関先の焦げ跡を撫でてから外へでた。清涼感のある空気を吸い込み、肺に蟠った重い空気を吐きだす。すると感傷的になっていた心がわずかに浮いた。



 錆びた階段を降りて通りへもどると、アカギは退屈そうに煙草を蒸していた。十中八九無意味だと思いつつ、悟られないように自然な笑みを作る。

「よお、待たせたな」

「……案外はやかったな」

「おうよ。あ、悪いが今夜の晩飯はまだ決めてねえだとよ」

「…………」

 やはり気づかれたか。我ながら敵にまわすと厄介だと自嘲した。

「……フフ、そう睨むなって。少し怪しまれたがバレちゃいねえよ」

「だといいけどな」

 アカギは寄り掛かっていた体を起こして煙草を踏み潰した。突っ立っている赤木の方へ歩み寄り、短く「満足したか」と問いかける。みれば、アカギから嫌悪の色は消え失せていた。此処に留まっていた数分間で、アカギなりの解釈を見出だしたのかも知れない。

「……もし満足してないと言ったら代わってくれるのか?」

「誰が」

「ハハ。そりゃあそうだ」

 もし肯定されたら殴っているところだ。赤木は青年の肩をぽんぽんと叩いて目尻をさげた。清々しい寂寥感がアカギへの愛情へ変化し、ひいては赤木しげるへの愛情へ変わってゆく。自身を好き嫌いの尺度で測ったことはなかったが、今はひどく愛おしく感じた。

「精々楽しんでおけよ。そうすりゃいずれ今日の俺みたいな考えを理解する日が来るだろうさ。ざまあみろ」

 言葉とは裏腹に優しい目をした赤木をみて、アカギの眉間に疑問の皺が寄る。それでいいと思った。アカギにとってはまだ未知のままでいい。今が未知だからこそ得られるものもある。

「……俺はそろそろ元居た場所へ帰る。おまえもはやく行ってやれよ。あいつはかなり寂しがり屋だ」

 なぜと問われれば返事に窮するが、じきに元の場所へ連れ帰る輩がやってくる。そんな確信があった。

「……なあ」

「ん?」

「あんた、後悔はしてねえんだろ」

「……ああ、もちろんだ」

「そうか。ならいい」

「赤木しげるの人生に後悔なんてもんはねえよ。ただ……」

「ただ?」

「クク、いずれ分かる日が来るさ」

 これは後悔ではない。赤木はいつも自分の決断に真摯に生きてきた。が、それでも胸の片隅に「無念」の二文字がぶらさがっている。それも含めていい人生だったと思ってはいるし、もしもの話をしても埒が明かないのだが。

「達者でな」

「……あんたもな」

「ああ」

 期待以上の返答に相好を崩して道を空ける。ゆっくりとアパートへ歩きだした青年の背中をみて、赤木の心は頭上の干天のように澄み渡っていった。

 さようなら、カイジさん。ぽつねんと呟いて上を向くと、みるみるうちに空が遠ざかるのを感じた。そっと目を閉じて身を委ねたとたん、先程つかまれた指先がちりちりと熱を帯びる。いつまでも引かないその熱が愛しく、赤木はまた少しだけ寂しさを覚えた。





 アカギがドアノブへ手を掛ける寸前、危機迫るような形相でカイジが飛びだしてきた。凄まじい勢いに目を丸くすると、カイジもまたアカギをみて間抜けな声をあげる。肩を落として拍子抜けするカイジの様子をみて、何となく、先程まで此処で為されていた会話の内容が透けてみえた気がした。

「ただいま」

「あ、ああ……おかえり」

「そんなに慌ててどうしたんだ」

「いや、別に……つーか、その」

「はっきりしねえな」

「……、……何か、おまえがこのまま帰って来ないような気がしたんだよ」

「…………」

 アカギは溜息を吐いた。胸中で「面倒をかけやがって」と毒づき、中途半端に飛びだしたカイジを玄関へ押し込む。カイジは窺うようにアカギをみつめ、「おかしいな」と一人ごちた。

「一体何だって言うんだ」

「そ、それはこっちの台詞だっつーの! 普段は言わねえようなことベラベラ喋るし、おまけにすげえ寂しそうな顔で煙草買ってくるとか言うしよ」

「…………」

「そんなことされたらもう来ねえつもりなのかと思うだろ……」

「……そうか」

 自覚はなかったのだろうとアカギは思った。上手くやってのけたと言ったにも関わらず、実際はカイジにさえ感づかれる程度にボロを出していたらしい。初めのうちは男が鬱陶しくて仕方なかったが、別れ間際の表情を思うと腹をたてる気にはなれなかった。

「悪かったな。でも何でもねえよ」

「……それならいいけどよ」

 いまだに釈然としていない様子のカイジから目を逸らすと、つい先日つけた煙草の焦げ跡が目に留まった。翌朝「大家から追いだす口実にされちまう」と喚いていたが、喚くだけ喚いたあとは何の対策も取っていない。

「カイジさん。その焦げ跡塗り潰しちまわなくていいのか」

「え、」

 アカギの言葉にカイジは一瞬硬直した。その露骨な態度に赤木が関連していることを悟る。となれば、この褐色の点は当分消えることはないだろう。アカギは確かめるようにその跡をなぞり、もう此処にはいない男へ向かって「よかったな」と語りかけた。



120926 赤木しげる追悼

title:棘
http://rose543.2.tool.ms/



- ナノ -