学生戦争 | ナノ

「……圭ちゃん?」
 くるんとした瞳がこちらをうかがうように見上げてくる。何、と返すと紫音は口元に指を当て、どうしたの? と問うてくる。思わず唇をきゅっと引き結び、ぐるぐると頭の中で言葉を探した。……思えば馬鹿な事を口にしたものだと思う。だけどこればかりは客観視できなかったのだから仕方ない。
「ハーフアップ」
「え?」
「するって、言ったじゃん」
 いつもは髪に覆われている耳にすうすうと風が当たるのは何ともくすぐったい。髪を束ねた事で頭皮が引っ張られている感覚にも慣れなくて、頭が痛くなりそうだと思った。
 ハーフアップ、と聞いて紫音の表情に不思議そうな色が宿るのが見てとれた。がやがやとした遠い喧騒と、きゃらきゃらとした子どもの笑い声がダイレクトに耳に飛び込んでくる。白軍の学校からも黒軍の学校からも程好く離れているこの公園には、まだ軍というものを理解できていないだろう小さな子どもが数人集まり、笑みを溢れさせながら遊具の周りで駆け回っていた。他軍に所属する自分達が待ち合わせるには良い場所だけど、子どもの他に人気がないからかやけに紫音の存在が際立って感じる。頭部に注がれる視線に、いっその事一思いに両断してくれとさえ思った。
「……ハーフアップ?」
 こてん、と紫音の頭が横に倒れる。疑問を表すその動作より、さらりと流れた黒髪に目を奪われた。……そうだよね、そりゃあ、そんな反応だよね。
 後頭部に手を回すと、ごわごわとした感触がしてはあと溜め息をつく。きっとこのハーフアップ“もどき”は、紫音のようにきれいに纏まってはおらずむしろあちこちが跳ねている事だろう。髪を巻く事はあっても結ぶ事なんて、自宅でぞんざいに束ねる時だけだ。自分は不器用だとある程度理解している筈なのに、どうして軽率にできるだなんて思ったのだろうか。
「圭ちゃんって意外と細かい作業苦手だよね」
「……痛感してるところなんだからほじくり返さないでよ」
「あ、下の髪巻き込んで結んじゃってる。これじゃあゴムを取る時絡んじゃうよ」
「げ、うそ」
 切れ毛なんて冗談じゃないと後頭部を押さえると、紫音はくすくすと笑う。初夏の陽気に当たり細められた双眸が、控えめに輝いていた。
 結び直そうか? と紫音は言う。それに答える間もなく自身の手は彼女の手にひょいと浚われ、近くのベンチへと誘導される。座って、という言葉のままに腰掛けると、紫音はきっと絡まりに絡まっているだろう後頭部のヘアゴムに手を掛けた。そうして少しずつほどいていく感触が髪越しに伝わってきて、思わず両の手のひらを握り締める。うわあ……かっこ悪。かっこいいだなんて、ただの一度でも言われた事がないけど。
「……ほどけそう?」
「うん、大丈夫」
「あー……あのさ」
「うん」
「ごめん、今日はケーキ屋の予定だったのに」
「これ終わってからでも、ケーキは逃げないよ」
「……そんなすぐに終わる?」
「五分もあれば」
「すごっ」
 自宅で絡まった時は、それこそ小一時間かけて格闘しているというのに。それならケーキ屋に行くにしても支障はないか、と胸を撫で下ろす。結局根負けして行く事になったケーキ屋だけど、甘いものは嫌いではない。絆されているなあとは、思うけど。
 丁寧に丁寧に、紫音は絡まった髪をほどいていく。――そこで不意に、黒軍に背を晒し、あまつさえ頭部に触れられているという事実に気付いた。ふ、と後ろの彼女に気付かれないように、小さく笑みを零す。何だ、俺だって無警戒にも程がある。
「それにね、ケーキは別にいいの」
「え?」
 くすり、背後で柔らかく綻ぶ気配がした。だけど髪型を直してもらっている今振り返る事はできず、そっと耳をそばだてた。くすり。やはり先程の気配は気のせいではなかったようで、今度は確実に、笑みが降り注いでくる。
「むしろ、せっかく圭ちゃんとお揃いなのに、ケーキ屋さんに入っちゃったらもったいないかも」
 子どもの笑い声と共に耳に滲み込むその声色は、今日の陽光とよく似た温度を持っていた。するり、と髪に彼女の指が通る。頭皮をくすぐる微かな感触が、何だか面映ゆい。
 勝つ為ならばと伸ばし始めた髪。それを、こんなに優しく触れられるのは初めてかもしれない。
「……何それ、せっかく結んだんだからどこにも行かない方がもったいないよ」
「そう?」
「そう。だから、行こう」
 日常的な光景の中にいる筈なのに、酷く、非現実の中に放り込まれた気がした。だからそう、錯覚だ。胸をくすぐるようなこの心地は。
 きゅっと後頭部に向かって髪が纏められ、同時に頭皮も引っ張られる。その微かな痛みに今は安堵した。
「圭ちゃん、できたよ。お揃い」
「ありがと。……じゃ、行こっか」
 いつも呆れながら引っ張り回されていたというのに、今日だけは早くケーキ屋に辿り着きたかった。日常の中に飛び込めば、呆気なく霧散してしまう筈だから。
 こんな些細な事が恥ずかしい、だなんて。