学生戦争 | ナノ

 ことり、とカップを机の上に置くとふわりと芳醇な香りが私の元まで浮き上がった。黒々としたコーヒーは、彼の髪の色を彷彿とさせる。ブラックばかり飲んでいるからお腹に黒いものが蓄積されているんじゃないかしら、なんて。
 星野先輩は横目でカップを確認したかと思えば、次の瞬間にはその視線はパソコンの液晶画面に向けられている。司令は決して楽ではない仕事だ。きっと先輩には、それが肌に合っているのだろう。裏を返せばそれしか合わないのだけど。
「集中力が持続するのは、平均してどの程度かご存知でしょうか」
「五十分」
 すぐさま飛んできた返答に溜め息をつく気も失せてしまう。カタカタと絶え間なく響くキーボードの音は無機質で、この人にとてもよく似ている。この人の、心臓の音に。これで夜子ちゃんの従兄弟だというのだから、血の繋がりというものは存外希薄なものなのかもしれない。
「星野先輩、先輩がそこに座って既に三時間は経過していますが」
「……あ?」
「休憩を挟まれないのは、とても非効率的かと」
「チッ……うっせえなあ」
 ギィ、と先輩が背もたれに寄り掛かり椅子が悲鳴を上げる。鋭い眼光がそこで漸く私に向き、ターコイズの瞳が蛍光灯の光を受け透き通った。私はそっと、口元に笑みを引く。彼の威嚇なんて今更であり、それに恐怖なんて感じない。
 だけど星野先輩は私の予想に反して、にやりと唇に弧を描いた。……この人の笑顔らしい笑顔なんて、初めて見たんじゃないかしら。物珍しい光景に思わず笑みが引き、まじまじと先輩の顔を眺めてしまう。――お前。形の良い薄い唇が、ゆっくりと音を形成する。
「救護班が司令室に入り浸って、次は何を考えている?」
 ぱちり、瞬きを数回。唇を引き結んだまま、眉根が寄った。……どういう意味だろうか。私がここにいるのは先輩が体調管理を疎かにするせいで、先輩の迫力に屈する事のない人物が私の他にいないからだ。好んで来ている訳ではないというのに。こんな人であれ、倒れれば損害は大きい。
「……ご質問の意味が、よく……」
「はっ、言ってな」
 鼻を鳴らした先輩は再び液晶画面と向き直り、カタカタと忙しなくキーボードを叩いていく。……邪魔だから出ていけという事かしら。手を付けられないまま冷めていくコーヒーを眺め、ふうと内心溜め息。失礼します、と会釈し踵を返した。
「コウモリの行き着く先はどこだろうな」
 ――だけれど、背後に落ちた言葉に思わず心臓が震える。身に覚えがない、とは口が裂けても言えなかった。それにこの人の事だ、既に裏は取ってあるのだろう。
 それでも、それでもだ。黒軍に損害がないのであれば、利益があるのなら。私の心はどこにあるのであれ、泳がせてくれるのだろうという確信はあった。冷えた指先を握り込む事で隠し、ゆっくりと、首だけで振り返る。私の口元にはいつも通り、うっすらと笑みが滲んでいて、それを自覚すると少しだけ気持ちが凪いだ。
「さあ……私には分かりかねます」
「せいぜい撃ち落とされないよう気を付ける事だな」
 私が地に墜ちるとすれば、きっと銃弾となるのは彼女達なのだろう。冗談じゃない、そう思う。だけど口に出すのは馬鹿のする事だ。
「……失礼します」
 押し切るように告げ、足早に室外を目指す。ぱたん、とドアを閉め、そして一度振り向いた。キーボードの音はもう聞こえない。
「あの――ゲス」
 ぎゅうと拳を固く握る。冗談じゃない、誰かに私を背負わすなんて。私は私だけが背負えるのだから。誰の心にも、残らなくて良い。上手く飛び回ってみせる、羽休めをする場所がなくても。
 ふう、と今度こそ溜め息をつく。下ろした瞼の裏にちらつくのは、黒々としたコーヒーだ。……馬鹿みたい。きっとあれは触れられぬまま冷めてしまうし、彼は絶対に私への銃弾にはなり得ないのだろう。確かな予想に小さく笑った。