学生戦争 | ナノ

「あのー……」
 背後からゆったりとした声が掛かったのは、保健室へのドアに手を掛けた時だった。肩越しに振り向くと、艶やかな黒髪が見える。ひょいと視線を落とせば、そこにいたのは後輩である紫音ちゃんだった。ついつい彼女の周囲を見渡すけれど、私と同じ茶色い頭髪は見当たらない。あら、てっきり夜子ちゃんと一緒かと思ったのだけど。紫音ちゃんひとりとは珍しい。
「どうしたの?」
「その、此糸くんを捜してまして」
「此糸くん? ああ……」
 自由気ままな彼の姿を思い浮かべ、思わず苦笑する。あっちへふらふら、こっちへふらふら、猫のように快適な場所を探し当て眠りこける彼が保健室にいないか確かめたいのだろう。夜子ちゃんの姿が見えないのは、別の場所を捜しているからだろうか。相変わらず仲が良い、と微笑みながら保健室のドアを開ける。カラララ、と軽い音がした。
「この中は、どうかしら。確かにベッドはあるけど誰かしら救護班がいるから、忍び込むのは面倒だと思うのだけど」
「……此糸くんこの間、保健室の中には個室があるって話してて」
「あー……隔離室ね。うーん、施錠していないから入ってしまえば此糸くんにとって快適な場所かもね」
 近くにいた救護班員に保健室の使用者数を聞いてみるも、今はゼロ。カーテンが閉ざされているベッドはないし、此糸くんがいるとしたら隔離室しかないだろう。
 こっち、と逡巡する紫音ちゃんを室内へと促し、奥へ奥へと進んでいく。だだっ広い保健室は、まるで病院の一部を切り取ったかのようだ。そうして奥にあるいくつかのドアの前で立ち止まり、紫音ちゃんの方へと向き直った。
「ここ、全部隔離室だから、端から順に確かめてくれる?」
「あ、はいっ」
「私は反対側から確かめるから」
 ノブに手を掛け、ガチャリ、と開いた先はしんとしており人の気配はない。もちろんベッドも無人で、外れか、とドアを閉めた。そして隣の部屋を確かめ、もうひとつ隣へ――と移る前に、詩野さん、と紫音ちゃんから名を呼ばれる。いました、という声に、まさか本当に忍び込んでいたとはと思わず苦笑が溢れた。
「本当? ……ああ、しっかりと眠ってるわね……」
「……すみません」
「気にしないで。ウイルスが流行してる時期なら困るけど、今はがら空きだもの」
 一〇三号室、後からシーツを洗い直さなくちゃなあ。口には出さないけれどそう思い、胸中溜め息をつく。
 さて、問題は此糸くんをどうやって起こすかだけど。生憎私は彼との接点はそう多くない、夜子ちゃんを加えた仲良しトリオだと多少話すくらいだ。ちらりと紫音ちゃんを見下ろすと、私を見上げていた彼女は大丈夫ですよ、と薄く笑む。
「此糸くん、寝付きも寝起きも良いですから」
「そうなの? それなら良かった」
「はい。起きなければ水でも何でも掛けちゃってください」
 想定外に大胆な提案に、思わず頬がひきつる。大人しそうに見えて、なかなかどうしてそうでもないらしい。それはちょっと、と言葉を濁すと、はっとした表情でベッドが濡れたら大変ですよね、と紫音ちゃんはカーディガンに隠れた両手で口元を覆う。……そういう訳ではないのだけど。とりあえず、紫音ちゃんに任せるのはやめておいた方が良いらしい。
 私が起こすね、と伺いを立てると、お願いしますと紫音ちゃんは頭を下げる。さらりと癖のない黒髪が彼女の肩から滑り落ちるのを見届け、ベッドで惰眠を貪る此糸くんへと近付いた。此糸くん。声を掛けるも、返事はない。
「此糸くん、タイムアウトよ、起きて」
「……ううん……?」
「あ、起きた? ほら、枕まで持ち込んで。健康な人はお断りよ」
 ゆさゆさと彼の肩を揺らし、唸る此糸くんに声を張る。それでもなかなか起きようとしない様子に思わず眉尻を下げると、すっと紫音ちゃんが私の隣に並んだ。そうして此糸くんへと手を伸ばし――驚くべき速さで枕を引き抜く。とさっと支えを失った頭がシーツの海に沈んだ。
「いっ……てえ!」
「此糸くん、夜子ちゃんがご飯食べに行こうって」
「はあ? んー……分かった、起きる」
 のそのそと起き上がった彼は私の顔を見るなりやばいといった表情を浮かべるけれど、ぴんと逆立った前髪が何だか間抜けだ。くすくすと笑いながら次から一声掛けてねと言えば、きょとんとした顔で此糸くんは気の抜けた返事をした。
「これから夜子ちゃんとご飯なの?」
「俺も今聞いたとこだけど、そうみたい」
「あ、詩野さんもご一緒にどうですか?」
「うーん……お邪魔すると悪いし、遠慮するわ。ありがとう」
 そう言って笑えば、それぞれから夜子ちゃんが残念がる、夜子がうるさい、だなんて言葉が出てきて、ふふ、と声がこぼれる。また誘ってちょうだいね? と付け足し、ふたりを部屋の外へと促す。保健室の出入口まで見送り、笑みを向けた。
「じゃあまたね。夜子ちゃんにもよろしく」
「はい、お邪魔しました」
「じゃあねー」
 頭を下げる紫音ちゃんに、ひらひらと手を振る此糸くん。更に夜子ちゃんが加わるのだから、本当に個性的な三人組だ。その仲の良さをひっそりと羨みながら、ドアを閉める。
 さて、私はシーツの洗濯をしなければ。