学生戦争 | ナノ

「透くん」
 ころんと、弾むような声が廊下を駆けてきて振り返る。見慣れた赤毛を目で捉え、ひいちゃん、と呼び掛けた口は緋野さんと言い直そうか、いつも少しばかり逡巡する。それを笑みで覆い隠して、はい、とただ彼女を見据えれば、彼女は大きな緑眼をぱちりと一度瞬かせて笑みを溢した。
 ふわり、彼女が近付くことによって甘い芳香が鼻まで届く。ふとその香りをつい先日、どこかで嗅いだ気がしたけれど思い出せずに疑問を投げ捨てた。今は栓なきことだ。
「そっちももう、授業終わったの?」
「はい、つい先程」
「そうなんだあ」
 諜報と、――暗殺。それぞれ違う部隊に属する自分達が共有する時間は存外に短く、校舎内で彼女をまっすぐに見据えたのは久し振りであるような気がした。昔はもっと、多くを共にしていたのだけど……しかし今はそれで良かったのだと思う。少なくとも、彼女にとっては。
 自然と彼女の頭へと伸びる手を、警戒する素振りもなく受け入れるひいちゃん。幼い頃からずっと見てきた、ただひとりの女の子。例えばこれが原田さんであったなら、急所を晒すことを警戒してさらりといなされるだろう。さらり、とは流れない、少し指に髪が絡まる感触。癖毛をとかすように指を動かせば、彼女は猫のように目を細めた。その無防備さが時折空恐ろしくなるだなんて、きっと彼女は考えもしていないのだろう。
「じゃあ、ねえ?」
 甘えるような少し鼻に掛かった声で俺を見上げる彼女に、あ、これは、と感付く。きっと何か、お願いがあるのだろう。今は指導の成果でもあるのだろうが、天性の感覚で男の弱いところを突いてくる彼女は、男という生き物はよく知っているというのに――なかなかどうして俺という個人を分かっていない。
 その隣に、並びたいと思う。彼女のお願いのひとつひとつを拾い上げ、叶えてあげたいと願っている。……でもどうしたって、一番の欲望である、笑っていてほしい、を考えると頷く訳にはいかなくなるのだ。
「わたしと買い物、行かない?」
「……すみません、今日は、少し」
 眉尻を下げてそう告げれば、彼女はほんのりふてくされたように唇を尖らせる。先約が、と付け足せばそれだけで察したのだろう、彼女さんには勝てないや、と溜め息を吐いた。
 別段、大したことのない先約だ。待ち合わせをして、学校を出て、そう、最近は随分と寒くなってきたから服を見て回って。きっとやることはどちらと行こうが同じで、でも、きっと目の前の彼女と行く方が何倍も俺にとっては価値があって。それでも名ばかりの恋人を優先するのは、周りの目を考えてのことでもあるし、何よりひいちゃん自身のためだと思っているからだ。
 そろそろ、俺離れをした方が良いよ。
 俺は必ず、彼女を駄目にする。そう確信していてもなかなかその一言が放てないのは、一重に俺の弱虫な心のせいだ。
 開け放たれていた窓から、木枯らしが吹く。撫でていた彼女の髪が巻き上がり、白い首筋が晒された。
「ひゃ、さ……っむ、」
「ひいちゃん」
 彼女が酷く薄着であるのは、ポリシーであるおしゃれからだろうか。常に曲げないその芯は好ましいけれど、俺は思わず自分の首に巻いていた黒いマフラーを外してその細い首に掛けた。ひやりと、外気に触れた首が粟立つ。くるりとマフラーを巻いてしまえば、彼女は驚いた顔をして俺を見上げていた。
「それは、あまりにも薄着です。……不格好かもしれませんが、これ、着けていて」
 良いですか? と念を押せばこくりと頷いた彼女に満足し、ふと腕時計を確認する。……いけない。気付けば約束していた時間を少し回っていて、思わず出掛けた舌打ちを耐えて唇に弧を描いた。
「じゃあ、そろそろ行かないと。……それ、返すのはいつでも良いのでない冷やさないようにして下さいね」
「……はあい。彼女さんによろしくね、透くん」
 その言葉には笑みだけを返し、くるりと彼女に背を向ける。ふわりと、甘い香りだけが俺の後を追ってきた。
 ああ、とそこで思い出す。口元を手で覆い、歪むそれを隠して笑った。なるほど、よく知った香水だ。きっと俺はこれから会う恋人からも、その香りを嗅ぐことになるのだろう。合点がいって、――何とも、情けない。
「また、別れねえとな」
 よく距離を取って呟いた言葉は、きっと、たったひとりの女の子の耳には入らない。俺の五感はどうしたって彼女を求めていて、それに気付いては切り捨てて。追いつ追われつ、でも鬼事に参加しているのは俺ばかりだ。
 どんな方法だって良い、俺はきっと彼女から逃げ切らなくてはならない。それが唯一、ひいちゃんを笑顔のままにする術だと信じて。