学生戦争 | ナノ

 かたん、と窓が鳴る。日誌を書いていた手を止めて、すいと音がした方へと目を向けた。かさかさと葉が鳴っている。赤く染まる空が、遠く遠くに伸びていた。それももう、少しもしない内に夜の口の中にぱくりと収まってしまいそうで、でも、ただそれだけで。普段と何ら変わりのない四角い景色に、私はふと眉根を寄せた。……風は吹いているけれど、窓を揺らす程に強いものだとは思えないのだけど。
 医務室は、その場所の特性から外部からの侵入は難しい造りとなっている。道順さえ知っていれば辿り着くのはそう困難はしないだろうけれど、それでも、ここの庭は学校生活を送る上で通る筈のない場所なのだ。校舎内からの道順は分かっても、校舎外から医務室に来れる生徒はそう多くはないだろう。
「……先生なら、奥におりますが。お呼び致しましょうか?」
 はったりだ。
 単純に、怪我をした生徒なら良い。迎え入れて、治療を施すだけだ。――でも、もしもそうでないのなら。私以外誰もこの場にいない事を漏らすのは得策ではないだろう。自分は戦闘員としての才がないことは、誰よりもよく知っていた。
 持っていたペンを置き、じいと窓へと目を凝らす。……やはり風か、建物の軋みか何かで私の思い違いだったのだろうか。そう考え始める程に時間が過ぎた。影は長く伸びていき、室内は薄暗く沈んでいく。その分夕日が照らす外はよく見えて、窓の下、まるでそこから生えてくるように伸びる華奢な指が見えた。その爪は、鮮やかな色に染められている。
「緋野さん?」
 無意識に言葉が転がり落ちる。迂闊なことではあったけど、その一片で判別ができてしまう程に、何度も私へと向けられた指だった。
 席を立つと、キャスターのついたそれはころころと転がっていく。それにも構わずに、私は窓へと近寄り、そっと、その下を覗き込んだ。そこに広がる赤は、夕日よりも鮮烈な色彩をしていたと思う。
「……緋野さん、」
 たっぷりとした彼女の赤毛は所々、無惨にも切られている。私は堪らず窓の鍵を外し、大きく開け放って彼女へと呼び掛けた。ゆっくりと頭が動き、窓のすぐ下に寄りかかりしゃがみこんでいた彼女は顎を反らすようにして私を見上げる。大きな垂れ目が細められ、詩野ちゃんだあ、と小さな唇が呟いた。
「貴女、どうしたの?」
「ふふ……それ、詩野ちゃんにしてはつまんない質問だね」
 緋野朝日という人間は、私とはあまりにも対極に位置していると感じていた。丁寧に伸ばされた赤毛はゆったりと波打っていて、可愛らしいその容姿は化粧により更に輝きを得ている。甘い声で周りを操り、最低限の動きで最大限の利益を得る。女という性が彼女の武器であった、故に彼女は美しかった。
 それだというのに、今の彼女はどうだろう。
 髪はざんばら、化粧も汗と血にまみれぼろぼろだ。制服も同様で、この学校のものではない、白を基調としたブレザーは白い部分の方が少ないくらいだ。私は目を細め、彼女を見下ろす。平たい腹部から決して少なくはない量の血が流れ落ちている。銃の類いだろうか。弾が内部に残っているのであれば、私ひとりの処置ではどうしようもならない。
「ばか、しちゃったぁ」
 へらりと力の抜けたような笑みをこぼし、彼女は目を瞑った。私が向けた問いに対しての、答えなのだろう。――潜入捜査、ねえ。そこで初めて、彼女の所属する部隊すら知らなかったことに気付いた。そんなことを気にすることすらない程に、浅い仲だった。
 私と彼女は、友達ではない。
「……そう。ごめんなさいね、さっきの、嘘なの。先生は今不在で」
「い、よ。……しってた」
 ぜえ、と荒い呼吸を繰り返す。その様子を見下ろす私は、端から見れば薄情なのだろうか。でも私は彼女が助からないことを悟っていて、彼女もまた、助かる気はなかった。
 夕闇が彼女を覆っていく。それから逃れるように私へと手を伸ばす彼女の指は、よくよく見ればマニキュアが剥げている部分がある。詩野ちゃん。彼女は笑う。
「ころして」
 彼女に似合わない、飾り立てられていない言葉はまっすぐに私へと向けられる。私と彼女は、対極に位置している。それでもどうしてか、私は彼女をよく知っていて、彼女も私という人間を理解していた。
「大丈夫、綺麗にするわ」
 その時の彼女の顔を、私は忘れることがないだろう。うっすらと目を開けた彼女はまるでとろけるように微笑むのだ。赤い光が、彼女の緑色の瞳に溶け込み宝石のような輝きを見せる。今の彼女が一番美しいと感じたけれど、私がそれを口にすることはなかった。
 彼女が望むのは、美しいままでの記憶だろう。あれ程までに外観に気を遣っていたのだから、今の姿は彼女のプライドに反するはずだ。
「……大丈夫」
 伸ばされた手に左手を添え、右手で太股に隠したナイフを手に取る。すらりと鞘から抜くと、夕日を浴びた刀身は鈍く光った。それをそのまま、窓から身を乗り出して彼女の首筋に当てる。
「…………あ、りが」
 そうして、手前に引き裂いた。
 血を撒き散らすその方法は、美しい死に様ではなかった。ここは医務室なのだから探せば眠るように死ねた薬もあっただろうけど、その方法を選ばなかったのは、彼女を手に掛けた感触がこの手に残らないからだろう。
 事切れた彼女を見下ろし、溜め息をつく。もう、夕日はほとんどの姿を隠していた。もうじき、夜が来る。
「綺麗に、しないと」
 硬直してしまえば、着替えさえできなくなる。それは彼女の望むところではないだろう。
 綺麗に、美しく飾り立てて。そうして彼女は眠るのだろう。私以外の記憶の中で、その美しさを保ったまま。
「……嫌な役目ね」
 それでもそれができるのは、私しかいないと彼女は知っていた。