学生戦争 | ナノ

 ぽたりと頬を濡らす感触に、圭汰はげ、と切り揃えられた前髪に隠された眉を歪める。降ってきたな、と呟いた言葉に呼応するようにぽたりぽたり、次々と降り注ぐ雨粒に溜め息をついて片手に持っていた傘の留め具を外した。ワンタッチで開く青い傘を頭上に翳してしまえば、僅かだと思われた雨粒は存外絶え間なく傘を叩いていく。軽やかな音を立てながら濡れていくそれは深い青色をしていて、まるで水面を見上げているようだと圭汰は考えた。
 思い出したように歩みを再開する彼の視界には、既に目的地である公園が入っている。滑り台にブランコ、それから圭汰の胸程しか高さのない小さな迷路。一季節前には見事な藤棚が見られたのだろう休憩所もある。そんなこぢんまりとした公園をぐるりと見渡し、圭汰は左手に着けていた腕時計に目をやる。十六時三十三分。夏至を少し過ぎたばかりのこの季節、辺りは日が落ちるには些か早すぎるのだがこんな天気だ、どことなく暗く沈んでいる。普段であれば子どもの笑い声が響くこの場所は、ただただ雨粒が落ちては跳ねていた。
「早すぎたかな……」
 湿気を含み僅かにうねる髪を気にしながら、公園の中へと踏み入る。ブランコはすっかり濡れていたし、休憩所も藤の枯れたこの季節、雨を遮るものは何もなく座れそうにもない。仕方なく圭汰はあてもなく、ぶらぶらと公園の中を歩いていく。すると奥の方に群生する紫陽花に気付き、ふとそちらへと爪先を向けた。青紫のその花は、圭汰の持つ傘ととても似ていた。
 ブランコの横をすり抜け、次に控える迷路の外側をぐるりと回って――そうして更に奥へと行こうとした彼の金色の右目が、不意に違和感を捉えた。あれ、と何の気なしにそちらへと目を向ける。傘が、引っ掛かっている。迷路の壁は緑色に塗られていて、その傘は淡いミントグリーンをしていた。その色合いと視界の悪さも合間ってすぐには気付かなかったのだが、傘は開かれたまま、迷路の壁と壁の間に意図的に引っ掛けられているようだった。まるで、その下にあるものを濡らさないように。圭汰は考えるように顎に指先を添え、それから漏れた笑みを隠すべくその手で口元を覆った。こんなご時世だ、警戒すべき状況なのだろうが、彼はそのミントグリーンの傘に見覚えがあったのだ。よくよく見れば白い線でストライプ模様が引かれており、間違いないと目を細める。くつり、喉が鳴った。
「……もういーかい?」
 ぴちゃん、圭汰の靴先が水溜まりを跳ねる。そうして不自然な傘の横を通り過ぎながら、極力、紫陽花だけを見据えながらそう口ずさんだ。
「まーだだよ」
 ふっ、と噴き出すように笑ってしまった声は、傘の下に潜む人物には届かなかっただろう。何をしてるんだか、とは思ったものの、しかしまるで幼い子どものような遣り取りに応じた彼の人に唇が弛んでいく。じわじわと水が染み込むように胸の内に広がる感情は、きっと淡い桃色をしていた。
 木曜日。圭汰はこのこぢんまりとした公園で、待ち合わせをしている。とはいえきっちり毎週という訳にはいかない。学校の都合で行けなかったり、逆に相手が来れなかったりすることは然程珍しくはない。電子機器での連絡は、なるべく避けたかった。だから木曜日の放課後はこの公園に足を運び、三十分ほど暇を潰していくのが彼の習慣となっていた。
「もういーかい?」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。すぐには返事はなかった。
 くるくると傘を回すと、水滴が弧を描いて飛び散っていく。小さな海の下で、圭汰は紫陽花のすぐ近くまで泳いでいく。そしてまあるい花の集合体を覗き込んでみれば、その花は青紫ばかりではなく、赤く色が移り変わっているものもあると気付いた。雨に染められているようだなあ、と思い、彼は苦笑した。それなら自身にとっての雨は、間違いなく彼女なのだろうと。
 もういーよ。存外すぐ近くで聞こえた声に振り返ると、視界を覆ったのはミントグリーンだった。それから肩に微かに触れた熱と、踵を返した勢いで浮き上がった黒髪と。咄嗟に手を伸ばして目の前の華奢な腕を掴めば、くるりと丸められた瞳と視線がかち合った。青と金。圭汰の持つ色彩を鏡写しにしたかのような彼女は、たっぷりとした黒髪を震わせて笑んだ。
「駄目だよ圭ちゃん、そこはストップって言わないと」
「……そこまで続くんだ」
「始めたのは圭ちゃんでしょう?」
 それは確かにそうであったが、そもそもかくれんぼのようなことを最初にしていたのは紫音の方だ。そうは思ったが、じゃあ降参、と苦笑して圭汰は彼女の腕を解放した。かくれんぼであれだるまさんが転んだであれ、最終的に負けるのは自身に違いないと思うのは、胸に芽吹く春のせいだろうか。
 紫音は突如始まりあっという間に終わった遊びにもう関心がないのか、紫陽花だ、と圭汰の背後へと目を向ける。ああ、と圭汰は振り返った。もうそんな季節なんだね、と呟く彼女の言葉に内心同意して、梅雨だからね、と返した。
「この間まで、そこで藤が咲いていた気がするのに」
「それ、この間は桜がって言ってたよ」
「そうだっけ? でも、本当にあっという間だよ」
 ふふ、と笑みを漏らす紫音に、圭汰は目を細める。時間がいくらあっても足りないとは常々考えているが、紫音もそんな気持ちでいるのなら喜ばしいと思った。かたつむりだ、と紫音は地面を這うそれをひょいと拾い上げて、紫陽花の葉に乗せる。その様子を眺めながら圭汰は口を開いた。
「それで、どうしたの? 隠れたりなんかしてさ」
 おしとやかに見えて、彼女は時折突拍子もないことを仕出かす。そんな内面を知っていたから別段驚きはしなかったものの、今までにないことではあったから気になっていたことだった。圭汰のそんな問いに、紫音はぱちりと目を瞬かせ、それから睫毛を伏せる。その影が彼女の瞳を僅かに色濃くし、そこに浮かぶ感情を隠してしまうように感じられた。
「別にね、大したことないんだけど。雨だったから」
「ふうん?」
 紫音は、婉曲的な表現を使うことは少ない。しかし時に、難解だ。よく分からないままに頷いた圭汰の双眸を、鏡写しのそれが見上げる。彼女の金色の左目が、いたずらに光った。
「視界は悪いし、音も掻き消されちゃう。狙撃には善し悪し両極端だけど、圭ちゃんとこうして会うには、うまく隠れられて良いなって」
 ――ああ全く、これだから。
 思わずへの字に曲がった圭汰の唇が意味するところを察したように、紫音はくすくすと笑う。その降り注ぐ笑みの海の中で、えら呼吸を覚えた圭汰はもう岸には上がれそうになかった。
「…………じゃあ、もう、ずっと雨で良いよ」
 吐き出した強がりは、雨粒と共に落下して、誰の耳に入ることもなくぴちゃんと跳ねた。