学生戦争 | ナノ

 カチャン、と微かにカップとソーサーの擦れる音がする。どうぞ、と柔らかな耳触りの声を捉えながら、紅音は手元の書類から目を離すこともなく手を伸ばした。いつもと寸分違わぬ場所に置かれたコーヒーカップは難なく彼の手により持ち上げられ、すっと口元まで運ばれる。慣れた香り、慣れた味に小さく鼻から息を吐き出し、紅音はふと視線を上げた。
 ゆらゆらと、窓から入り込む日射しは既に黄色みを帯びている。その向こうの木に携わる葉は色付き始めたその身を震わせており、そういえば気温が下がったかもしれないなと紅音は熱いコーヒーに視線を落とす。ことり、音がする。そちらを見れば、いつの間にか見慣れてしまった女生徒が散乱していた本を棚に収めるところであった。茶汲みとしてこの司令室に馴染んだその姿だったが、いつの頃より片付けにまで着手し始めたのか紅音は知らないし、また興味もないことだ。しかし元よりあれがそういう質の女であることは知っていたので、特に何も思うこともなく再びコーヒーカップを傾けた。
 穏やかな午後の日射しを受け、女生徒の茶色い髪は薄く透き通る。それに対し紅音の髪はどこまでも黒々としていて、それがふたりという存在を隔絶しているようであった。こくり、と紅音はコーヒーを飲み込む。女生徒は放り出されていた資料の紙束を整理し始めていた。
 何かが違う、と紅音は睡眠の足りていない思考の片隅で考える。あの女は、あんなにも白々としていただろうか。気にするだけつまらぬことであるは思いはしたが、じっと彼の視線は女生徒だけを捕らえる。彼女が動く度に、黒いセーラー服のスカートがひらりひらりと揺れていた。黒を纏う彼女に、しかしそれでも白を思わせる原因は何なのか。考えに浸る紅音の視線は、不意に女生徒の首筋へと固定された。ーー白い。
「……ああ、」
 そこで漸く合点のいった紅音は、思わずといった調子でそう呟く。それを拾い上げたのだろう、女生徒の視線はちらと彼の方へと向けられたが、何を言う訳でもなく再び手元へと落とされた。かさり、紙の擦れる音だけがその場を支配する。
 なるほど、と紅音は口の中で囁く。同時に、何とも下らねえと眉間に寄せられたしわを増やした。分かってしまえば何てことはない、全ては外気に晒されたその首筋が原因だったのだ。正確には、その首筋を覆わぬ髪が。常であれば肩甲骨を覆う程に長く、そして垂らされていた女生徒の髪は、今は肩にも付かぬ程になっている。切ったのか、とただそれだけを紅音は思った。日に焼けぬ白い首筋は、無防備に紅音に晒されている。それをじいと眺め、初めてその細さに気付いた彼はしかし何を言う訳でもなくコーヒーを口に含んだ。
「あの、」
 ふと、女生徒が口を開く。その視線は手元の紙束に向けられたままであり、紅音の視線もまた女生徒の首筋に向けられたままだ。
「……何でしょうか」
「あ?」
 端的過ぎる問いに、紅音はそのターコイズの瞳を細める。何とは、何だ。むしろこっちが何なんだと聞きたいと思ったが、それを見透かしたように女生徒はですから、と言葉を重ねる。そこで漸くこちらを向いた瞳は髪と同様に透き通っていた。
「その、先程からこちらを見られているので……何かご用かと思いまして」
「てめえに用なんざねえよ」
 言い切れば、女生徒がほのかに浮かべていた笑みは微かに深まる。常に微笑んでいるような女ではあったが、相変わらず嘘くせえ笑い方だと紅音は鼻を鳴らす。お邪魔なら退室致しましょうか。女生徒はなおも言葉を重ねたが、べらべらとこちらの都合も構いなしに喋る従妹や同期と比べれば、言葉数の少ない女生徒などいてもいなくても変わらない。取るに足らない存在だ。
「好きにしろ」
「……そうですか」
 まるで納得のいってない様子であったが、女生徒は物分かりの良い顔をしてにこりと笑む。気に食わねえ顔だ、と紅音は思いはしたがそれだけだ。
 書類に目を遣り、白に浮かぶ黒を追う。しかし意識を引くのは何の情報も得られない白ばかりで、チッと舌打ちをこぼした。こんな紙よりも、女の首筋の方が余程白く見える。そう考えると無性にいらいらするのだから、やはり女生徒をさっさと追いやれば良かったと今更ながらに思う。こつり、足音がする。視線だけを向ければ整理し終えた資料を抱えた女生徒が紅音の机へと向かってきており、その弧を描く口元が酷く目障りであった。
 そして、その下の、白々と浮き上がる首筋が。
「星野先輩」
「……何だ」
「こちらの資料はどう致しましょう。ファイリングするか、必要でないならシュレッダーにーー」
 資料を見せようとしたのだろう、女生徒が微かに背を丸めると紅音の眼前にその首筋が晒される。さらり、見慣れたものより随分と短くなった茶の頭髪がその横で揺らめいた。てめえの。紅音の口は無意識に動く。え? と女生徒は目を瞬かせた。
「てめえの、」
 浮き上がった無骨な手が、女生徒の頭髪を捉える。無遠慮に掴んだそれは、自身のものより余程細く、柔らかだった。
「この髪がーー」
 するり、腕を引けば紅音の指の間を髪が滑り落ちていく。その拍子に、女生徒がかぶっていた帽子がとさりと床に落ちた。するりするり、髪がこぼれ落ちる。ーーしかし毛先を掴んだはずの紅音の手は彼女の髪の半ばに位置しており、あ? と思われ疑問が口から転がり落ちた。髪を引かれるままに机の上に上半身を預けた女生徒は、珍しく驚きを露にして紅音を見つめる。だがその彼も瞳を見開いており、ひゅうと風が窓をかすっていく音が響いた。
 彼女の髪は、長い。
「あの……」
 髪を掴まれたまま、女生徒はそっと口を開く。睫毛が落とす影を見て取れる程に近い距離であったが、それよりも紅音の意識は彼女の髪へと向いていた。
「髪なら、緋野さんが少しいじって……毛先を丸めて髪の中に隠したと言っておりましたけど、あの、何か……?」
 指に込められた力が、緩やかに抜けていく。それに伴い女生徒が身を起こせば、するりするりと茶色い頭髪は紅音の手の中から逃げていく。それが全て手の内から消えると、紅音はぐっと手を握りひとつ舌打ちをこぼす。何でもねえよ、と言えば女生徒はそうですかとしか応えなかった。
「それで、こちらの資料ですが」
「ああ……捨てとけ」
「はい」
 資料を抱え直す片手間、女生徒は髪を留めていたらしいヘアゴムやピンを外しポケットへと放り込んでいく。髪型が崩れたことに対しては何の未練もないのだろう、淡々とした手付きを紅音は横目で眺める。そして仕上げとばかりに手櫛で髪をすいて拾い上げた帽子をかぶってしまえば、普段通りの彼女がそこにいた。髪は長く、首筋はそれで覆われている。それを確認すると、紅音はふうと息をついた。
 では失礼しますね。処分する資料とコーヒーを運んだであろうトレーを手に、女生徒は紅音に会釈をして部屋から出ていく。そちらに視線も向けずに、彼は眉間にしわを深く刻みぐっと目を閉じた。日射しは黄色から橙に移り変わり、部屋は次第に薄暗くなっていく。……くそが。無意識に転がり落ちた悪態は、行き場もなく溶けていった。