学生戦争 | ナノ

「紅音ちゃん、トリックオアトリート!」
「あ?」
 くつりと震えた喉を見越したようにこちらへ向く眼光は、三瀬先輩に向けたものと全く同じ色合いをしているのだろう。凍てたターコイズににこりと笑い掛けるけれど、ちっとも緩みはしないそれにはもう慣れたものだ。私でさえそうなのだから三瀬先輩が怯む筈もなく、にこにことした笑顔を携えたまま司令室に飛び込んできた彼は星野先輩に向かって突き出した手のひらをひらひらと振った。
「あっれ〜? 紅音ちゃん、もしかして知らねえの? 今日ハロウィンなんだぜ?」
 にこにこがにまにまへと移り変わっていく様は何とも筆舌しがたいものがある。ぐっと握り締められた星野先輩の拳を横目で眺めながら、全くもって三瀬先輩は彼の人の沸点を越えるのがお上手だと口元を緩めた。本当に無意識なのかしら。どちらにせよ、そうとは見えないけれど一騎当千の力を持つ彼だ、体格が良いように見えて実質筋力なんて毛程もない星野先輩の拳なんて恐れるものではないのだろう。ーーまあ雰囲気はおっかねーけどあれだよな、パンチは豆腐威力。おお、お豆腐パンチ……! ーー不意に此糸くんと夜子ちゃんの会話が蘇る。三瀬先輩の要件が終わったら、こちらに矛先が向く前に教えて差し上げようかしら、なんて。
 チッと既に聞き慣れた舌打ちが響く中、ことんとソーサーに乗ったコーヒーカップを星野先輩の執務机に置く。ぎろりとまたもや鋭い双眸が私へと向けられたけど、知らぬ顔をすればそれは再び三瀬先輩へと向けられる。心も体も一騎当千な三瀬先輩とは違うのだから、火の粉を浴びるなんて冗談じゃない。
「……朝からどいつもこいつもうるせえと思ったら……」
「お? もしかして紅音ちゃんハロウィンって知ってた? まあ紺野がハロウィンに乗らねえ訳がねえしな〜……お? という事は? お菓子なんて準備してたりーー」
「誰に向かって物言ってんだてめえ」
「だよな〜! 流石紅音ちゃん!!」
 ……ああ、これは。
 トレーを胸に抱え、すっとふたりから距離を置く。本当なら司令室から退室してしまいたい程だけれど、かえって悪目立ちしてしまうだろう。にまにまと笑い続ける三瀬先輩に眉間にぎりぎりとしわを寄せる星野先輩の対比は清々しい程に見事だけれど、全く三瀬先輩ってば加減ってものをご存知ないのだから。放置されたコーヒーは秋の冷たさにじわじわと侵食され、風味を落としている事だろう。
「紅音ちゃんがお菓子なんて準備してる筈がないよな〜! それならいたずらしてや、」
「ほらよ」
「げふっ!」
 ゴッと何とも重い音が響いたかと思えば、どさりと三瀬先輩の顔面目掛けて投げ付けられたそれは重力に従って床に落ちる。その衝撃で破けた茶色い紙袋からこぼれたそれはどう見てもコーヒーの豆で、パッケージから見るに星野先輩がお気に召している店のものだろう。
 ギィ……と効果音が付きそうな雰囲気で椅子から立ち上がった星野先輩は、一歩、また一歩と三瀬先輩との距離を詰める。そこでようやくやり過ぎたと気付いたのだろう、空笑いを浮かべながら一歩、また一歩と後退る三瀬先輩はあはは……と両の手のひらを掲げて見せた。
「あ、紅音ちゃん……?」
「そんなに欲しいならくれてやるよ」
 がっと足元の紙袋を掴んだ星野先輩は、破れた箇所からその中身を引っ掴むなり三瀬先輩に投げ付ける。ひい! と声を上げた三瀬先輩はコーヒー豆を避けようと身を捩るけれど、量が量だ、全てをかわすことは難しく、痛い! と叫んだ。
「豆はヤメテ!」
「ああ? 知ったこっちゃねえよ、ハロウィンだろ?」
「どちらかというと節分! どう見ても鬼は紅音ちゃんなのに!!」
 逃げ回る三瀬先輩に、それを追うコーヒー豆。……これを掃除するのは誰なのかしら。もしも自分に回ってきたなら取って置きのいたずらを用意しようと考えながら、コーヒーを淹れ直すためにそっと部屋を後にした。