学生戦争 | ナノ

「……あら?」
 不意に詩野は作業の手を止め、保健室の窓の向こうへと視線を留めた。さわさわと若葉が揺れている。黒軍兵を養成するこの学校だ、花は散ってしまったとはいえあれはきっと桜だろう。そう考えながら詩野は首を傾げた。――何か、動いたような気がしたのだけれど。
 保健室といえど衛生兵の訓練所でもあるこの場所は広い。生徒が賑わうグラウンドを映す窓があれば、今詩野が見つめているような、寂れた敷地の片隅を映す窓もある。詩野はふうと溜め息をつき、窓へとそっと近寄った。からり、開いてみれば春の穏やかな風が彼女の茶色の髪を揺らす。
「どなたか、いらっしゃるんですか?」
 そうして少しだけ声を張ると、うう、と何かが唸るような声が聞こえた。馬の声ではない、ならば人間だろう。詩野はちらりと先程まで作業をしていた机へと肩越しに視線を遣る。使用期限の切れたアンプルに、注射針や酒精綿がトレイの中に鎮座している。ふう、ともうひとつ溜め息が転がった。どうやら与薬の練習はお預けらしい、こちらの気配に気付いたのか弱々しく助けを求める声を無視する事はできないだろう。
「もしもーし、あのぅ……うう、誰か助けてくださぁい……」
 耳に馴染みのない声だ、と詩野は思う。彼女は親しい人こそ少ないが、救護班に在籍している身だ。勉学カリキュラムに加え兵士養成カリキュラムもこなさなければならない生徒達は、怪我を負う機会が多々ある。接している人はそれなりに多い。
 まだ桜の気配が残るような季節だ、恐らくは新入生だろう。この時期新入生は一般的な授業の他に、特性の検査と武器の選択を行っているはずだ。しかしその武器も性能だけを似せたおもちゃのようなものだから、詩野と新入生の接点が皆無である事は道理であった。
「どこにいるの?」
「あっ! あの、そっちから見ると木の影になっているかと……!」
 身動きがとれない状態なのかしら、と疑問に思いながら詩野は医療品を詰めているショルダーバッグを肩に提げる。そうしてドアがないのだから仕方ない、と自身に言い聞かせ、窓枠に足を掛けた。ふわり、白襟とスカートの裾が舞う。続いて訪れる衝撃を、赤い靴の裏で受け止めた。
 ここは木ばかりが生えているような場所で、近道にも使えやしない、校舎と外壁の狭間である。歩を進めながら、詩野は頭の中を疑問符で満たした。誰が、何故、何の為に……そうしてひょいと立ち並ぶ木々の間を覗き見――絶句した。
「ううううすみません……これ解いてください〜」
 しかしながら相手には詩野の表情は苦笑にしか見えなかったのだろう。恥ずかしげに眉尻を下げながらそう懇願したのは、黒軍の証である黒のセーラー服に身を包んだ女生徒だった。落ち着いた茶色の頭髪やそれより少し明るい瞳は詩野とよく似ていたが、彼女の視線を奪ったのはそこではない。
「ええと……それは鞭剣?」
「はい……支給されたので使ってみたんですけど、動けなくなっちゃって……」
 鞭剣とは一見ただの剣だが、その実等間隔に分裂した刃がワイヤーで繋がれており、剣とも鞭ともなる近距離遠距離両方に活用できる武器だ。その分技術が要され、鞭状の際にはひとつひとつの節の動きを理解できなければ使い物にならないのだが……果たしてこの状態は理解できなかったから、で済ませて良いのだろうか。詩野は眉を下げながら疑問に思う。
 芋虫状態。まさにそう呼ぶのがふさわしいと思える程に、女生徒は鞭剣にぐるぐる巻きにされていた。
「ちょっと待ってね。……あ、大丈夫、ワイヤーは絡まってないみたいだからすぐに取れるよ」
「ほんとですか!」
「ええ。それにしても、刃引きが施されていて良かった」
 そうでなければみじん切りね、と何て事のないように微笑みながら告げられた詩野の言葉に、女生徒の顔はさあっと青くなる。新入生の武器がただのおもちゃであるのはそれぞれに合ったものが決まり、基本的な使用方法が把握できるようになるまでの僅かな時だ。無論模擬戦闘などで使用する武器は殺傷能力を持たぬようにされてはいるが、重量や質感を手に馴染ませる為にもじきに本物が支給されるのだ。
 カチャリ、無機質な音と共に身体が解放されていく。カチャリ、カチャリ。それが何故だか時計の秒針の音のように思えて、女生徒の茶色い瞳にじわりと涙が溜まった。
「う、ううっ」
「あら、どうか……え、あなた、どうしたの? どこか痛い?」
 地に横たわり嗚咽を漏らす女生徒に、詩野は困ったように眉を垂らしながら苦笑する。カチャリ、カチャリ、ガチャン。そうしている間に鞭状になっていた武器は剣の姿を取り戻し、詩野の手に収まった。ずしり、と重量感は本物さながらのそれは、普段ナイフしか扱わない詩野には少しばかり重く感じる。
 女生徒を助け起こしながらふと詩野が視線を落とすと、女生徒の膝が擦り傷を負っているのを見つけた。恐らくは倒れる際に傷付けてしまったのだろうその部位をちらと見て、詩野はごそごそとショルダーバッグを漁る。ペットボトルに入った水と、スプレーボトルに移した消毒液を左右の手に持ち、彼女はそっと女生徒の顔を覗き込む。
「あなた……ええと、私は二年の原田詩野というの。お名前は?」
「ううっ……一年、紺野夜子ですっ」
「そう、紺野さん。あのね、私救護班なの。だから治療をさせて頂くわね、大丈夫、すぐに痛くなくなるから」
 ふわりと詩野は夜子と名乗った女生徒の頭を撫で、そこで初めて彼女の髪と自身のものがよく似た色であると気付く。見れば涙を湛えている瞳も形こそ違えど色はそっくりで、まるで姉妹みたいだと密かに笑んだ。
「お願いします……」
「はい、了解しました」
 傷口を水で洗い流し、消毒液を吹き掛ける。それからショルダーバッグから軟膏を取り出し絆創膏のガーゼ部分に薄く塗り付け、ぺたりと貼ってしまえば終了だ。この程度の処置は慣れていると言わんばかりのスムーズな治療に、夜子は目をぱちくりと瞬かせた。その拍子に涙が一粒二粒、ぽろりと頬を滑り落ちる。
「はいおしまい。絆創膏は救護班に言って取り換えてね。これはおまけ」
 ころん、と手のひらに転がされたそれに、夜子は思わず瞠目する。――飴だ。喜色を含んだ声色に、詩野は首を傾げた。バッグのポケットに入っていたそれは先輩から貰ったものだと記憶しているが、詩野は特別甘いものが好きという訳ではない。だからたまたま出会った後輩に渡した訳であり他意はないのだが、その飴玉は絶大な効果を生んだようだ。
「せ、先輩!」
「……うん?」
「詩野先輩って呼んで良いですか!?」
 きらきらと輝く瞳が映すのは間違いなく尊敬の二文字であり、詩野はきょとんと瞳を丸める。先程までぐずぐずと泣いていた後輩が次の瞬間にはにこにこしているのだからそれは仕方のない事だが、まさか詩野はこんなものが夜子の琴線に触れるとは思ってもみなかったのだ。――お菓子は絶大である。紺野夜子はまさしく食いしん坊であった。悪気はないとはいえ自身を泣かせた先輩を、飴玉ひとつで“良い人”認定をする程度には。
「……どうぞ?」
「わーい! はっ、私の事は夜子と呼んでください!」
「夜子ちゃん、ね」
「はい! 詩野先輩は救護班なんですね、私は暗殺部隊なんですよー」
 右耳を覆う黄色いリボンを揺らしながら笑う夜子に、詩野は漸くこの女生徒について理解し始めていた。……暗殺部隊って、隠密なんじゃ……。詩野の胸の内は彼女には届かない。
「私、初めて先輩と喋りました」
「そうなの。私も初めて後輩と喋ったわ」
「わあ初めて同士ですね、よろしくお願いします!」
 ぽん、と飴玉を口に放り込みながら告げられた挨拶に、詩野はそうっと目を細めて微笑する。よろしくね。そう囁くと、青々しい香りを携えた風がふたりの茶の髪を撫でた。
「はい、鞭剣。次は気を付けてね」
「が、……頑張ります」
「ふふ、また怪我をしたら保健室に来てね」
 その言葉通り、怪我をした夜子が保健室に駆け込むのはこの二日後である。