学生戦争 | ナノ

 ぴちゃん、と赤い靴が泥を跳ねる。それを何とはなしに目で追い、傘をくるりと回した。靴と同じ色をしているそれは、この薄暗い景色の中冴え冴えと浮き上がっている。膝の辺りで揺れるスカートは小花柄をしていて、恐らく今の私は赤軍に見えるのだろうなと小さく笑んだ。事実、黒い制服を脱いだだけで肩が幾分か軽いように感じるのだから不思議なものだ。
 しとしとと夕べから静かに降り続ける雨は、昼下がりになってもやむ様子は見せない。爪先からじわじわと水が滲み込み靴下を濡らしていたけど、不快ではなかった。薄いレースのカーテンのような、誰かの大きな手のひらのような雨だった。そっと、そっと、覆い隠していく。
「……あれ」
 その柔らかな膜を突き抜けて私の耳にまで届いたのは、その一欠片では誰のものか判別がつきにくいような、そんな距離を保つ人のものだ。どことなく、聞き覚えのあるような……。そう思いながらちらりと声の方へと視線をやれば、私のものより幾分淡い茶髪が、雨によって薄められぼんやりと浮かんで見えた。たちばなくん、と唇だけで呟く。
「原田先輩じゃないですか」
 そう放ち人好きのする笑顔を浮かべて見せた彼が声を上げなければ、私は彼に気付かぬまま通り過ぎていただろう。そんな事を考える程に、平素であっても薄い彼の気配は雨により更に希薄になっていた。こんにちは、と黒い傘をさした立花くんは言う。私もこんにちは、と返しにこりと笑みを形作った。
 何とはなしに視線だけで辺りを見渡してみるものの、雨の日の、この小さな公園はがらんとしている。人の子ひとりいない風景にそっと息をつくと共に、浮かぶのは太陽のような女の子だ。
「伊縒なら、今日は一緒じゃありませんよ」
 そんな私の心を見透かしたように、立花くんは肩を竦めて告げる。そうなの、と私は頷いた。今日は、と言いつつも彼が彼女の隣にいる事は随分と少ないような気がするのだけど、それは私が口を挟む事ではないのだろう。彼女の様子を垣間見ているようなその行動は、趣味が悪いと思うけれど。
「どうしたの? こんなところに」
「先輩こそ。公園で遊ぶような柄には見えませんけど」
 伊縒ちゃんがいないのであれば、彼の存在は途端に不可思議なものに映る。元より普段何をしているか悟らせない男だから、奇妙な存在ではあるのだけど。にこりとぶれる事のない口元は、切り裂かれた三日月のようだ。
 買い出しの途中だと私が言えば、奇遇ですねと彼は返す。俺もそんなものです、と。正直なところ私はこれから向かう予定の店はないし、彼とてそれは同じだろう。口を割る気がないのは尋ねる前から分かっている事だ。
「ふふ、そうなの」
「はい」
「それじゃあこんな天気だし、お互いに早く終わらせて帰らないとね」
「そうですね。風邪をひかれないよう気を付けて下さい」
「立花くんも、身体を冷やさないようにね」
 伊縒ちゃんが、いれば良かったのに。
 彼と話していると何ともざわつく胸に内心眉根を寄せ、そう考える。彼女がいればきっと私達は穏やかに談笑さえしてみせただろうに、と思い浮かべると、何だか笑えてしまう。あの子が繋げているだけの縁なのだから、致し方ないのだろうけど。
 彼から視線を外し、またね、と告げて歩き出す。まっすぐ帰路につくつもりはない、用心のために少しばかり迂回しようかしら。そう考え、傘をくるり。赤が揺れ動き、ぴちゃりと雨粒が跳ねた。
「原田先輩」
 さあさあと、雨の音によく似た声色だ。
「よくお似合いですね――赤い傘」
「……ありがとう」
 振り返らずに私は笑い、歩を進める。公園の出入り口まで来てようやく肩越しに背後を確認したけれど、そこにはもう、笑う月はいなかった。
 ふう、と溜め息をつく。彼の言葉を反芻しながら踏んだ水溜まりは、びちゃっと勢い良く跳ねて散り散りに飛んでいった。