学生戦争 | ナノ

「勝負をしましょう」
 淡く色付く唇が、そっと微笑みを乗せる。その言葉にパソコンのディスプレイへと向けられていた紅音の意識は彼女へと移り、カタカタと忙しなくキーボードを叩いていた手が止まる。彼はその鋭いターコイズの瞳をすぼめ、ああ? と怪訝そうに背後に控える彼女を睨み付けたが、彼女は怯む事なくにこりと貼り付けたような笑みを返すだけであった。
 ふわん、と先程置かれたばかりのコーヒーから、芳醇な香りと共に湯気が立ち上る。
「何言ってやがる、気でも触れたか。邪魔するなら出ていけ」
 気紛れに指令室へとやって来ては、コーヒーを置く。そうしてろくに言葉も交わさずに去っていくのが彼女の常であったし、紅音とて救護班に所属する彼女がそうやって自身の体調をチェックしている事は承知の上であった。だからこそ、唐突な提案の裏には何が潜んでいるのかと眉根を寄せる。
 読めない女であると思った。黒いセーラー服で心を包んでいるにも関わらず、赤いエナメルシューズでふらふらとさ迷って。黒と赤、そのどちらに手を伸ばす事もなくばたばたと羽虫のように飛ぶ様は目障りだ。しかし黒軍にとって害にも脅威にもなり得はしなかったし、かといって利益を生む訳でもない。
 ――コウモリだ、こいつは。そしてその中途半端な生き物は、変わらずそこに佇んだまま、ころころと笑い声をこぼした。
「ふふ、良いじゃないですか。星野先輩はただ、私に勝てば良いんです」
「……」
 その真意を探ろうとじいと彼女を睨み上げるが、彼女の表情は崩れない。柔らかく細められた双眸に、緩やかに弧を描く唇。落ち着いた茶の瞳が、彼女にはよく合っていると思う。しかし親しみを表すその表情に隙はなく、だからこそ却って白々しい。
「気味の悪い奴だ」
 心中を吐き出すも眉ひとつ動かさない彼女に、紅音はチッと舌を打った。
「その顔をやめろ」
「ふふ、笑顔って言うんですよ。知りませんでした?」
「目が笑ってねえな」
 腕を組み、馬鹿馬鹿しいと溜め息をつく。それでも堪えた様子のない彼女を見るに、勝負とやらは既に幕を切っているのだろう。何を競うのかもどのように勝敗がつくのかも彼女は告げなかったし、彼も興味がなかった。勝手にすれば良い、そう思う。何にせよ自分のする事に変わりはないし、コウモリなぞ自滅するのが落ちだ。
 ぎろりと横目で彼女を見上げる。微笑む彼女が笑っているところなど、紅音には想像さえ出来なかった。
「それを笑顔とは呼ばねえ」
 コーヒーの香りだけを共有する午後、まだ初夏にも及ばぬ季節の陽光は酷く柔らかく降り注いでいた。

***

 ざぶ……と歩を進める度に波打つ。紅音の膝から下は水に浸っている。その突き刺すような冷たさに彼の膝下はじんじんと痺れたが、彼は気にもしなかった。
「そういう事かよ」
 口元が、歪に曲がっていく。吐いた息は白く濁り、じんわりとほどけ消えていった。
「漸く分かった」
 水を掻き分け進む先、空を仰ぎ浮かぶ彼女は既に凍え死んでいるようにも見えた。黒のセーラー服に包まれた身体は一層白く映り、蒼白な顔をぴくりとも動かさず彼女は目を瞑っている。豊かな茶の頭髪は水面に広がり、救護班を表すベレー帽は一足先に沈んでしまったのか存在していなかった。
 薬にも毒にもならない存在だった。しかし敵軍と繋がっている事が確かである以上、いつかは処分する必要があるのは曲げようのない現実である。紅音にとってそれはよくある事で、従妹に命ずれば自分は指令室で変わらずコーヒーを飲んでいれば良い。それだけの事であった。
「これでお前の勝ちって訳か」
 ――もしも彼女が勝負などを仕掛けなければ、それだけの話で済んだのであろう。
 漂う彼女の白い首へと手を伸ばす。そうして撫でるようにそこを手のひらで覆えば、彼女の瞼がうっすらと開く。まだ、死んでいなかったか。紅音は心中でそう呟く。しかしこの凍える季節に水に浸かり続けていれば、いずれその心臓は拍動を止めてしまうだろう。ぐっと手のひらに力を込める。ずるりと肩に掛けている学ランがずり落ちていったが、拾おうという気にはならなかった。
 ふざけるな、と激昂する気力がわかないのはきっと、彼女が持ち掛けた勝負のせいだ。黒軍の学校が所持している山、普段は演習に使われているそこの麓には小さいけれど深い泉がわいている事を知る者は少ない。だからこそ彼女はここを死に場所に選んだのだろうが、それを紅音が予測する事ができたという事こそが勝負の結末を示唆しているのだから舌打ちさえできない。
「……笑ってんじゃねえ」
 気付けば彼女は目を細め、酷く穏やかな表情を浮かべていた。ぐっと紅音の眉間にしわが寄せられる。何も語らなかった茶の瞳がこの時ばかりは雄弁に彼に語り掛け、堪らない気持ちになった。――幸せだったか。そう問えば今の彼女であれば、とろけるような笑みを携え肯定する事だろう。それ程に、彼女が浮かべているものは紛れもなく“笑顔”であった。
 そっと、彼女の白い手が自身の気道を絞める無骨な手へと添えられる。戦闘を得意としていないのは同じ筈であるのに、デスクワークに慣れた紅音の手よりも薬品を扱う彼女のそれの方が随分と荒れていた。それなのに。紅音は思う。
 彼女はどちらも選びはしなかった。黒軍を、彼を選びはしなかった。ふらふらさ迷うコウモリは羽を休める場所を跳ね除け墜落していくのだ。
 ガリッと彼女の爪が紅音の手に小さな掻き傷を作る。じわりとほのかに血が滲むそれは数日も経てば消えてしまうだろうに、紅音の胸にはそれと似た傷が焼かれた気がした。
「下らない賭けに俺を付き合わせて、コウモリ風情が」
 彼女は害をもたらさない。しかし利益をももたらす気がない事が、明らかとなったのだ。黒軍からの脱退を謀り、そして処刑が命じられた。もう彼女の居場所などどこにもなく、風前の灯である事に変わりはない。
 ――気に食わねえ。
 薬にも毒にもならなかった彼女が、自身が決定する前に処刑を急いだ御上が。心臓を止めてしまうであろう冷水にさえ、勝手な事をすると腹が立って仕方がなかった。他の誰でもなく、彼女の最期を決めるのは自身だ。そうした情を抱いてしまう事こそが敗けであっても、紅音は譲れなかった。
「絶対許さねえ」
 ぐっと更に手のひらに力を込めるが、彼女の瞼はいつの間にか下ろされていた。しかし唇は変わらず弧を描き、実に幸福そうな表情だと思った。
 はあ、と吐いた息は既に肺の中までもが冷たい空気で満たされてしまったのだろう、もう白く濁る事はない。脚の感覚などなくなっていた。水面に浮かび続ける彼女を見下ろし、紅音はくしゃりと顔を歪める。それは悲嘆にも激昂にも見えた。
 そっと彼女の唇に指先を這わせる。白く血の気のないそれを見つめ、彼女の心臓が停止したのが先か呼吸が止まったのが先か暫し考え込んだが、詮なき事だ。
「……チッ」
 舌打ちがこぼれる。彼らを中心として、泉には波紋が広がっていた。



「だから、目を開けろ」
 なあ、詩野。