学生戦争 | ナノ

 キーボードから離れた手が、ふらりとさまようように空に浮く。ことん、コーヒーの入ったマグカップを置けば星野先輩はちらりとそれを見、それから躊躇いもなく持ち上げ口付けた。
「――、」
 それだけの、事であった。
 傾いた日からの赤い光線、室内はどこかノスタルジックに色付いている。私の髪は薄く透けて、だけれど星野先輩の髪はどこまでも、黒々としていて。ありふれた、放課後の光景。コーヒーの香りが漂い、カタカタと、再びキーボードを打つ音が響き渡る。
「……てめえはいつまでそこにいるんだ」
 星野先輩の低い声が、胸の深いところに響く。
「……すみません」
 目を細め、口の端をつり上げ。いつものように笑ってみせたつもりの私を一瞥して、先輩はひとつ舌打ちをする。一礼し司令室から退室し、だけれどそこから動けずにドアに寄り掛かる。胸に抱えたトレーを、ぎゅうと抱き込んだ。
「うそ、」
 信じない。
 かつり、一歩踏み出す。歩調はどんどん速くなっていき、私の身体は、どんどん司令室から遠ざかる。それでも赤い光線はどこまでも広がっていて、私の髪を透過していく。――きらきらと、茜色に染まっていく。それが決して逃れる事はできないのだと、物語っているようであった。
「うそ、……うそ」
 ただの気の迷いだ、だってあんなに自然に、コーヒーを飲んだから。あの喉仏が上下に動くのを、確かに見てしまったから。少し驚いただけ、それなのにどうしようもなく泣きたくなる。弱さを覆い隠していたものがはらはらと解け、露わになっていく。
 かつん、足を止める。廊下の片側に並ぶ窓、そこから見上げる空は紅い。
「……信じないもの」
 あの人を表すのは、深緑だ。どこか陰りを見せるターコイズ。決して赤なんかではないのに、柔らかな光線は私を包み込んでいた。……赤は駄目なのに。それでも光線は消えなかったし、柔らかな色で包まれる彼の黒髪や下を向く睫毛、骨張った指に薄い唇。赤味を帯びるターコイズも、全部――全部消えないのだから、どうしようもない。
 くしゃり、眉根が寄り唇が歪む。ふふ、と笑った。先程先輩に見せた笑顔とは比べものにならないくらい、酷いものだった。……それでも、星野先輩は、これなら笑顔と仰って下さるかしら。固く瞼を下ろし、ひとり、笑う。きっと私の笑顔なんてどこまでも歪なもので、美しくはなれないのだろう。それなら、偽物のままで良いと思った。あの人の記憶に遺るのは、偽物であっても、綺麗に整えられた笑顔であってほしい、と。
 ――不意にコーヒーの香りがし、反射的に振り返る。だけれどそこにはがらんとした廊下が広がっているだけで、彼の人の姿はどこにもない。
「……香り、移っちゃったのね」
 髪を一房、持ち上げ鼻に近付ける。漂う香りは既に彼の匂いとして認識していた。
 赤と紅、同じようで違う色。私はどちらも選べないし、ただ飛び続けるしかないのだと、知っていた。それでも。
「……せんぱい」
 赤い光線に隠された今だけは、彼だけを想いたかった。コーヒーに、口を付けたからだけではない。きっと私はとうに落ちていて、冷えていくコーヒーと自分を、知らず知らずの内に重ねていたのだろう。だけれどこれからは、重ねられそうもない。あの指に、唇に触れられたコーヒーとは。
「きっと、私の負けです」
 胸にはいつの間にか、貴方が根を張っていた。