学生戦争 | ナノ

「星野先輩を眠らせたい?」
 夜子ちゃんから突如持ち掛けられた相談に思わず瞬きを繰り返す。確かに先輩は適切な睡眠というものから著しくかけ離れた生活を送っている。しかしだからといって放っておいても倒れる事はなく、むしろ世話になってたまるかと言わんばかりに最低限の生活管理は行っている為、いくら濃い隈が浮かんでいようともそこに介入した事はほとんどなかった。
「それは……また唐突な話ね。星野先輩、どうかしたの?」
 そんな事は先輩の従妹である夜子ちゃんは私以上に熟知していて、だからこそこの相談には困惑するしかない。眉尻が下がるのを自覚しながらそう問えば、夜子ちゃんはそれが、ともごもごと口ごもる。その様子を見て、そんなに寝ていないの? と問えば彼女はこくんと頷いた。
「紅音ちゃん、最近司令の仕事が立て込んでたみたいで」
「そうなの」
「聞いてみたら、一昨日にとりあえずは片付いたって言ってました。でも今度はまだ期限のある仕事にも手を付け始めて、一向に寝ようとしないんです」
 それは、と思わず苦笑する。恐らくは極限まで寝ない習慣が身に付いていて、睡眠をとる余裕ができても本人が生活サイクルを元に戻そうとしないのだろう。
 あのままじゃ倒れちゃいます、と唇を尖らせる夜子ちゃんはどこまでもまっすぐに星野先輩を心配していて、話題の中心の人物と血が繋がっているとはにわかには信じがたいものがある。分かったわ、と頷くと夜子ちゃんはぱっとこちらを見、ありがとうございます! と弾けるように笑んだ。……本当に似ていない。
「もっとも星野先輩が素直に寝るとは思えないから、結果は出ないかもしれないけど」
「紅音ちゃんってあまのじゃくですからねー。それはまあ、仕方ないって事で」
 視線を合わせ、同じタイミングで苦笑を零す。本当に、こんなに心配をかけるだなんてどうしようもない人ね。
 これが昨日の話。放課後の、医務室での事だった。

***

 ぐぐっと星野先輩の眉が寄せられ、眉間には深い谷が刻まれる。隣をちらりと見てみれば夜子ちゃんがじいっと期待した眼差しを先輩へと注いでいて、ああこれはばれるかなと苦笑した。
「……何だ、これは」
「何って、お菓子だよ! 紅音ちゃんが司令室から全然出てこないから、詩野先輩と話して差し入れしに来たの」
 ほら食べて、と言わんばかりに星野先輩の方へずいっとお皿を寄せる夜子ちゃんは、早くそれを先輩に口にしてもらいたくて仕方がないのだろう。先輩は仏頂面をより深めた状態でお皿の上にあるきつね色のクッキーを睨み付け、いらねえと呟いた。瞬間夜子ちゃんから、えー! と抗議の声が発せられる。
「何で!? クッキーだよ!?」
「てめえは自分の好きなものなら誰もが好きな筈っていうその自己中心的な頭を取り替えてこい」
「クッキーおいしいじゃん!」
 がらんとした寂しげな印象を持つ司令室に響き渡る声に、くすくすと笑みをこぼす。そうしてことりと星野先輩のテーブルの上に今淹れてきたばかりのコーヒーを置けば、先輩は半眼になってこちらをじろりと睨み付ける。
 星野先輩に睡眠が足りないから寝て下さい、と言っても素直に応じる筈がないのは目に見えている。そこで私と夜子ちゃんが行き着いた考えは睡眠薬であった。いくら先輩とはいえ薬物耐性はないだろうから、何日も徹夜を続けている今、微弱な睡眠薬であっても口に含めばすぐに眠たくなるとは思うのだけど。星野先輩はなかなかどうして鋭く、どうもうまくいきそうにない。夜子ちゃんが分かりやすい、というのもひとつの理由だろうけど。
「おい、何考えてやがる」
「さあ、私には何とも」
 そう答えてみせれば、先輩の眼光はますます鋭いものとなる。だけれどそれに怯む理由はないし、夜子ちゃんは変わらず期待した様子でにこにこ笑んでいるのだから、どうしようもなく愉快な光景だった。
「ほら紅音ちゃん食べてみてよ」
「いらねえって言ってんだろうが」
「一口で良いからさ!」
「……うぜえ」
 うまくいかないだろうな、と思う。夜子ちゃんの作戦は、残念ながら。
 星野先輩のパソコンと資料で埋まりつつある机の上できつね色に輝くクッキーは確かにおいしそうだけれど、先輩がそれを口にするとは思えない。更に言ってしまえば、お菓子を食べる先輩が想像できないのだからうまくいく筈もなかったのだ。
 おい、と星野先輩の眼光が私へと向けられる。
「これとそれ、持って出ていけ」
 邪魔だ、と態度で語る様子には微笑みで返すしかない。“それ”扱いされた夜子ちゃんは大して気にした様子もなく、えええー、と不満げに頬を膨らませていた。……ここらが潮時だろう。分かりました、と私は口元に笑みを引く。
「コーヒーはどうしましょうか、そちらも下げますか?」
「……いや、いい。置いておけ」
「はい」
 じゃあ夜子ちゃん行こうか、とクッキーが乗ったお皿を持ち上げ言うと、夜子ちゃんははあいと素直に頷いた。では失礼します、と星野先輩に告げ背を向け、司令室を後にする。ドアを閉める瞬間、盛大な舌打ちが聞こえた事は夜子ちゃんには秘密にしておこうかしら。
 のんびりと医務室を目指す道すがら、失敗しちゃいましたね、と夜子ちゃんは溜め息をつく。こんなにおいしそうなのに……とクッキーに注がれる視線にくすくす笑い、お皿を夜子ちゃんに手渡した。
「大丈夫。多分、今日はきちんと寝るんじゃないかしら」
「え、何でですか?」
 夜子ちゃんの丸い瞳がくるんと疑問を映す。それを眺めながら私はきつね色のクッキーを一枚つまみ上げ、彼女の口元へと運んでいった。――さくり。クッキーは何の躊躇いもなく彼女の口の中へと吸い込まれ、おいしーと夜子ちゃんは相好を崩す。
「あっ、でもお薬が……」
「睡眠薬ね、結局その中には入れなかったの」
 私のカミングアウトに、彼女はへ? と声を上げ口をぽかんと開いた。素直な夜子ちゃんの事だ、星野先輩にすぐさま不信感を抱かせるのは想定内であった。だからこそ夜子ちゃんにはクッキーに睡眠薬を仕込んだと伝えたのだけど、結果はどうなったのだろう。星野先輩も大概疑り深い性格をしているし、五分五分だろうか。
 長い廊下をゆっくりと歩きながら種明かしをしていく。医務室に着く頃には、お皿はすっかりと空になっていた。