学生戦争 | ナノ

「嫌いな色ってありますか?」
 ――土の匂いがする。校舎脇の花壇、そこの前にしゃがみこんでいる三瀬先輩の作業を後ろから覗き込みながら問えば、先輩は私の方を仰ぎ見てひとつ瞬きをしてみせた。
 先輩が手にしている鉢植えには青々とした葉を広げた植物が根を下ろしていて、野菜だけでなく花もだなんてこの人はとことん土いじりが好きだなあと思った。花の名前だって、私よりきっと、多くをご存知の筈。
「えーと……好きな色じゃなくて?」
「はい、嫌いな色」
 笑みと共に肯定してみせれば、三瀬先輩は空笑いのようなものを浮かべながら詩野ちゃん趣味ワリー、と呟いた。普通は好きな色だろう、と。そうして視線を手元に戻し再び作業を始めた三瀬先輩を眺め、それでは意味がないのだと思う。好きな色、ではなくて、嫌いな色を知りたかった。それは決してどうしてもだなんて切羽詰まったものではなかったし、自分の首を締める可能性がある事くらい、分かり切っていたけれど。
「好きな色は、何となく想像できますから」
 この人の、嫌いなもの。この人が否定するもの。それは一体何なのかしら、なんて。知ってみたくなったのだ。
「ほー、そうかい」
 赤、青、黄色。ピンクやオレンジ、白だって。花壇は様々な色で溢れ返っている。三瀬先輩はその中をぐるりと見渡して、まるで花の中から嫌いな色を探しているかのようだった。そうだな……。思案するように呟いた先輩は、爪の間に土が入る事も厭わずに一株の花の根元を掘り進めていく。その振動を受けたのか、薄い花弁はふるふると揺れていた。
「強いて言うなら――赤かな」
 そうして導き出された答えに、私はそっと目を伏せる。赤、か。心の中で呟くと、それが緩やかに芽吹き根を張っていくような、そんな心地がした。
 ちかちかと眩い日差しが瞼の向こうから主張する。穏やかな風が吹き、私の髪をふわりとさらっていった。そうっと目を開き空を見上げてみればそこは醒める程に青く、また遠く感じる。
「真っ赤でさ、血の色みたいで、いっつも俺の大切なもん奪ってく気がする」
 ひらひらと、視界の隅で赤がちらつく。視線を落とせばそれは三瀬先輩の赤いストールで、赤が嫌いなのに赤を身につけるのかしらと考えた。それとももしかしたら、それが彼なりの戒めなのかもしれない。
 どっちかっつーと、と先輩は不意に振り返り、私を見据える。その双眸には快活な先輩らしくない憂いのようなものが潜んでいて、心臓が一度だけ、高く跳ね上がった。
「嫌いより苦手ってやつだな。はい、頼まれてたやつ」
「……ありがとうございます」
 ばれたのかと思った、だなんて。ばれてしまいたいとも思っている癖に。
 ちかちかと、脳裏で赤いキュロットスカートが浮かんでは消える。赤い色、切り離せないもの。苦手だと言った赤を掲げる人達と私が繋がっていると知ったら、三瀬先輩は一体どのような表情をするのだろうか。失望? 嫌悪? ……何にせよ負の感情である事は確かなのに、私はいつまで経っても赤軍の彼女との関係を切れないでいる。だからといって黒軍を捨てられる訳でもなくて、どっち付かず、コウモリなのだ。ふらふらと羽を休める場所も、知らないままに飛んでいる。
「原田は? 何かあんの? 嫌いな色」
 こんな話を振るからには私には嫌いな色があるのだろうとでも言いたげな表情で、先輩は私を見上げてくる。その様子に思わず笑って手元に視線を落とせば、太陽の色が広がっていた。受け取ったばかりの鉢植えに根付く花達。それは三瀬先輩と、とてもよく似ていた。
「そうですね……強いて言うなら、黄色、ですかね」
 えっ! と先輩から驚きの声が上がる。見れば先輩はまん丸に目を見開いていて、分かりやすい様子にくすくすと笑みがこぼれた。当然の反応だろう、三瀬先輩に頼んで鉢植えに分けて頂いたこの花達は、見事に黄色ばかりだったのだから。
「それ俺の好きな色なんだけど!! つか、今日の花黄色ばっかなんだけど、」
「知ってます。今回だけは許してあげますね」
「先に言えよな!」
 ぎゃんと吠える先輩に曖昧な笑みを返し、鉢植えを抱え込む。きっと黄色を選んで下さるだろうと思ったから、何も言わなかったのだ。それを伝える事はないだろうけど。
 太陽の色を見つめ、目を細める。これは司令室に飾ろうかしら。小さな太陽達が輝けば、あの陰気臭い部屋も随分とましになるだろうから。

***

「――、――らだ……原田!!」
 誰かの声がする。
「おい! しっかりしろって! 何で救護班のお前が、」
 うっすらと目を開けば、霞む視界の向こうにこちらを覗き混む三瀬先輩の姿が映った。原田、おいってば、そんな声を掛けられながら、自分の身体がゆっくりと横たえられるのが分かる。……腹部が熱い。私の手はこれっぽっちも動かなくてもうそこに触れてみる事すらできなかったけど、そんな事しなくても伝った血が腕までもを濡らしている事が感触で分かった。……これはもう、駄目ね、なんて。
「原田、もうすぐ救護班来るからな!」
 私を覗き込む三瀬先輩の、必死な顔に笑みが浮かんでくる。こんな顔、初めて見た。
 先輩の向こうに広がる空は青くて、どこかぼんやりとしていた。青と白が曖昧に広がっていて、その境目は分からない。――ふと思い出したのは、先日の会話だ。
 嫌いな色ってありますか?
「俺が原田の世話するとか珍しくね? 紅音ちゃんに笑われちゃうな」
 原田、と、頑張れ、と。何度も何度も投げ掛けられるその言葉の合間で、先輩は泣き出しそうな笑顔でそう告げる。……瞬間、視界から三瀬先輩の姿が消え、代わりにたなびく学ランを見たような、気がした。再び広がる三瀬先輩の顔を眺め、口元に笑みを引き首を横に振る。こんな時だってこちらを向いてくれないあの人がこれくらいの事で笑うだなんてあり得ない。……でも、そうですね。一度くらいは、見たかったなあ。仏頂面以外、見た事がないんだもの。
 視界は次第に明瞭さを失い、代わりに見えるのは笑顔だった。誰の、と特定されたものではない、誰もの。入れ替わり浮かんでは消えていく、星の瞬きみたいに。だけれどそれよりは冴え冴えとしていて、色をつけるとしたらそう、はっきりとした黄色をしていた。その眩しさに目を閉じると、三瀬先輩の声は更に大きくなる。
「おい原田寝るなって、起きろよ!」
 ……ねえせんぱい。私黄色がきらい。私は結局コウモリでしかなくて、その立場を変える事はできなくて。暗い中、手探りで進むのに慣れている私には、黄色は少し暖かくて、眩しすぎて。ひまわりのようなせんぱいを直視できない事なんて、一度や二度ではなかった。
 でもね、せんぱい。
「……はらだ?」
 最近は少しだけ、黄色も良いかなって思えて。口にだなんて、絶対に出してあげないけれど。
 こもっていた腹部の熱が、すうっと冷めていく。その感覚が心地好くて、微睡みの世界にいるようで。だけど暖かい箇所もあって、きっとそこに、せんぱいが触れているのだと思った。感覚は、もうほとんどないけれど。
「うそだろ、死ぬなよっ、とまれ、止まれよ!!」
 悲痛な声は私の耳に確かに届いていて、でも私の機能は、ほぼ停止していて。きっとこの耳が、私と世界を繋いでいる唯一のものなのだと思った。
「頼むよ……お願いします、紅音ちゃんが泣いちまう……失いたくないんだ、もっと頑張る、強くなるから……!」
 コウモリのおわり、にしては少し恵まれ過ぎていて、きっとわたしは笑顔であったことだろう。誰のせいでもなく、自分の失態。それで幕を降ろせることに心底ほっとしているのだから、わたしは本当に、どうしようもない人間だ。
 頬を熱が伝っていく。その正体は分からない。
「もう怪我しねーし迷惑かけねーから、だからっ」
 ちかちかと星がまたたく。きいろい星が。それが少しだけ、少しだけ、いとおしくなったのはせんぱいのおかげなのだろう。
 だから、せんぱい。
「帰ろう――頼むから」
 あなたにもわたしのすきな赤いろを、ほんのすこしでもいいからすきになってほしかった。

「助けてくれよ、神様」