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affogato al caffè

夜でもボーダー本部は明るい。それは夜勤の隊員がいることに他ならないのだが、当然隊員以外も残っており、唐沢も今夜はその一人――正確には、これからその一人になるところだった。
最終の飛行機で海外から帰って来て、タクシーで家まで戻ってきたら夜も遅い時間になっていたが、明日の朝までに帳票を作成して経理に回しておきたいと思い、家には荷物だけ置いて本部へと赴く。
長時間のフライトによる疲れと、時差の影響もあってか、頭は霧がかかったように不明瞭で、本部まで来たものの若干の後悔を覚えながら営業部のドアを開ける。当然夜中の営業部には誰もおらず、唐沢は自分の席に鞄を置きながら、自覚なく溜め息を吐いた。
作業に入る前にコーヒーでも淹れるか、とデスクに置いていた自分のマグカップを掴んで、同じフロアの給湯室に向かう。この辺りは隊員は滅多に来ないので、夜ともなれば、施設の潔白な明るさと、自分の足音だけが響く無人の静けさが相まって、SFサスペンス映画のワンシーンのようでもあったが、何かおぞましい事件が起こるわけもなく、明かりの消えた給湯室に何事もなく辿り着いた。
給湯室の明かりは付けず、空の電気ケトルに水を入れて沸かし始め、その間にマグカップにインスタントコーヒーを少し濃い目になるように入れる。
壁にもたれかかって目を閉じればそのまま眠ってしまいそうな感覚に陥ったが、眠気を訴えている頭に対し、身体の方はうたた寝を拒む。僅かでも休めればと思っていた時間は、ほとんど意味をなさずにケトルの電源が落ちる音で終わった。
マグカップにお湯を注げば、インスタントコーヒー特有の癖のある匂いが狭い給湯室に広がり、そっと深呼吸して意識を覚醒させようと試みるが、あまり効果はない。

「疲れた…」

弱音を吐くのは柄ではないが、誰もいないからこそ言えるガス抜きの言葉を、この薄暗い影に置き去りにするよう吐き出してから、代わりに味見がてらに今淹れたコーヒーを口に入れ直す。思った以上に濃くなってしまったようで、味わうのには全く適してはいないが、確実に目は冴える。これならもう少しは頑張れるだろう。
気合を入れ直すために深く息を吐いてから、マグカップを片手に給湯室から出ようと体をよじった瞬間、給湯室に光が灯った。

「わっ!唐沢さんいたんですか!」

給湯室の明かりをつけたなまえは、上機嫌だった顔を一瞬にして硬直させる。
メディア対策室に所属するなまえにはこの給湯室は遠い場所なのだが、人気のなさを狙いでわざわざ足を運んだ為、当然誰もいないと思って給湯室の明かりをつけたら唐沢がいたのだから驚いても仕方がない。

「驚かせてすまない」
「いえ、お疲れ様です。…できればここで会ったこと、誰にも言わないでくださいね。サボり中ですから」

なまえは愛嬌たっぷりに忍び笑ってから、覗き込む様に唐沢の手にあるマグカップに顔を伸ばした。

「コーヒーですか?」
「ああ…少し苦くしすぎてね」

唐沢が困ったように肩を竦めると、なまえはこれ幸いと、手に持っていたスプーンを見せびらかすように顔の前に掲げる。

「ちょっと分けてください!」

唐沢の返事を聞くよりも先に、マグカップの中へスプーンを突っ込み、こぼれないよう慎重に掬い上げ、口へと運んだ。

「苦っ!」

一気に険しい顔になったなまえに思わず唐沢が笑うと、渋い顔はそのままに唐沢の方へ顔を上げた。

「こんな苦いのばっかり飲んでるから苦い顔になるんですよ。…これ食べて、ちょっとは甘くいきましょう?」

そう言ってスプーンを持つ手とは逆の方から小さなカップを出した。蓋を開ければ、少しだけ食べられた状態の白いアイスクリームが現れる。
なまえはまた唐沢の苦いコーヒーにスプーンを入れて、僅かにコーヒーを掬うとアイスクリームの上にかけた。熱いコーヒーがアイスを少しずつ解かし、混ざり合っていく。何度かそれを繰り返したあと、カップとスプーンを唐沢に突き出した。

「アフォガートです!」

食べろ、と言わんばかりの表情で見つめてくるなまえに気圧され、スプーンを借りて一口分けてもらう。
強烈なまでに苦かったはずのコーヒーは、完全にバニラアイスの甘さを引き立てるアクセントになっていた。

「おいしい」
「ですよね!」

なまえは嬉しそうに頷いて、唐沢の手から戻ってきたアイスを自分の口にも入れ、幸せそうに目を細めた。

「甘いものは幸せになれますからね。コーヒー飲んで苦い顔になるなら、アイス食べて甘い顔になる方が、何だか夜勤も頑張ろうって、私はなるんです」

自分で言うだけあって、確かになまえの表情はさっきよりも生き生きとしている。もしこの表情だけを写真に撮って、他の誰かに見せたとしても、甘いものを食べているのだろうと想像がつくような『甘い顔』だ。
唐沢が一瞬思考に気を取られていると、なまえは手に持っていたアイスを大きくスプーンで切り出すと、それを唐沢のマグカップに落とした。

「甘い顔のおすそ分けです!混ざればカフェオレ?」

黒いコーヒーにアイスが浮かんで、滲む様に解けていく。
なまえの楽しみであっただろうアイスが自分のマグカップの中で消えていくのを見つめながら、相変わらず鈍い頭でどうするべきかを考えていたら、その間を違う意味と捉えたなまえが申し訳なさそうに唐沢の顔を覗き込んだ。

「もしかして嫌でした?」
「…いや、さっきのは眠気覚ましにはよかったけど、おいしくはなかったからね」

それを証明するために目の前で一口飲んでみせる。コーヒーの苦みはきついままだったが、まろやかさが増して、幾分か味を楽しめるようになった。

「おいしいよ。ありがとう」
「え…あっ、と…はい!お仕事、頑張ってください!」
「みょうじさんもね」

なまえの肩を軽く叩いて、唐沢は給湯室を後にする。
再び静かな廊下を歩きながら、ぬるくて甘くなったコーヒーを一口啜る。
普段は飲まないその甘さは、最初に入れた苦すぎるコーヒーとはまた別の衝撃があるが、それよりも真夜中にこっそり仕事を抜け出してアイスを食べようと機嫌よく笑っていたなまえの顔を思い出して表情が緩む。
このコーヒーよりも遥かに彼女の笑顔の方が甘ったるかったか、と普段の自分では思わないことをぼんやりと考えながら。



一人残ったなまえは苦みの増したバニラアイスを口に運ぶ。冷たいアイスが熱くなってきた顔を冷やしてくれる気がして、本当はもっと味わって休憩時間を謳歌するつもりだったのも忘れる程の早いペースで。
カップの中が空になっても冷え切らなかった顔が落ち着く気配が全くなくて、壁に背を預けてそのままずるずるとしゃがみこんだ。
「ありがとう」と言った唐沢の表情は、確かに甘かった。けれど。

「『甘い』の意味が違うでしょ…」

次会う時にどんな顔をしたらいいのか、それよりも今夜仕事に戻れるだけの冷静さが保てるかどうか。
休憩のはずが、仕事以上の難問にぶつかってしまった。


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