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雨と淑女

街が白く霞むほどの酷い雨だった。恐らく今頃テレビで天気予報をやっていれば、どの局でも判を押したようにゲリラ豪雨だと言うだろうな、と唐沢は濡れて垂れ下がってしまった前髪を一束指先で摘まんで見つめる。
いつものように外回りをしていれば、今朝の天気予報通りにパラパラと雨が降り出したので、鞄の中に忍ばせている折り畳み傘を広げた。台風が来ているらしく、局地的に大雨が降ったり止んだりするとのことなので、大雨になれば折り畳み傘では心許ない。早く駅へ向かおうと急く足が水を跳ねあげ、スラックスの裾を濡らす。少し不快だったが、今となってはまだマシだったと言える。
一気に強くなった雨足に何とか耐えていた折り畳み傘も、強い突風になど到底太刀打ち出来るわけがなく、折り紙でも折るかのような軽やかさで、傘の骨が折れた。そして運が悪いことに、近くに雨宿り出来る場所もなかった。慌てて走って、ようやく小さな公園ではあったが、雨がしのげそうな東屋を見つけて逃げ込んだ。時間にすれば3分もかかっていなかっただろうが、この豪雨だ。全身ずぶ濡れになるには十分過ぎた。
元から防水対策がされている鞄だが、中も濡れて困るようなものはタブレットPCくらいで、こちらも防水対策してあるため、そこまで心配はしていないが、唐沢自身は普段の整然とした姿は完全に崩れてしまった。
重くなったスーツを脱いで、濡れたせいで少し固いネクタイの結び目を緩める。上着を着ていたにも関わらず、べったりと肌に貼り付くYシャツがこの雨の酷さを物語っている。

「困ったな…。」

前髪を摘まんだ指を伝って、髪に染みた雨水がこれ以上は水分を吸いきれないYシャツまで流れていく。
幸い携帯は水没しなかったので、部下に迎えに来てくれるよう連絡を入れる。ボーダー本部の最寄り駅から電車で20分くらいのところだ。車なら1時間以内には迎えが来てくれるだろう。
乾いたベンチに腰を下ろしたまま、白んだ世界をぼんやり見つめる。
雨は好きではない。過去訪れた赤道近くの国で何度もスコールで足止めを食らったことを思い出す。物事がうまく立ち行かないのは、海外だろうが、日本だろうが、歯痒いものがある。勿論それを乗り越えて何とかやり遂げるのが自分の仕事だと、そう思っていたし、実際求められているのもそういう仕事だった。

念のためにと鞄に閉まっておいたお陰で濡れずに済んだ煙草に火をつければ、水煙に更に白煙が重なり、公園の輪郭は完全に失われる。
狭い公園ではあったが、滑り台とブランコが一体になったアスレチックのような遊具が一つ、当然こんな雨の日なので、遊ぶ子供の影はない。はずだった。

「…ん?」

ピンク色のてるてる坊主のようなものが、公園の中を歩いていた。
雨の日に元気だな、と携帯灰皿に灰を落としていると、その明るい色のてるてる坊主は、何を思ったのか唐沢の方へ近付いてきた。その身丈から小学生ではないだろうことは推測出来たが、保護者の姿は見当たらない。
まだ大分残っていた煙草の火を消して、その幼稚な来訪者を迎えた。

「こんな日に何をしているんだい?」

ピンク色だと思っていたそれは赤色のカッパで、ぼたぼたと乾いた地面に染みを作ったが、その子は大して気にも留めていない。

「すーっごい雨だから!見てた!」

フードで髪型までは分からないが、声からして恐らく女の子だろう。無垢な笑みをたたえたまま首を傾げた。

「おじちゃんは何してるの?」
「おじっ…。」

確かに少女からして見れば、唐沢は『おじさん』と呼ばれるには何の疑問もないのだが、きらきらとした目で言われると、なかなか堪えるものがある。
唐沢の一瞬の動揺に、少女はぱちぱちと瞬きをしたので、この動揺が悟られないよう努めて冷静に答えた。

「雨宿りだよ。傘が壊れてしまってね。」

ほら、と骨の折れた折り畳み傘を見せると、少女は片方の手のひらに拳をぽんと乗せて、納得のポーズを見せる。

「だからおじちゃん、びしょびしょなの!」

それから、唐沢に見せびらかすように、赤いカッパの裾をヒラヒラと、雨粒を飛ばしながら揺らした。

「カッパ持ってないからなんだー!」

どうやら少女にとってはカッパは万能の雨具らしい。自信満々の様子に、恐らくその赤いカッパが彼女のお気に入りであることは推測出来た。

「そうだね、私もカッパがあればよかったな。」
「私のはダメだから!」

ぎゅっと自身を抱き締めるようにカッパを守る少女に、唐沢は一頻り笑って、否定した。第一奪ったところで着られるわけがない。
少女は安心したように手を離して、何かを考えるかのように唇を尖らせると、もう一度手のひらを打った。

「おじちゃん、待っててね!絶対だよ!」

そう言い残すと、少女は唐沢の返事を待たずに雨の中に消え、また逃げ込んできた当初の景色に戻る。
もう一度煙草を吸おうかと考えたが、彼女の言い種からすると、戻ってくることは明白だったので、雨が地を打つけたたましい静寂の中、特に何もすることなく少女を待った。

「おーじーちゃーん!」

しばらくして戻ってきた明るい色のてるてる坊主は、手に黄色の棒状のものを持ってきた。

「はい!カッパの代わりね!」

少女は唐沢の手に押し付けるようにそれを渡す。
子供用のかわいらしい小さな傘だった。

「これは貰えないよ。」

唐沢がやんわりと突き返すと、少女は不思議そうに首を揺らした。

「でも傘ないとおじちゃん帰れないでしょ?あとこっちの方があるもん。」

滴を振り撒きながら、お気に入りの赤いカッパを広げる。
迎えが来るから大丈夫だと告げようと思ったが、何となく、この幼い少女の優しさを受け取ってやりたくなった。だが、ただで貰うのは割に合わない。
鞄の中にあるもので、何か彼女にあげられるものはないかと探してみるが、彼女が好みそうなかわいらしいものは生憎持ち合わせていない。お金を渡せばどことなく犯罪の臭いがしてくるので避けたい。
一緒になって鞄を覗き込む少女に、代わりに何かと交換しようと提案してみれば、むっと眉間にシワを寄せて真剣に中を調べ出した。この少女に見られて困るようなものはないし、見られたところで彼女は全く分からないだろう。彼女にとっては面白くないものの方が多いとも言えた。
そんなつまらない鞄の中を、小さな手で真剣に物色する少女を見ながら、唐沢は小さく笑う。

「じゃーこれ!」

少女はすんすんと鼻を鳴らして、手に取ったブルーのハンカチの匂いを嗅いだ。

「かわいくないけどいいのかい?」
「確かにかわいくはないけど、大人の匂いするから!何か『れでぃ』っぽい!」

片言のカタカナに、少女の精一杯の背伸びを感じて、今度は彼女に分かるように笑って見せた。

「既に立派なレディですよ。お嬢さん。」
「そ、そお?」
「ええ。傘のない男に、こうして傘をくれたんだからね。」

少し恥ずかしそうに身体を揺する少女に、軽くウィンクを送れば、顔を赤くして照れた。

「おじちゃんも…かっこいいよ!」

そう言って、赤いの裾を翻し、雨音に足音を隠して少女は走り去った。
この雨の中では見えないかもしれないと思いつつも、少女の背中に手を振れば、遠く霞みピンク色に見えるカッパの袖が大きく振れていた。




「遅くなってすみません。」
「いや、悪かったね、迎えに来てもらって。」

見慣れた姿の部下が、ビニール傘を腕に提げて寄ってきたのを、片手をあげて迎える。

「…それは?」

部下の視線が、鞄とは逆の手に収まった小さな黄色い傘に向かう。
赤いてるてる坊主のような少女が残していった、唐沢には到底似つかわしくない可愛らしい贈り物。

「…私には勿体ない程の素敵な女性からの贈り物、と言ったところかな。」

部下は訳が分からないと言った表情で唐沢を見たが、唐沢は一人静かに笑って、その小さな傘の柄をそっと指で撫でた。


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