archive | ナノ
偽りの純潔

ガラスの風鈴のような白い小ぶりのヒラヒラした花を緑の葉が包む花束を唐沢に渡した女は紅い唇を恍惚と歪めた。

「唐沢さん、もうすぐ誕生日でしょう?」

個人情報を知られて困るような職業では一応ないが、教えた覚えのないものを知られているというのは気分がいいものではない。それでも相手は比較的頻繁に融資をしてくれる企業の若い女社長であったので、唐沢は不愉快な気分を押し込めて、代わりに驚いたような表情を張り付ければ、彼女は驚かせることが出来たと喜んだ。

「どうしてスズランの花束を?」
「あら、スズランって分かるんですね」
「最近仕事で贈りましたから」

先日まで仕事でヨーロッパを回っていた間にフランスで『スズランの日』というものに遭遇した。町中で無秩序に売買されるスズランの鉢植えや花束に驚いていたところ、アジア人が物珍しそうに見ていたからかスズラン売りの一人に声をかけられ事情を説明してもらい、これ幸いと、この後向かう予定であった会談相手の女性に贈っただけであったのだが、彼女の顔がにわかに陰った。

「私には贈っていただけないんですね」

声色だけは冗談めいていたが、表情の不機嫌さはそのままだったので、誕生日にでも贈ると適当に流しておく。
唐沢本人はただ仕事をこなしているだけなのだが、どうにも相手――特に女性の中にはそういう風には受け取ってくれない相手もいる。しかし少しリップサービスをしてやればすぐにでも資金を提供してくれるのも確かなので、あまりないがしろには出来ない。
唐沢の記憶にある限り女の誕生日は当分巡ってこないので、ひとまず食事の約束をしておく。こうして布石を打つことで、今日はすぐに金を引き出せなくても必要になった時に金を出させることが出来る。彼女の場合、それなりの場を設ければ500万は堅い。

「ねえ、唐沢さん?」

別れ際不意に呼び止められて振り返ると、女は相変わらずそのやけに目につく唇で笑う。

「スズランを贈る意味はご存知?」

唐沢にとっては資金提供者であっても、この女にとってはそうとは限らない。
これだからただの取引相手であることを忘れる女は恐い、と思わず漏れそうになる溜め息は心の中だけに留めておく。

「さあ?恥ずかしながら存じ上げません」
「あら、つれない」

背を向けて歩き出した唐沢に向けて、女は愉快とも不快とも取れるような笑みを口元に浮かべた。
唐沢がその女を資金源の一人と見るのに反して、彼女はその有能な男を欲しいと思った。思っていた。追いかけ続けるうちにその好意がずれてきたことに気付いているかどうかなど最早些細な問題だ。

「手には入らないのなら、誰のもにもならなければいいのに」

彼女の呟いた言葉は唐沢の耳には届かない。
唐沢の手元から青々とした香りを仄かに放つスズランの花言葉は『純粋』『純潔』だが、二人の間にそのどちらも似つかわしくなかった。



唐沢が運転する車が赤信号で停まったところ、信号待ちをしている愛らしい姿を見つけたので、唐沢が窓を開けて声をかけると、なまえはきょろきょろと辺りを見回したあと車の運転席から手を振る唐沢に気付いた。

「乗っていくかい?」
「本部行く?」
「行くよ」
「じゃあ乗せて」

なまえは、唐沢の予想に反して後部座席のドアを開けて乗り込んだ。

「助手席に来ないのかい?」
「わっ、かわいい!」

唐沢の言葉を無視して、唐沢が適当に放り投げたスズランの花束を拾い上げたなまえは、鳴らない音を響かせるようにその花をゆらゆらと揺らした。
バックミラー越しにその姿を見ていた唐沢は、思わず緩んだ頬はそのままに声をかける。

「欲しいならあげるよ」
「…いいの?」
「いらないからね」
「ちょっと。ゴミみたいに扱わないでよ」

一瞬輝いたなまえの目が途端に曇って、スズランの花束を庇うように抱えると、唐沢を批難するように唇を尖らせた。

「いらないと思っていたのは本当だ」
「何で?」

なまえはスズランの可憐な花に目を落としてから、このかわいらしい花を捨てようとする唐沢の発想が理解出来ず、怪訝そうに唐沢の後頭部を見つめる。

「さっき融資元の女社長に貰ってね」
「他の女から貰った物を私にくれないでよ」
「おや、焼きもちかな?」
「…そんなんじゃないし」

唐沢の言葉に、なまえは露骨に嫌そうな顔で運転席の背もたれを蹴った。

「人から貰った花を雑に扱うのも、私にはゴミあげてもいいっていうのもムカつく」
「それだけ?」
「それだけ」

フンッと鼻を鳴らして窓の外を向いたなまえに、唐沢は少し苦笑してから、自分で言うことではないけど、と思いつつ事実を口にした。

「これをくれた人は、俺に気があるんだよ」
「自意識過剰じゃないの?」
「そうだったらよかったんだけどね」

呆れで返したなまえだったが、唐沢が溜め息を吐いたことで、あまり良い事情でないことは察した。公言しているわけではないけど、一応唐沢の彼女的なポジションに収められている身としては面白くない。
つつけばリンと鳴り出しそうな花に視線を落とす。この花束が邪険にされない唯一の方法を思い付いたものの、大きな声で言う自信がなくて「じゃあ、私からこれあげる」と小さく呟くと、唐沢はその微かな提案を笑いながら拾い上げた。

「なまえも自意識過剰だね」
「うるさい!」

また背もたれを蹴られたが、それがなまえの照れ隠しであることは十分に分かっているので、唐沢は笑うのをやめなかった。
図らずもなまえがスズランの花束を少し恥ずかしそうにくれるから、先程の『スズランを贈る意味』を思い出す。
スズランの日自体は家族や恋人、親しい人に『幸運が訪れますように』と贈る風習であって、唐沢も営業として『相手と更に親密なお付き合いがしたい』という意味を込めて贈ったのだが、それとは別に女性から男性にスズランを贈ることは『告白』を意味しているらしい。このことをあの女社長も唐沢も知っていたので、唐沢は相手にせず、彼女には「つれない」と言われたのだが、なまえから貰う場合は別だ。
なまえを傍に、恋人という立場で置いておくために費やした時間や労力は今まで付き合った女とは比にならず、ようやく手に入れられたと思ったら全く素直になってくれない。

「ばっ、ばっかじゃないの?!ここ日本だし!そんなんじゃないし!」

今も、女性からスズランの花束を贈る意味を教えたら、耳まで真っ赤にしたなまえは、もう三度運転席を蹴り飛ばした。

「そんなに俺のこと嫌い?」

丁度よく赤信号で停まると、唐沢は首を後ろに向けて、本人も無意識のうちに微笑んで訊ねる。
なまえはその赤くなった顔をスズランの花束に隠すように抱え上げた。

「…聞くな、ばか」

スズランの垣根から覗く赤い耳。あの女より遥かになまえの方がスズランが似合うな、と唐沢は笑みを深めた。
こんなに愛らしいなまえを他の人の見えないところに隠してしまいたい。それこそ、誰の手も届かないところに。
『純粋』『純潔』の花言葉を持つその清廉な容姿に反して、人を死に至らすことのある毒を内に秘めている花がそこにあるのだが、幸いそんな血塗られた狂気をはらむ愛を唐沢は持ち合わせていないので、なまえに何かが起きる前に注意する。

「スズランには毒があるから」

慌てて花束から顔を離したなまえは、まだ羞恥の残る頬はそのままに目を丸く見開いてスズランを見つめる。
触れた箇所は後で洗うように言うと、それが冗談でないと理解してなまえは素直に頷いた。

「猛毒を贈るのが告白なんて…」

なまえの何とも言い難い渋い顔から、スズランの持つ逸話や花言葉を知らないのは明らかで、確かに毒性があることを知ってしまうと好きな相手に毒を盛っているようにも見えなくもない。
贈り物ついでに唐沢が自ら誕生日が近いことを申告すれば、なまえはぶっきらぼうに「知ってる」と返し、それからやや間があった後、顔を窓の外に向けながら控えめに口を開いた。

「スズランの…鉢植えでもあげる」
「猛毒を贈るなんて…って言っていたのに?」

それに対する返事はない。
ただ、バックミラーに映るなまえの顔は少し不機嫌だった。

「…もしかして嫉妬した?」

猛毒を持つ『告白』を意味した花束を、唐沢の誕生日が近い日に好意を込めて贈る女だ。きっと唐沢の隣に並べば美男美女になるだろうことは、なまえにとっては想像に容易い。
唐沢が会う女性は、なまえはその理由までは知らないが、唐沢との交渉を出来るだけ優位に進めたいという魂胆の元選ばれた有能な美人であることが多い。それを表面上知っているから、鬱陶しい程に唐沢に愛されている自信はあっても、その好意を繋ぎ止めておけるだけの自信がなまえにはなかった。
静かに目を伏せ、肯定の意味になってしまうのは分かっていたが、一言「うるさい…」と答えるのはそのせいだ。
そんななまえの葛藤を大体分かっている唐沢は、なまえに怒られないよう密かに笑う。けれど彼女が落ち込んでいる姿が見たいわけでないので、あえて怒られる役目を買って出た。

「一旦家に寄りたくなった」
「いっいいからっ早く本部行けっ!このっばか!」

唐沢の言う言葉の真意を正しく理解して烈火の如く怒り出したなまえの顔が赤いのは、本当に怒っているからではないことを知っているから、唐沢は遂に声を出して笑ってしまった。
スズランが根付く鉢植えが意味するところの『告白』に真実味が増すのには、もう少し時間がかかりそうだ。


←archive

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -