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4月のキャベツ 2


「うー…」

夕焼けに染まった空の下、ぽてぽて歩いて帰る足取りは重い。
朝の部活談義に参加していた一人にくっついてバドミントン部に行ってみたはいいけれど、基礎的な鍛練に素振りと慣れないことをしたから仕方ないとは分かっていても体がだるい…。毎日これだと家事はつらいな…。
ようやく帰りついたマンションのエントランスで、いつも家の鍵を入れている鞄のポケットに手を入れた。

「…あれ?」

他のポケットも見るけれどどこにも家の鍵がない。
とりあえずオートロックのエントランスは中に入っていく人の後ろをついて行ったから通れたけれど、問題は家だ。
玄関まで到達してドアノブに手をかけると、やっぱり、ドンと鍵がかかっている非情な音がする。
困った。家に入れない。
真史くんが帰ってくるのは多分日付が変わる前くらいなので、それまでどこかで待つしか………あっ、多分私の部屋の窓の鍵開いてる!
廊下の端の手すりから顔を出して見ると、細いけれど、壁に張り付けば歩けそうな出っ張りがある。それを歩けば部屋の窓までは辿り着けそうだ。実際にそうして部屋に入った人がいるから、多分私でもできる…と思う。

「よしっ!」

早速手すりに手をかけ、乗り越えようと身を乗り出した。

「待て待て!」
「うゃあっ!?」

後ろから腰に腕が回され、がっちり掴まれて、宙に浮いた状態だった私はそのまま簡単に手すりから引き離される。

「ここ何階だと思ってんだよ」

ふーっと頭に大きなため息が降ってきたのがくすぐったくて見上げると、慶にぃ―真史くんのお弟子さんの太刀川慶兄ちゃん―がちょっと焦った顔していた。

「だって、前に慶にぃやってたから!」
「俺と一緒にすんな」

慶にぃは「中学生になってもまだまだわんぱく小娘だな」なんて言いながら私を床に下ろすと、ポケットから家の鍵を出した。何もキーホルダーとかついてないけれど多分真史くんの鍵だ。

「何で持ってるの?」
「あー………忍田さんに借りた」

鍵穴に差し込んで回すとがちゃりと鳴って、慶にぃがドアノブを引いたらすんなり開いた。

「慶にぃ、ありがとっ!」
「それはいいから」

後ろに立っている慶にぃに振り返ってお礼を言うと、慶にぃは私の肩をぐいぐい押しながら家の中に入ってきた。

「何か食うもんねぇ?」

同時にぐぅと慶にぃのお腹も訴えてきたので、思わず笑って、元気よく返事をした。
部屋に鞄を置いて、空になったお弁当箱だけ持ってキッチンに向かうと、慶にぃが勝手に冷蔵庫をごそごそと漁っていて、慌てて慶にぃの服の裾を引っ張る。

「慶にぃ、やめてよー。恥ずかしいよー」
「えー、いいだろ、別に」
「真史くんに言いつけるよ」
「それは困る」

そうは言いつつも、目ぼしいものは見つけ終わっていて、いくつかお皿を出された。
本当は新しく何か作ろうと思っていたのだけれど、慶にぃは食べられれば何でもいいみたいなので、引っ張り出されたお皿を電子レンジに入れて温めてあげる。
慶にぃが大学生になったからひとり暮らしを始めたのは知っているけれど、自分で料理したって言う話はほとんど聞かない。聞いたとしてもお餅だけ。ある意味真史くん以上に健康が気になる困ったお兄ちゃんだ。

「慶にぃ、ちゃんとご飯食べてる?」
「食ってるぞ」
「お餅って言わないでね」

慶にぃは口を半開きにしたまま固まって、カチカチの表情で「…いろいろだよ、いろいろ」って言っていたから、多分お餅、それもきな粉餅ばっかり食べているんだろうなぁ。
温めている最中のおかずは多分ここで全部食べられちゃうから、他に何かあるか考えてみるけれど、今はお漬け物が少しとご飯しかなさそうだ。
最初に温め終わった煮物を、今朝お弁当に入れた鶏ささみロールの余りを食べながらテレビを見始めた慶にぃに持っていく。

「慶にぃ、余ったご飯持って帰る?お米だけだけど」
「貰えるなら貰う」
「分かったー」

キッチンに戻って、空いているタッパーにご飯だけ詰めて、大きめのハンカチで包みながら考える。とりあえず慶にぃにお味噌汁作ってあげよう。あとは自分の夕飯と、もう作り置きのお惣菜がほとんどないから明日のお弁当用のおかずを作らないと。
お味噌汁用に小さいお鍋に水を入れてコンロに乗せたところで電子レンジが鳴ったので、温め終わったおかずを慶にぃに渡すと、慶にぃは行儀悪く口にご飯を入れたままもぐもぐしながら私に座るように言うので、慶にぃの前に座った。

「なまえは部活とかやらないのか?」

何だか今日はそんな話ばっかりだ。
真史くんから聞いたのかと尋ねたら、慶にぃは意外そうな顔をした。

「何だ、忍田さんにも言われてたのか」
「今日ね、バドミントン部見てきたんだけど、疲れちゃった…」

ふわあぁ…と大きな欠伸が口から出ていく。椅子に座ったら何だか眠くなってきちゃった。

「毎日これだと…家事は大変だよ…」
「別に忍田さんは家事を強いてるわけじゃないだろ」
「そう…なんだけど…」

テーブルに腕を乗せ、そこに頭を置いて、そっと目を閉じる。
私がやりたいって思ってるんだ、って口に出してちゃんと言えただろうか。



ガチャンという音に目を覚まして体をよじるとパジャマにしては動きづらい服と温い布団が擦れた。
…あれ、私いつ布団に入ったっけ?
ばさっと布団を捲って、カーテンの隙間から漏れる光を頼りに自分の格好を見たら学校の制服のままで、胸がちくりと痛む。制服、しわになっちゃったかも…。
それにお風呂だ。お風呂に入ってた記憶がない。それどころかお弁当の準備をした記憶もない。そんなにいろいろやる時間があるのか確認するために時計を見たら、いつもより1時間遅い起床だった。

「ひっ…」

引きつった悲鳴をあげて布団をきゅっと握る。いつも使っている布団とは違う感触にまじまじ見れば、真史くんの使っている薄手の毛布で、また息を飲んだ。
やっちゃった…。

「なまえ?」

コンコンと控えめなノックの後にドアが開く。もうYシャツを着ている真史くんの視線に、理由もなく身じろぎしてしまう。

「あ…う…」
「…どうした?」

真史くんは表情を険しくして私の傍に来ると、ベッドの縁にぎしりと腰かけた。

「何かあったのか?慶か?」
「…慶にぃ?」

何で慶にぃが疑われているのか分からないけれど、もしかして私が寝ちゃった後、慶にぃが真史くんを怒らせるような何かをやったのかもしれない。
私が知っているのは勝手に冷蔵庫を漁っていたことくらいなのでそれだけ伝えると、真史くんは大きなため息を吐いた。

「またか…。後で言っておく」
「うん」

真史くんは私の頭にぽんと大きな手を乗っけると、さっきまでのしかめっ面が嘘のように微笑んで、私の目を覗き見る。

「私はもう仕事に出るが、早めに帰ってくるつもりだから、なまえは気にせず学校に行ってくれ」
「…うん」

小さく頷いた私の頭をくしゃっと撫でると、私にシャワー浴びて行くよう言い残して真史くんは仕事へ出た。
言われた通り温かいお湯を頭から被りながら、さっき脱いだものを放り込んだばかりの昨日から洗ってない洋服が詰まった洗濯機や、ちらっと覗いたキッチンのシンクの中の食器が頭をちらつく。
真史くんの仕事は絶対大変なはずだから、私がしっかり家のことはがんばるんだって自分と約束したのに。小学校のときにはできたことも中学生になってからできないなんて。

「っふ…」

中学生になったら、ひとつお姉さんになれたら、今までよりもっと真史くんの力になれるって思ってたのに。どうしたら私はもっともっと真史くんの力になれるんだろう?
目からぽろぽろ落ちるものをお湯と一緒に流して、ちょっとだけ長居しすぎたお風呂場から出て、少ししわがついた制服に着替えた。

キッチンは昨日慶にぃが使った食器が置いてあって、コンロの上には私がお湯を沸かしてそのままにしてしまった鍋がある。慶にぃにあげるために包んだご飯の入ったタッパーはない。それから、確かに私は買っていない8枚切りの食パンが、少し減った状態で置いてあった。多分真史くんが買ったんだと思う。近所のコンビニで売ってるやつだ。
髪の毛をドライヤーで乾かしている間に、その食パンをトースターで焼く。髪の毛は長くないから、食パンが焼ける頃には髪の毛は大体乾き終わった。少しこんがりしすぎた食パンに冷蔵庫にあったイチゴジャムを塗りたくってかじる。さっき引っ込めた涙がまた出てきそうになったのをぐっと堪えて食べる朝食は全然おいしくなかった。
残っている食パンにレタスと薄切りベーコンを挟んでラップでくるんだだけの簡単なサンドイッチをお弁当にして家を出る。こういう日に限って冷たい風がビュービュー吹いて、どこからか飛ばされてきたピンク色の花びらをもみくちゃにしながらどこか遠くへ飛ばしていく悪天候。学校に着く頃には、乾かしたはずの髪の毛はぐしゃぐしゃに荒れてしまった。

「なまえちゃん、どうした?」
「うん…今日は風が強いね…」
「それもあるけど、体調悪い?何か元気なくない?」

後ろの席の子が、私の頭にくっついていた葉っぱを取りながら、軽く眉間にしわを寄せた。
どうやらしょんぼりしていたのがまだ顔に出ていたらしい。少しだけ下唇を噛んだまま無理やり笑ってみせる。

「体調は悪くないよ」
「ならいいけど…」

人に心配されるようではだめだ。気持ちを切り替えなきゃ。
気分転換だ。何か気分転換…ううん、その前に授業だ。まずは授業がんばろう。

「うん、がんばる!」

気合を入れたつもりだったんだけど、なぜか後ろの席の子には無理してるんじゃないかって心配されてしまった。でも本当に体調は悪くないので、何の問題もなく授業を受けていたら、午前の授業が終わる頃にようやく疑いの眼差しから解放された。
今日のお昼は、自分で作ったけれど、思わずがっかりする寂しいサンドイッチだ。もう少し早くお風呂から出ていれば玉子とか入れられたのにな…って思いながら平べったいサンドイッチを鞄から出したら、隣の席の子に意外そうな顔をされた。

「忍田さん、今日はお弁当じゃないんだ」
「うん…。これじゃあすぐお腹空いちゃうよ…」
「ああ、だから朝から元気なかったんだ」

後ろの席の子はそれで納得していたけれど、どういうことだろう?と首を傾げたら、「なまえちゃん、弁当食べてるときが一番幸せそうだし」って近くにいた人全員に頷かれた。
確かにおいしいご飯は好きだし、ご飯がおいしく作れたときはとってもうれしい。それを真史くんが「おいしい」って言って食べてくれたらもっともっとうれしい。
やっぱり真史くんのためにおいしいご飯を作ってあげたいな…。
手の中にはレタスと薄切りベーコンしか挟まっていないサンドイッチ。レタスとベーコン。葉物野菜とお肉。そう言えばキャベツがなくなっていたんだっけ。この時期のキャベツは特別においしい春キャベツだから、本当は生で食べるのが一番おいしいけれど、今日はちょっと寒いから温かい物がいいな…。

「そうだっ、ロールキャベツだ!」

ぱんっと手を叩いて、早速帰りにスーパー寄って買うものを決める。
何だかみんなが変な顔していたけれど、ロールキャベツ、おいしいよね?


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