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4月のキャベツ 1

玄関の扉の閉まる音が私の起きる合図だ。
もう少し眠っていたい気持ちを布団と一緒にはねのけて、カーテンを開ける。うん、今日もいい天気だ。
ぽやんと外を見ていたけど、時間があまりないのをハッと思い出して、慌てて身支度を終えて、最後に髪の毛を後ろで一つに結んだら、次の準備のためにリビングに向かった。リビングはもう既にカーテンが開けられていて明るいけれど、まだ暖まりきっていない部屋の空気は足元で少しひやりとしていて、この家に私以外の人がいないということを言ってるようだ。
いつものところからエプロンを出して、まだパリッとしている制服の上から被って、自分に気合いを入れてから、昨日の夜にセットしておいた炊き上がったばかりのご飯を解して、朝食とお弁当作りを開始する。
お鍋に水を張って火にかけ、冷蔵庫から昨日の晩に準備しておいた水で戻した干し椎茸を取り出す。
大根はいちょう切り、にんじんは乱切り、椎茸は半分に切って、沸騰したお鍋の中へ醤油、砂糖、みりんと一緒に煮る。椎茸が入っていたボウルは端に寄せて、別の小さなボウルを取り出して今度は乾燥わかめを戻すために水を張り、ついでに小さいお鍋にも水を入れて、一番火力の小さなコンロでお湯を沸かす。
お鍋とわかめを待っている間に二つのお弁当箱を用意する。一つは大きめの長方形のお弁当箱。もう一つは小さめの楕円の二段重ねのお弁当箱。それぞれにご飯を詰めて、少し冷めるのを待つために置いておく。
次に冷蔵庫から、昨日の夜に味噌、砂糖、みりん、調理酒、生姜を混ぜた中に漬けていたさわらを取り出して、クッキングシートを敷いたフライパンの上に、皮を下にして並べ、ふたをして蒸し焼きにする。
それから作り置いたほうれん草のおひたしと、叩いて広げた鶏ささみにチーズとバジルとアスパラガスを巻いて蒸したものを少し厚めに切って、それぞれお弁当箱の中に詰めた。
フライパンの方から香ばしい匂いがしてきたので、ふたを開けて、焼き目をつけるためにさわらをひっくり返し、焼き目がつくまでの間に、お皿の用意と、小鉢に冷蔵庫の中にあるカブの柚子漬けと黒豆の煮物を盛って、軽く焼き目のついたさわらを用意したお皿に乗せて、一緒にリビングのテーブルに運ぶ。
キッチンに戻って、沸騰した小鍋の火を少し弱めてにぼしの粉末出汁と豆腐を切って投入。煮物の方はもう少し置いといた方がよさそうなので、先に使った道具を洗っておく。それが終わった後に、さやえんどうのヘタと筋を取って、くつくつといい匂いがする煮物の中に入れた。

「よしっ」

私が大きく息を吐いたタイミングで、玄関の扉の閉まる音がした。これからシャワーを浴びるから、朝食まではあと15分くらいだ。
小鍋の方に味噌を溶き入れ、沸騰しないように火を最小まで弱め、水で戻したわかめを、先にお椀に入れておく。
フライパンをどけて空いたコンロで長方形のフライパンを温めている間に、卵を溶いて、さっき端に寄せた椎茸を戻した時に出た出汁とボトルの昆布だしをちょっとずつに、砂糖、醤油を溶き卵に混ぜ、今使った菜箸でフライパンの表面をつつく。どうやらいい温度になるまでもう少しだけ時間がありそうなので、先に味噌汁と煮物の火を止め、煮物を器に盛って、いい感じにさやえんどうを飾り、急いでテーブルに置いてくる。
これで朝食の準備はほぼおしまい。
キッチンに戻って、十分に熱されたフライパンに油をひいて、溶き卵を流し込む。プツプツ出てくる大きな気泡を潰して、いいタイミングで手前にくるっと巻いて、また油を引いて溶き卵を入れる。それを何度か繰り返して、何とも微妙な形になっただし巻き卵をなますの上に乗せ、形を整え、少し冷めるのを待つ。これで料理は一通り完了だ。
お弁当に煮物を詰めて、残った煮物は別の容器に移して冷ましておく。この量だと今夜の夕飯にはなくなるかな。
廊下の向こうから、お風呂場の開閉音が聞こえたので、ご飯とお味噌汁もよそって、テーブルに並べた。

さわらの味噌漬け、根菜と椎茸の煮物、カブの柚子漬け、黒豆の煮物に、味噌汁とご飯。
…まあ、及第点かな?

もう一度キッチンに戻って、やかんでお湯を沸かしている間に、だし巻き卵を巻いたまきすを開く。これだけで見栄えが良くなるんだからまきすは偉大だ。ほかほかのだし巻き卵に包丁を入れればでき上がり。ふわっと甘い香りがするけれど、こっちの方は多分及第点にも届いていない。
内心ちょっぴり凹んでいると、私の視界の左側からぬっと手を伸びてきて、今切ったばかりのだし巻き卵が攫われた。

「おいしい」

声のする方を見上げれば、私の頭の上で、丁度だし巻き卵が消えてしまったところだった。

「もー、真史くん、それお弁当のおかずなのにー」

私の文句も聞かないで、もう一切れつまみ上げて、また口の中に消してしまう。だし巻き卵は真史くんの好物だ。
このままだとお弁当の分もなくなっちゃうので、真史くんの脇を潜って、冷蔵庫から真史くんの本来の目的である水を取り出して、目の前に差し出すと、それを受け取ってくれた。これでお弁当用のだし巻き卵は安泰だ。
真史くんが先に席に着いたので、私もエプロンを外して、テーブルに向かった。

「制服で料理していたのか?」

暗に「汚れるぞ」と言う真史くんに、軽く謝りながら席に着く。
それから二人揃って手を合わせた。

「いただきます」
「いただきますっ!」

ちらりと壁にかかった時計を見ると7時ちょっと前で、大体いつも通りの時間だ。
視線を戻してテーブルの向こう側に座る真史くんの方を見ると、髪の毛はタオルで適当に拭いただけみたいで乾いていないし、服装もただの黒の無地のTシャツなのに、姿勢よく黙々とさわらを食べている姿は何だか様になっている。やっぱり日頃から鍛えているからかな。

「…どうかしたのか?」

食べもせずにじっと見ていたせいか、真史くんは不思議そうに私を見た。

「んーん、何でもない」
「そうか」

私もようやく箸をつける。…うん、大丈夫。今日もなかなかおいしくできた!
一人でにんまりしていたら、真史くんが笑った。

「今日もおいしいよ」
「…よかった!」

真史くんがそう言えば、私の中での及第点は満点に変わる。もちろんそれが本当に満点になるわけじゃないって分かっているけれど、今はそれでもいい。だって目の前でおいしそうに食べてくれている人がいるんだもん。それだけで今の私は十分だ。
心の中で笑っていたら、真史くんは少しだけ眉をひそめた。

「でも毎朝料理するのは大変じゃないのか?部活だって入るんだろう?」
「えっと…入らないつもり、です」
「何故?」

真っ直ぐに見つめられて、言葉に詰まる。
真史くんは小さなため息を吐いた後、私が考えていることを分かった上で言う。

「なまえの好きなことをしていい。何も気にする事はないよ」

何も気にしないでと言われても、無理なものは無理。義務教育だってお金がかかることぐらいちゃんと分かっている。それなのに部活まで始めたらもっとお金がかかる。最低限以上の出費は真史くんの迷惑になるから、それだけは避けたい。
何の反応もしなかったからか、真史くんがなだめるように「返事は?」と訊いてきたので、控えめに返事をした。
私が部活を始めたって、習い事を始めたって、真史くんはきっと怒らない。それは分かっているけれど、遠慮しないっていうのは、ちょっとずつ直しているけれど、なかなか難しい。

「…まあ、まずは学校に慣れる方が先だな」

真史くんが話を変えてくれたおかげで、ようやく顔を上げることができた。

「うん…がんばります」

悲しくて嬉しくてごちゃまぜになった心境のまま決意表明したら、真史くんはちょっとだけ目を細めていた。
その後は私も話を変えて、今日の予定について訊ねる。真史くんの返事次第で夕飯が変わるのだ。
真史くんはちょっと考えた後、出るのも遅いけれど、会議があるから帰ってくるのも遅いって言ったので、今夜の夕飯は私の分だけでよさそう。

「遅くにこってりしたもの食べたらだめだからね?」

一応釘を刺しておくと真史くんは苦笑いしていた。

「なまえは手厳しいな」
「真史くんの健康を心配してるのっ」
「まだ気にするような歳では…」

確かに真史くんはまだ31歳だから若いし、日頃から鍛えているけれど、こういうのは決まって後から後悔するものなのだ!
生活習慣病とか、コレステロールとか、内臓脂肪とか、詳しくはよく分かんないけど、こわいものはたくさんある。もし真史くんが不健康を理由に倒れちゃったりしたら、ご飯作ってる係としてはつらいし、何より真史くんが倒れるのだけは絶対にやだ。

「私、真史くんが入院したりするのやだよ…?」

真史くんは少しぽかんとした後、お箸でつまんでいた大根を見つめた。

「もしかしてこの煮物の味付けが少し薄いのは…」
「えっと、お弁当用なの。冷めたらちょっとしょっぱく感じるから薄めにしたの」

一番の食べ頃は今夜かなー、なんて思いながら私もにんじんを食べる。時間が少し経った方が味が染みておいしいけど、今日は朝作ったからまだ味が尖っている。やっぱり前日の夜に作って置いておこう。
次の煮物計画を考えていたら、真史くんは何だか遠い目をしていた。

「ますますみょうじさんに似てきたな」
「…そう?」

『みょうじ』は私の前の苗字で、真史くんが『みょうじさん』と言う時は私のパパのことだ。
パパは世界中を旅して料理人をしているらしい。でも滅多に帰ってこないし、私は連れて行けないし、預ける親戚もいなくて、当時小学生だった私は何だかいろいろあって、忍田真史くんの養子になった。
だから私はもう『みょうじなまえ』じゃなくて、戸籍上私の父親にあたる真史くんの苗字を貰ったから『忍田なまえ』なのだ。

「パパにはまだまだ追いつけないよ…」

追いつけたのならきっと私は『みょうじなまえ』のままだったかもしれない。でもそれは小学生だった頃の私でも、今のぴかぴかの中学一年生の私でも無理な話。それでも追いつきたいから私は料理をするのだ。料理もできないんじゃ真史くんの負担になるだけだし、料理ができればパパは私を置いて行かなかったかもしれないから。

「なまえ」

かたんと空になったお茶碗の上にお箸を置いた真史くんはいつもの柔らかい表情で言う。

「なまえが作ってくれるご飯が、私は好きだ」

真史くんはとっても優しいのだ。昔も今も泣きたくなるくらいに。



朝食の後、自分の分と真史くんの分のお弁当を仕上げて、新品でまだ硬いスクールバッグにお弁当をしまう。
先週から始まった授業も、最初は小学校のおさらいだったけれど、そろそろ本格的に中学生の授業が始まる。小学校の授業よりもぴりりとした緊張感があって、私は結構嫌いじゃないけど、勉強自体はちょっと不安。

「気を付けて」
「うんっ」

玄関まで見送りに来てくれた真史くんにしっかり頷いて、制服や鞄同様まだ硬い靴に足を入れた。

「行ってきまーす!」
「ああ。行ってらっしゃい」

片手を挙げて見送ってくれた真史くんに、小さく手を振って玄関を出た。
中学校は家から少し離れたところにある三門第三中学校だ。多分学区の中ではそこそこ遠い方だと思うけれど、私はこうして歩いて学校に向かうのは好きだ。花が散って大分若葉が出てきた桜の並木道も、ぽかぽか暖かい日射しとちょっぴり冷たい風も、ピカピカのランドセルに黄色いカバーをかけた黄色の帽子の男の子を見かけるのも、春だなぁって感じるから。でも一番は制服着て歩いていると何だかお姉さんになれた気がするからかな。
ちょっとだけ笑ってから、朝真史くんに言われたことを思い出す。真史くんは「好きなことをしたらいい」って言ってくれたけど、中学生になったから何か新しいことを始めた方がいいのだろうか?料理はもっとがんばりたいなーって思っていたけれど。
うんうん悩んでみたけれど答えが出なかったので、学校到着後、私は後ろの席の同級生に何か部活始めるのか訊いてみた。

「とりあえずバスケ部に仮入部するつもりだよ」
「何々?部活?俺野球部入る!」
「私吹奏楽ー」

何故か人がわらわらと集まってきたので、皆の話を聞いていたけ れど、やっぱり皆何か始めるみたいだ。

「忍田さんは考えてないの?」

話が私に戻ってきて、少し眉間にシワを寄せる。
運動部、文化部いろいろあるけれど、もしその中にやりたいものがあるとすれば、昔私が『みょうじなまえ』だった頃、私を育ててくれたおじいちゃんが剣道をやっていてちょっとだけ教えてもらっていたから、剣道には興味があるけれど、多分かなりお金がかかる…と思う。
お金がそんなにかからないならやるんだけどな…と考えていたら、集まってきていた人の誰かがぼやいた。

「俺部活よりボーダー入りてーなー」
「いや、無理っしょ」
「ボーダーって入るのに学力試験とか、適性検査?があるんだよな?」
「そーそー。入隊時期決まってるっぽいから1年じゃまだいないんじゃないの?」
「へー」

皆の話が部活から離れていく。
三門市民ならボーダーのことは誰だって知っている。
界境防衛機関、ボーダー。3年くらい前に突然現れた異次元のモンスター、近界民に唯一対抗できる組織。
三門第三中学校はボーダーと提携している学校だから、ボーダー隊員がいるって話は、入学する前と入学して最初の週にも説明されたから知っている。

「もしかして忍田さんもボーダー入りたい人?」

さっき部活について答えられなかったからか、話題がこっちに振られ、入学前に真史くんに言われたことを思い出して少し焦った。

「私は…考えたこともなかったな」

えへへ、と困ったように笑ったらどうやら誤魔化せたみたいだ。
ボーダーの提携校だから余計になのか、私の『忍田』姓は目立つ…らしい。入学してもう片手で数えられる程度は、私と同じ苗字を持つボーダーの忍田本部長との関係を訊かれて、私は決まって真史くんの言い付け通り「たまたま苗字が一緒なんです」と返してきた。
真史くんの口からは聞いたことがないから、もしかしたら隠しているつもりなのかもしれないけれど、ボーダーの忍田本部長が真史くんであることを私はちゃんと知っている。私から訊けたらいいんだけれど、もし真史くんにとって私の存在は都合が悪いとかだったらどうしよう…って思ったら訊けそうにない。

「なまえちゃんもどっか部活行ってみたら?」
「そうそう。仮入部期間だからどこ行っても大丈夫だし」

皆が口を揃えて言うから、仮入部が何するのかよく分かんないけれど、とりあえずそれに倣ってみることにした。


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